八正道2018-07-28 Sat 14:08
前回は、八正道とは悟りに至る「手段」であると同時に、生き方の「目的(手本)」であることを述べました。 では、具体的に八正道の内容とは、いかなるものなのでしょうか? まずは、釈迦が八正道について語った説教をそのまま引用してみます(実際には、八正道は最初から体系化されたものではなかったようです。後の学者が断片的に説いた釈迦の説法をまとめ、体系化して、釈迦が語ったものとして経典が書かれたというのが真相のようです)。 今回は引用だけで長くなってしまうので、私のコメントは差し控えます。まずは釈迦の言葉をよく読んで、自分なりに考えてみてください。 聖なる八支の道(八正道) かようにわたしは聞いた。 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なるアナータピンディカ(給孤独)の園にましました。 その時、世尊は、もろもろの比丘(びく=弟子)たちに告げていった。 「比丘たちよ、いまわたしは汝らのために聖なる八支の道を説こうと思う。ひとつ、それを汝らのために分析してみようと思う。よく注意して聞くがよろしい。そして、よくよく考えてみるがよろしい。では、わたしは説こう」 「大徳よ、かしこまりました」 と、彼ら比丘たちは世尊にこたえた。世尊は説いていった。 「比丘たちよ、いかなるをか聖なる八支の道というのであろうか。いわく、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。 比丘たちよ、いかなるをか正見というのであろうか。比丘たちよ、苦なるものを知ること、苦の生起を知ること、苦を滅することを知ること、苦の滅尽にいたる道を知ることがそれである。比丘たちよ、これを名づけて正見というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正思というのであろうか。比丘たちよ、迷いの世間を離れたいと思うこと、悪意を抱くことから免れたいと思うこと、他者を害することなからんと思うことがそれである。比丘たちよ、これを名づけて正思というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正語というのであろうか。比丘たちよ、偽りの言葉を離れること、中傷する言葉を離れること。麁悪(そあく)な言葉を離れること。および雑穢(ぞうえ)なる言葉を離れることがそれである。比丘たちよ、これを名づけて正語というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正業というのであろうか。比丘たちよ、殺生を離れること、与えられざるを取らざること、清浄ならぬ行為を離れることがそれである。比丘たちよ、これを名づけて正業というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正命というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の聖なる弟子があり、よこしまの生き方を断って、正しい出家の法をまもって生きる。比丘たちよ、その時、これを名づけて正命というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正精進というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の比丘があり、いまだ生ぜざる悪しきことは生ぜざらしめんと志を起して、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいは、すでに生じた悪しきことを断とうとして志を起し、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいは、いまだ生ぜざる善きことを生ぜしめんがために志を起し、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいはまた、すでに生じた善きことを住せしめ、忘れず、ますます修習して、全きにいたらしめたいと志をたてて、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。比丘たちよ、その時、これを名づけて正精進というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正念というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の比丘があって、わが身において身というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世問の貪りと憂いとを調伏(ちょうぶく)して住する。また、わが感覚において感覚というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世問の貪りと憂いとを調伏して住する。あるいは、わが心において心というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。あるいはまた、この存在において存在というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。比丘たちよ、この時これを名づけて正念というのである。 比丘たちよ、では、いかなるをか正定というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の比丘があって、もろもろの欲望を離れ、もろもろの善からぬことを離れ、なお対象に心をひかれながらも、それより離れることに喜びと楽しみを感ずる境地にいたる。これを初禅(しょぜん)を具足(ぐそく)して住するという。だが、やがて彼は、その対象にひかれる心も静まり、内浄らかにして心は一向(ひとむき)となり、もはやなにものにも心をひかれることなく、ただ三昧(さんまい)より生じたる喜びと楽しみのみの境地にいたる。これを第二禅を具足して住するという。さらに彼は、その喜びをもまた離れるがゆえに、いまや彼は、内心平等にして執着なく、ただ念があり、慧があり、楽しみがあるのみの境地にいたる。これを、もろもろの聖者たちは、捨あり、念ありて、楽住(らくじゅう)するという。これを第三禅を具足して住するというのである。さらにまた彼は、楽をも苦をも断ずる。さきには、すでに喜びをも憂いをも滅したのであるから、いまや彼は、不苦・不楽にして、ただ、捨あり、念ありて、清浄なる境地にいたる。これを第四禅を具足して住するという。もろもろの比丘たちよ、これを名づけて正定というのである」 (阿含経典 相応部 四五 八 「分別」) スポンサーサイト
|
コメント
こんにちは、斉藤先生。
ついに八正道ですね。身を引き締めて読みましたがかなり難しいです。解説おねがいします。 2018-07-28 Sat 16:57 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございます。どれだけ解説できるか自信はありませんが、次回、楽しみにしていてください。
2018-07-28 Sat 22:36 | URL | [ 編集 ]
八正道のこの記事を拝読し、先生が仰るようにじっくり考えてみたいと思いました。
実は、八正道を詳細には把握しておらず、常々私は何かあったときには「常楽我浄」と「七仏通誡偈」を意識するようにしていました。八正道に触れたことはあったのですが、緻密にして難解、正直ちょっと無理だと身を引いておりました。 ここでこうして先生にご提示いただけたのも、この八正道に深く触れる縁起なのかもしれませんね。 更新を楽しみにしております。 ありがとうございました。 2018-07-29 Sun 07:37 | URL | とおる [ 編集 ]
斉藤啓一です。とおる様、いつもご愛読ありがとうございます。
「八正道」はいわば仏教のエッセンスですから、さすがに奥が深く、私ももちろん、それを完全に把握しているわけではありません。ただ、それでも多少なりともその一端をご紹介できればと思っております。引き続き、よろしくお願い申し上げます。 2018-07-30 Mon 19:35 | URL | [ 編集 ]
|
コメントの投稿 |
|
トラックバック |
| ホーム |
|