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心の治癒と魂の覚醒

        

仏教がめざす解脱とは


 前回は、苦しみの原因は欲望(執着)であるが、究極の原因は、執着している「我」が存在しているからであり、その我を消滅させることが、苦しみからの解脱であり、仏教がめざしているものであるとしました。つまり、「私は存在していない」という「知恵」を得ることで、「私は存在している」という「無明」を打ち破り、その結果、欲望が消滅し、欲望が消滅することで苦しみが消滅し、輪廻転生もしなくなることが、仏教の目的なのです。
 しかし、「私は存在していない」という知恵を認識する主体は、「私(我)」なはずですから、これは矛盾したことになります。私が存在していなければ、「私は存在していない」という知恵を認識することはできないからです。
 それに対して、仏教(釈迦)は、そのような認識する主体というものの存在は考えないことを貫いています。「否定」ではなく「考えない」のです。
 さて、では、この問題は、どのように決着をつけたらいいのでしょうか?

 釈迦は、机上の思想家ではなく、実践的な思想家でした。苦しみから救われることが最優先課題であり、仏教理論はそのために必要な最低限のものしか説きませんでした。単なる知的遊戯にすぎないようなもの、また、確かめようがないものに関しては、「そんなことを考えて貴重な時間を使っているヒマはない。それよりも、苦しみから救われるために精進せよ」というのが、釈迦の基本的な姿勢です(有名な「毒矢のたとえ」が、こうした釈迦の姿勢をよく示しています)。徹底した合理主義者、実践主義者、これが釈迦です。
 もしも、認識する主体について考えた方が、解脱に役立つのなら、釈迦はそれに関して多くの説教をしていたでしょう。しかし、そんなことをしても解脱に役立たないから、そうしなかったのです。
 なぜなら、認識する主体というのは、決して認識できないからです。
 以前にも似たようなことを書きましたが、認識する主体は、眼にたとえることができます。眼は何でも見る(認識する)ことはできますが、自分自身だけは見ることができません。眼は眼を見ることはできません。つまり、認識する主体というものは、自分以外のものは認識できるが、自分自身は認識できないのです。原理的に不可能なのです。
 ですから、そのような主体について「それはどんなものだろうか?」と考えることは、決してわかるわけはないし、考えるだけ時間の無駄なのです。

 ですから、何か実体があるかのように、その主体について考えるのではなく、その「働き」について論じていけ、というのが釈迦の考え方です。彼は次のように言っています。
 「いかなる苦しみが生ずるのであろうとも、すべて認識作用によって起こるのである。認識作用が消滅するならば、苦しみが生ずるということはありえない」(『スッタニパータ』734)
 「認識する主体が消滅するならば」とは言っていません。「認識作用が消滅するならば」と言っているわけです。
 
 ところが、少し余談になりますが、釈迦がこのように空論を弄ぶことを嫌い、あくまでも実践を重視していたのに、「なるほど、認識作用が苦の消滅につながるのか」ということで、今度は認識作用について、後の学者らが、あれこれ複雑な理論を作り上げてしまいました。それが「唯識」と呼ばれるものです。
 「唯識」は、原始仏教に、(おそらく)ヨーガの哲学などをおりまぜて作り上げた、複雑怪奇な「深層心理学」です。知的遊戯としては面白いです。しかし、仏教というものを難解なものにしてしまった罪もあります。このようなものを学ばなければ解脱ができないということはないし、むしろ、深入りして学ばない方がいいと思います。ますます実践へのエネルギーがそがれ、観念的な人間になってしまう怖れがあるからです。

 さて、話をもとに戻しますが、私たちは「認識作用が消滅する」ということだけを考えればよく、「認識作用の主体が消滅する」と考える必要はなく、というより、そのような実体的なものを考えてしまうと、ある種の妄想というか、幻想のようなものを想定し、見てしまう危険があるので、考えるべきではないのです。
 これを、さきほどの眼のたとえを使って説明すれば、眼は自分を見ることはできませんが、鏡を使えば自分自身を見ることができます。しかし、鏡に映った自分は本当の自分ではなく、いわば虚像です。しかし眼は、その虚像を本当の自分だと錯覚してしまうわけです。
 このような錯覚に陥るので、主体の存在など、考えない方がよいのです。
 似たような言葉で、禅の世界では、「仏を見たら仏を殺せ」と言っています。物騒な表現ですが、その「仏」は本当の仏ではないからです。真の仏は見えないものなのです。

 では、「認識作用が消滅する」とは、いったい、どのような状態なのでしょうか?
 認識作用とは、要するに、通常、私たちが「意識」と呼ぶものです。正確にいえば「意識を意識する働き」です。
 ですから、「認識作用が消滅する」という意味は、「意識を意識しなくなる」ということです。意識そのものは存在しているわけです(もし意識そのものが消滅したら、個としての存在が消滅したことになってしまいます)。
 私たちの内面に注意を向けると、さまざまな雑念、思い、イメージ、妄念、欲望といったものが次から次へと湧きあがってきています。私たちはそうしたものを「自分(我)」と錯覚しています。
 しかし、そうしたものを意識しないようになれば、実質上、「自分」は存在しないのと同じことになります。
 さきほどの眼のたとえでいえば、鏡に映った虚像を見ている眼が、まぶたを閉じたようなものでしょうか。そうすれば、自分の姿は見えなくなります。
 すると、「私はいなくなった」と認識するでしょう。
 一方、眼は自分を見ることはできず、見えないということは、主観的には、存在していないのと同じことですから、「私はいなくなった」と認識している「私」も、存在していないことになります。
 しかし、客観的には、主体は存在するわけですから、「私はいなくなった」という認識作用はあるのです。正確にいえば、「(もともと)私はいなかった」ですが。
 一方、ここで奇妙な現象が同時に生じます。
 「私はいない」という認識をしている主体は存在するわけで、それは「私」であるのですが、そのときの「私」は、特定の個人としての「私」ではなく、ある種の普遍的な「私」なのです。そのため、悟った人は「私はいない」と認識すると同時に、「すべてが私である」という認識をするのです。その「私」こそが仏性ではないかと思うわけです。
 釈迦は悟りを開いたとき「天上天下唯我独尊」と言ったそうですが、これは釈迦個人が「私だけがただ一人偉いんだぞ」と言ったのではなく、すべての人に宿っている「仏(という私)」が偉いんだぞと言ったのではないかと、私は推測しています。つまり、仏性を持っている私たちすべての人が(本質的には)偉いのだということではないかと思うわけです。
 そして、「すべてが私である」という認識に至ったならば、何が生じるかというと、「生きとし生けるものに対する慈悲」ということになります。

 ところで、「私はいなかった」という認識作用が、仏教で言う「知恵」なのですが、ならば、いったいどうしたら、その知恵が生じるのでしょうか?
 具体的な修行は八正道ということになるのですが、八正道を行ずると、なぜ「私はいなかったのだ」という認識作用(知恵)が生じるのでしょうか?
 次回は、この点について、さらに深く考察してみたいと思います。
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コメント

全ては空であると意識できるようになり、それまでの執着も消え、我というものも消えた時、そこに自分の本性があるのかと以前書きましたが、まさに今回その回答をいただいたように思います。

『仏性』
私もこのことを感じていました。どこまでも自分は消えないが、普遍的な自分というものを見出すことはできる。

このことに考えが及ぶようになって、私は「仏に生きる」あるいは「神に生きる」ということを思うようになりました。

我を消滅させ、もはや自分は存在しないはずなのに、そこにすべてである自分が存在する。この感覚もようやく本当にわずかですが感じられるようになりました。

また常々思っていたことも先生は仰ってくださっている。それはあまりに仏教は複雑化してしまったということです。これは本当に何とかならないものなのかという思いでいっぱいです。

今回の記事を拝読し、やはり釈迦自身の教えを自分のものとしていくことの大切さを改めて感じました。

ありがとうございました。
2018-07-15 Sun 08:08 | URL | とおる [ 編集 ]
斉藤啓一です。とおる様、いつもご熱心に読んでくださり、ありがとうございます。「空」の感覚がわずかといえども感じられるようになってこられたとのこと、よかったですね。釈迦の教えは、奥が深いとはいえ、いわゆる学問のようなものではなく、もともとは素朴なものであったと思います。
このシリーズも、まだもう少し続きます。よろしくお願い致します。
2018-07-15 Sun 21:24 | URL | [ 編集 ]
 斉藤先生、こんにちは。
>「生きとし生けるものに対する慈悲」

 ここから入っては駄目ですか?我の消滅が難しそうなので・・・。
2018-07-16 Mon 17:31 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございました。
難しい問題ですね。「我」がある限り真の慈悲はありえないので、慈悲の実践イコール我の消滅ではないでしょうか。
愛や慈悲はともすると我(エゴ)の格好の言い訳になる可能性があります。そこのところを気をつければ、慈悲の実践による道もありかなと思いますが。
2018-07-16 Mon 21:57 | URL | [ 編集 ]
 回答ありがとうございました。
2018-07-17 Tue 19:23 | URL | ワタナベ [ 編集 ]

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