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心の治癒と魂の覚醒

        

八正道の本質


 前回は、「私は存在していない」という認識が、仏教がめざす「知恵」であることを述べ、そのために八正道が用意されているというところで、話が終わりました。
 では、なぜ八正道を実践すると、こうした知恵が生じるのでしょうか?
 いうまでもなく、八正道は知恵に至るための手段です。つまり、八正道を実践することで知恵が生じてくるのです。
 ところが、原始経典を注意深く読んでいくと、気になる文面がときおり見られるのです。
 それは、「八正道を実践するには知恵が必要だ」と言っているのです。
 これは、奇妙なことです。知恵が必要だから八正道を実践しようとしているのに、その八正道を実践するには知恵が必要だといっているわけです。
 こうなると、いわゆる「たまごが先かニワトリが先か?」という問題になってきます。「八正道がなければ知恵がない、知恵がなければ八正道がない」といっているのです。
 また、釈迦はこうも言っています。
 「欲望を滅するのは知恵であるが、知恵を得るには欲望を滅せなければならない」
 これも同じことです。八正道の中身を分析すると、知恵を得るための修行と、欲望を滅するための修行の二本立てになっていることがわかります。

 これが何を意味するかというと、八正道というのは「手段」であると同時に「目的」でもあるということです。
 私たちは何かを達成するには、そのための手段を一生懸命に実践することで達成できるのだと考えています。確かに、物質的な領域に関してはその通りです。医者になるには一生懸命勉強しなければなりません。お金持ちになるには一生懸命に働かなければなりません。
 しかし、悟り(覚醒、解脱)の世界は、この原則が当てはまらないのです。
 これが非常にわかりにくいところであり、おそらく仏教理解における最大の難所です。
 「悟りを開くには悟らなければならない」と言っているようなものだからです。
 悟れないから悟りを開こうと努力しているのに、「悟りを開くには悟らなければならない」などと、分けのわからないことを言っているわけです。
 釈迦が、「私の悟り得た法(真理)は、絶妙で奥が深く、万人の理解するところではない」と言ったのは、おそらく、こういうところではないかと思います。

 このことは、まず、こう解釈できると私は考えています。
 まず、ある意味では、最初の頃は、「悟ったマネ」をすることです。悟った人は欲望を野放しにしないでしょう。なので、欲望を少しでもなくそうとします。欲望を少しでも減らすと、知恵が少し生まれてきます。
 なぜなら、欲望は知恵の発生を妨げているです。「欲に目がくらんだ」という言葉がありますが、欲望があると正常な判断力や直観力が鈍り、欲望が「私」であると錯覚させているのです(無明)。つまり、知恵が発揮できないのです。
 そこで、その欲望という障害が少しでも取り除かれると、そのぶんだけ知恵が生まれてくるのです。言い換えれば、「私(エゴ)」の意識が希薄になってきます。そして、知恵が生まれてくれば、欲望もさらになくすことができるようになってきます。そして、欲望をさらになくすことができるようになると知恵もさらに生まれてきます。……というように、欲望の消滅と知恵の発生とは相互的に影響し合いながら、しだいに高度なものになっていくのです。
 八正道というのは、そのようなプロセスで構成されているのです。
 
 欲望なく知恵があれば、それは覚者です。
 八正道を真に実践できる人は、覚者だけです。
 ですから、すでに述べたように、八正道というのは、手段であると同時に目的なのであり、目的というのを別の言葉で表現すると「お手本」と言ってもいいかもしれません。つまり、八正道を実践することは、覚者をお手本にするということであり、要するに覚者の「マネをする」ということになるわけです。
 そして、そのマネを徹底的にどんどん行っていけば、いつの日かホンモノになっていくわけです。
 いくら医者のマネをしても、医者にはなれませんが、覚者の場合は、八正道にしたがって、覚者のマネをすれば、しだいに欲望(エゴ)の消滅と知恵の生成が生じて、しだいに覚者に近づいていき、ついにはホンモノの覚者になれるわけです。

 仏教において「知恵」というのは、さまざまな段階がありますが、おそらくその究極的な知恵は、「手段と目的は同じである」ということを理解できる知恵のことです。
 欲望がある限り、そのような知恵、すなわち、手段と目的が同じであることは、認識できません。欲望は、「目的を達成するために手段に訴える」からです。
 逆に、「手段と目的は同じである」という知恵を得れば、「目的を達成するために手段に訴える」という欲望は消滅します。知恵の獲得と欲望の消滅は、両輪のような関係なのです。

 覚者に成ることを、仏教では「成仏」と言います。死ぬことではありません。仏教とは「仏に成る教え」のことです。
 しかし、成ろうとする限り、成れないのです。なぜなら、仏は「成る」ものではないからです。自分は仏であることを認識することです。そして仏というのは、欲望が作り出す「私(エゴ)という幻想が消え、「私は存在していない」と認識した人のことを言うのです。
 
 ですから、仏に成ろうとしてはいけないのです。つまり、自分を否定して何か自分とは違う別の存在に成ろうとしてはいけないのです。仏に成ろうとするのではなく、「仏であろう、仏として生きよう」ということに意識を向ける必要があるのです。
 そのような修行法、これが八正道の本質です。「修行」というより「生き方」ととらえた方が正しいでしょう。だから手段であると同時に目的(お手本)ということになるのです。

 この生き方を続けていくと、しだいに「私」という意識(幻想)が希薄になってきます。すべての人のなかに「私」を感じるようになります。そしてついには、すべての人が「私そのもの」なんだと感じるようになります。「すべての人が私」というのは、言い換えれば「(特定の)私というのは存在しない」という認識です。これが仏教で言う「知恵」です。
 私が存在しなければ、欲望は存在せず、欲望が存在しなければ、苦しみが消滅します。
 電車で足を踏まれたら怒りがこみ上げてくるのは、自分が存在する(と錯覚している)からです。私というものは存在しないと認識している人は、足を踏まれても、まるで他人の足が踏まれたような感覚でしかないので、怒りは生じません。こだわりがないのです。
 一方で、すべての人が私だという観点で言えば、他の人が苦しんでいるのは、私が苦しんでいることになりますから、ほうっておけません。自分を助けるように人を助ける生き方をするでしょう。これが慈悲であり、いわば、真実の愛です。
 こだわりのなさと、真実の愛(慈悲)、これが、覚者の特徴です。

 以上のことは、とても重要です。
 なぜなら、修行者を自認するほとんどの人たちが、物質的な発想、つまり、「成る」という発想で修行しているからです。これは、医者や弁護士といった、世間的に尊敬されるような職業人に成ろうとするのと、本質的に同じであり、エゴの動機に基づくものです。覚者に成ろうとしてはダメなのです。「覚者になって人から認められよう、人を支配しよう、賞賛されよう」といったエゴの動機が、どうしてもそこに働いてしまうからです。
 その発想で修行をがんばればがんばるほど、悟りを開くどころか、あやしいカルト教団の教祖みたいに、支配欲と傲慢さに満ちた「俗物」に成り下がってしまうのです。悟りを開こうと修行をしている人は「俗物」なのです。俗物である限り、覚者とは言えません。

 悟ろうとするのではなく、悟った生き方(のマネ)をすること、すなわち、毎日の生活を、ただ清らかに美しく生きることー覚者がそうであるようにー、そのような生き方そのものに全身全霊を投入すること、これが真の修行であり、八正道の実践であり、真の仏教徒なのだと、私は考えています。
 言い方を変えれば、「修行」は「訓練(トレーニング)」ではないということです。訓練は何かになることを目的としていますが、修行は、ただ修行を行うこと自体が目的になっているのです。
 もちろん、悟っていないのだから、悟った生き方はできないでしょう。しかし、そのとき「ああ、私は悟った生き方ができていない。私はダメだなあ」と思ったとしたら、まだ「俗物」です。「悟りを開いた自分は偉い、そんな偉い存在になりたい」という傲慢さがあるのです。まだそこには「自分(私)」が存在しています。「私」へのこだわりがあります。
 そのような傲慢さ、つまり「私」へのこだわり、私という意識がなければ、悟った生き方ができようとできまいと、ただとにかくひたすら淡々と、悟った生き方をすることだけに意識を向けて日々を生きるはずです。

 たとえるなら、(真の)ピアニストが、美しい音楽を響かせることだけに意識が向いているのと同じです。そこに自意識はないはずです。つまり、「私は美しい音楽を響かせている」という意識はないでしょう。
 生き方というのは、音楽のようなものであり、私たちは音楽家と同じなのです。真の音楽家は美しい音楽を表現させることだけに意識が向けられており、「すばらしい音楽家として認められよう」とは、考えたりしていないでしょう。
 八正道という美しい「音楽」を表現して生きる者、これを仏教徒と言うのです。
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コメント

今回の記事は、特に「生き方」を教えられた思いでいっぱいです。

先生のこのシリーズで、釈迦の教えは勿論、仏教に関する考え方が随分と整理できてきました。このようなブログに巡り会えたことに、心から感謝いたします。

これからもよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
2018-07-22 Sun 07:45 | URL | とおる [ 編集 ]
斉藤啓一です。とおる様、コメントありがとうございました。
仏教というのは、ある種の「生き方」ではないかと思います。なので、今回、生き方を学んでいただけたことは、私としてもとても嬉しい限りです。
次回は、八正道の中身について具体的に解説する予定です。
引き続き、よろしくお願い申し上げます。
2018-07-22 Sun 21:15 | URL | [ 編集 ]
 こんにちは、斉藤先生。
 なるほど、あわよくば覚醒しようなどと目的意識をもって演奏(生活)してはいけないということですね。それこそ無心に釈迦の模倣をしなさいというわけですね。八正道の更なる記事を楽しみにしています。
2018-07-23 Mon 12:34 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございます。おっしゃるとおりだと思います。「無心に釈迦の模倣をする」、まさにこれが仏教ですね。
2018-07-24 Tue 08:32 | URL | [ 編集 ]

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