心の治癒と魂の覚醒

        

修行の本質について 2

 しかし、一所懸命がんばっても、覚醒できなかったらどうでしょうか? 実際、その可能性の方が高いと思うのですが、それはなんと辛いことでしょうか。
 残業でくたくたになり、入浴して遅い夕飯を食べ、あとはもう、ゆっくり疲れを癒したいという欲求にも負けず、じっと我慢して瞑想したり、呼吸法をしたり、アーサナをし続けてきたのに、それらがすべて無駄な努力になってしまうのです。
 こんなことなら、ビールでも飲みながらスポーツ・ニュースを見ていた方がよかったと後悔するかもしれません。食べたいものを遠慮なく食べ、趣味や娯楽に時間を使えばよかったと嘆くかもしれません。あるいは、出世に必要な資格取得のための勉強にでも費やした方がよかったと思うかもしれません。
 覚醒の道とは、このように、ある種の大きなギャンブルといえるわけです。途中でやめるくらいなら、最初からやらない方がましです。途中でやめたら、それまでの修行に費やした時間と労力はまったく無駄になってしまうからです。死ぬまで続けても覚醒できないかもしれないのです。
 覚醒の道というものは、一か八か、すべてか無か、です。修行に費やした膨大な人生の時間が、一瞬にしてパーになるかもしれないのです。
 そういうことになっても、静かに潔くその結果を受け入れる覚悟がなければ、覚醒の道など歩まない方がいいと思うのです。

 しかし、覚醒という、神に近づく聖なる道を、誰にも認められるわけでもなく、毎日こつこつと歩んでいるその姿は、すでに神であり、仏であるといえないでしょうか?この暗く混迷した世の中における、光であるといえないでしょうか?
 仏教の目的は「成仏」することです。成仏とはもちろん、死ぬことではなく、仏に成ることです。しかし、人間の本質は最初から仏なのですから、「成る」必要はないわけです。もうすでに私たちは仏なのです。
 ただ、仏であることに気づくこと、目覚めさえすればいいのです。しかし、もしその人が仏と同じ生き方をしていたなら、本人は仏であることに気づいていてもいなくても、第三者にとっては、その人はまさに仏そのものではないでしょうか。
 覚醒のための修行とは、仏の生き方、神の生き方そのものだと思うのです。表現を変えれば、仏や神のマネをすることです。それを完全にマネして生きる人は、世界にとってはまさに仏であり神そのものではないでしょうか。覚醒していようと、していまいと、関係はありません。

 つまり、私たちは覚醒の修行をしているときには、すでに神となり仏になっているわけです。そのような生き方をすれば、その影響力が周囲に放たれないということは決してありません。家庭でも職場でも、社会の到るところでも、その人の存在からは神的な影響力が放たれ、人や社会を変えているのです。これは疑いようもない事実だと思います。
 ですから、覚醒の修行が成就するかどうか、と気にするべきではないのかもしれません。人間はすでに神であり仏なのですから、実は修行なども必要なく、このままでいいともいえるわけです。ただ「このままでいい」ということがわからないから、修行をしているわけです。
 覚醒の修行をするときは、自分以外のなにものかに「成ろう」と修行するべきではないと思うのです。すでに神であり仏なのですから、それ以外のものに成ってしまったら、仏でも神でもなくなってしまうことになります。
 修行の目的は確かに「覚者に成る」ことではありますが、覚者とは「気づいた人」のことですから、「気づいた人になる」ということですが、しかし私たちが日常でなにかに気づいたとき、「自分は気づいた人になった!」などと表現しません。つまり、「覚者に成る」という言い方は、不自然なのです。

 したがって、成るのではなく、「ありのままでいよう」という発想で修行するべきだと思うのです。ありのままが神であり仏だからです。
 修行というものは、交換条件の取引ではありません。「これだけ修行をしますから、その報酬として覚醒を与えて下さい」というものではないと思うのです。愛が、交換条件の取引から生まれるわけではないように。「私はあなたを愛したい。そのために修行しなければならない」などという人はいません。愛は修行の末に生まれるものではないからです。
 神も仏も、その本質は愛だといわれます。であるならば、修行というものは、何かに成ったり、愛を獲得するための手段などではなく、目的そのものだということになります。
 つまり、修行とは、愛することなのです。瞑想も、呼吸法も、アーサナも、すべては愛の表現にすぎないということです。そういう発想で行うとき、すべては本当の意味で「修行」になるのではないでしょうか。これが、修行の本質であると思うのです。
 人生というものは、どれだけ成功したとか、財産を作ったとかで価値が決まるのではなく、いってみれば「愛した者勝ち」なのです。
 毎日こつこつと、覚醒の修行を続けていくこと、すでにそれだけで、人生の勝利者であるといえるのではないでしょうか。

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コメント

斉藤先生 こんにちは。

そうですね。
自分の本質である愛に目覚め、他者にも同じ愛を発見し、その愛を一瞬一瞬表現できるようになるために修行をするのだ思います。

この世に生まれるときに、まず自分の本質を忘れ、他者と自分のつながりを忘れ、おまけに生まれてからだけでなく、過去生からのエゴもまとって生きていかなくてはなりません。
そのエゴと自分は同一だと思い込んでいます。
そんな状態で、自分の本質を思い出すことは容易ではありません。エゴが考えることが自分の本心だと疑うことなく感じてしまいます。

本心からどんな瞬間も「エゴは幻で、自分も他者も本質は愛で一体だ」と感じ、神が自分を通して行動するように行動することが、できるのでしょうか。

できるできないにかかわらず、そう生きるしか正しいと感じないから頑張るしかないと言い聞かせています。自分のエゴは自ら選んだ成長のための課題だから。

でも、正直、辛いです。辛いのは、上記のことに価値を見出したら、他のことに価値を見出せず、かといって修行をしてても目に見えないことはかりなので、
やりがいと喜びを感じるのは難しく、それさえ無意味に思えるときがあるからです。

ただ目的に達するためだけではなく、修行を通して、自分と他者に確かに貢献しているという手ごたえというか、無意味ではないと感じることのできる人生にしたいですが、どこへ進めばいいのか、進んでいるのか、他になにもできないのかと悩んでしまいます。

2010-07-06 Tue 16:43 | URL | WakayamaKajimoto [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、ありがとうございました。
おっしゃる悩みは、およそすべての求道者が抱えてきた悩みではないかと思います。
覚醒の道というのは、真夜中に、しかも濃い霧が立ちこめたなかを、一歩一歩歩くようなものではないでしょうか。
しかし、いつか夜も霧も明けるときが来ると信じています。どんなこともそうですが、希望というものが大切ではないかと思うのです。辛いときは、つい「この状態がいつまでも続きそうだ」と思いがちですが、そんなことはないと思います。
あせらず、希望をもって歩んでいきたいと思うのです。
2010-07-06 Tue 21:07 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
こんにちは斎藤さん。
覚醒の修行はギャンブルですか・・・。しかし、覚醒できなかったとしても、そのために費やした時と努力に応じた「強い想い」が来世に持ち越されるのではないでしょうか?私はそう考えることにしています。

そしてWakayama Kajimotoさん、神に恋をしてみてはいかがでしょうか?私は今、神への感謝が情熱に、そして淡い恋心に近い状態に育っています。
そして毎日少しでもいいから、神に一歩でも近づきたいと願いながら修業しています。

さらに結果をあまり欲さないように心がけています。己を磨くのも、嫌な相手にも奉仕をこころがけるのも、神への愛の表現と考え、ただ黙々と毎日修行するのが私の一生の目標です。
2010-07-07 Wed 20:28 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、ありがとうございました。
「覚醒の修行はギャンブルだ」といのは、いわんとする意味を強調するために、こういう表現を使いました。もちろん実際には、おっしゃるように、まったく無駄ということは決してないと思います。それどころか、その恩恵は計り知れないものがあると思っています。
来世での覚醒修行がずっと容易になることはもちろんですが、もはや地上に生まれ変わらず、霊界で修行して覚醒できるようになるかもしれません(こういう人をラストタイマーと呼ぶらしいです。詳しいことはホームページに書いてありますが、そのうちこのブログでも取り上げたいと思っております)。

それと、神への愛、これはとても重要だと思うのです。前にも書きましたが、西洋の聖者は、ヨーガのような行法などしていないのに、ひたすらなる神への愛だけで覚醒しているのです。
私個人の意見としては、テクニックとしての行法だけをいくらしても、神への愛がなければ、覚醒できないと思っています。言い方を変えれば、テクニックは神への愛を呼び覚ますためにあるとさえ、いえるのではないのかと。
しかし、テクニックはそのまま行じればいいので簡単ですが、神への愛は難しいですね。ピンとこない人が多いのではないかと思います。
その点、神への愛がめばえつつあるというのは、本当にすばらしいことだと思うのです。それこそ、過去生での修行の賜なのかもしれません。
2010-07-07 Wed 21:13 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
こんにちは。

神への愛について、コメントをありがとうございました。

ワタナベさん、神に対する情熱と淡い恋心とは素晴らしいと思います。そのように言われてみて、自分には神への愛、感謝がないことに気付きました。なんと!!

私は、神への愛というよりも、自分を完成させたい気持ちが大きいようです。
先生の7日のブログにあるように、私も、人は神であり、神が愛を体験、表現するために遣わされたと思っています。だから、地上で愛を表現して生きることが、神すなわち私たちの喜びであり、究極の目的であると。

神への愛を感じるよりも、自分の中の神の愛(無償の、寛容の愛)を呼び覚ますことに情熱を傾けています。
神への愛を感じたり、人に愛に基づいた奉仕をするところまでいかず、自分のなかのエゴを消し、本来の愛で自分をコントロールできるようにしたいという思いばかりであることに気付きました。
自分の中の愛を呼び覚ますには、神や他者への愛の行動がないといけないのに、そこが抜けています。

どこかで、神への愛というと、自分の内でなく、外に神という対象があって、自分とは違い、神は偉大で畏敬するのみの存在で、神に愛してもらえるようによい人間になるというような考えのように思われて、それは違うと思っているので、そのために神への愛がピンとこないのかもしれません。

神への愛とは、どんな気持ちでしょうか?

ひとつ、思いあたりました。

先の投稿で私が書いた、「どんなに覚醒から遠い言動をしても、大きく寛容で無償の愛で見守り、必要であれば手を差し伸べ、導いてくださる、決して見捨てない」

ことに対する神への感謝と愛ですね。
それでも感謝はわかりますが、愛は難しいです。
私の愛は総じて奥深くに埋もれてしまっているように思います。。

私は、自分がいつも穏やかで安らいだ、満ち足りた状態でいたいと
いうことばかりに目がむいているようです。
もちろん、自分を幸せに満たさないと人に愛は送れないのですが、
力の入れ方が偏っているようです。バランスが、いまいち、よくわかっていないのですが。

おかげさまで、気付きました。
神への愛、他者への愛について、自分に問うていこうと思います。

ありがとうございます。

2010-07-08 Thu 10:28 | URL | WakayamaKajimoto [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、ありがとうございました。
こうした、内省的な気づきのプロセスそのものが、私にはとてもすばらしいことのように感じました。
神様はこの文章を読んで、喜んでおられるのではないかと思いました。
2010-07-08 Thu 19:41 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
「真実への旅」を読ませてもらいました。読み終わってからの主な変化は、好きだったマンガやゲームに興味が持てなくなってきたという事です。マンガの登場キャラクターたちは皆、オーバーアクションで、眠っている反応のオンパレードであり、シュミレーションにしろロールプレイングにしろ、電子上の殺戮行為の繰り返しでしかありません。もう、そういったホビーの魅力が色あせてしまい、手につきません。これからは何かを作り上げる趣味に移行するでしょう。
2010-07-09 Fri 14:11 | URL | mal [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、ありがとうございました。
また『真実への旅』を読んでいただき、心よりお礼申し上げます。
そうですか。マンガやゲームというバーチャルな世界には、もう関心がなくなり、何かを作り上げる趣味に移行されるのですね。それはすばらしい!
何かを作り上げることは、それなりに大変なこともあるかと思いますが、人生における充実感という点では、マンガやゲームよりもずっとすぐれていると思います。それに、創造活動そのものも、意識覚醒には有効に働きますし。
ぜひ、がんばってください。期待しています。
2010-07-09 Fri 19:46 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]

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