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心の治癒と魂の覚醒

        

八正道の分析②


 引き続き、残りの八正道である「正念」と「正定」(次回)について書いてみたいと思います。
 「正念」について、経典にはこう書いてあります。
 「わが身において身というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世問の貪りと憂いとを調伏(ちょうぶく)して住する。また、わが感覚において感覚というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世問の貪りと憂いとを調伏して住する。あるいは、わが心において心というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。あるいはまた、この存在において存在というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。比丘たちよ、この時これを名づけて正念というのである」
 仏教経典のスタイルとして、くどくどと語句を繰り返して書いてありますが、簡潔にまとめるなら「身(肉体)、感覚、心、存在」を観察して、この世間の貪りと憂いを克服せよと言っているわけです。

 仏教では人間という存在を「色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)」と呼んでいます。「色」とは物質のことですが、特に人間に当てはめた場合は肉体という意味でとらえます。「受」は感覚作用、「想」はイメージ、「行」は、難しくいうと、深層意識の力動的潜在勢力、ひらたくいえば衝動のことです。「識」とは意識のことです。つまり色受想行識とは、肉体と心理作用のことです。
 これが「身」と「感覚(受)」と「心(想行識)」の意味です。そして「存在」というのは、文字通り、この地上の一切の事物のことです。
 これらはすべて無常であり、無常であるとは苦をもたらすということですから、釈迦は、肉体は無常であり、心(受想行識)は無常であり、すべての存在は無常であるということを片時も忘れないように、常に注意深く観察して「目覚めておれ」と言っているのです。つまり、「肉体は無常である。心は無常である、いっさいの存在は無常である」と、常に意識していることです。これは、最近流行している「マインドフルネス」と似ています。違う点は、「無常である」という自覚をもって自己観察をするということです。

 しかし私たちは、すぐに肉体や心や地上の存在に心を奪われ、そこからもたらされる快楽に惑わされ、欲望を出して、そうしたものに耽溺してしまいます。しかし、そうしたものは無常ですから、いずれ苦しみに変わります。苦しみを味わうとこりごりして反省するのですが、また欲楽に惑わされ、同じことを何回も何回も繰り返しているのです。
 そういうことを避けるために、常に意識を肉体と心とすべての存在とに注意を向けて観察し、「すべては無常なんだぞ」と自分に言い聞かせるようにせよと、このように釈迦は説いているのです。
 たとえるなら、外からウイルスが侵入しようとすると、すぐに免疫細胞が働いてウイルスをやっつけますが、これと同じように、肉体、心、存在は「歓びである」という気持ちが芽生えようとしたら、すぐにそれを打ち消して侵入を防ぐようにするわけです。
 これが「正念」の修行法です。正念とは「無常観」という、ひとつの「観想法」ともいえるかもしれません。
 真の仏教徒は、こうしたことを常に意識して生きているので、言い換えれば、常に瞑想状態で生きているので、物静かで浮ついたところがなく、慎ましいのです。仏教徒のくせにおしゃべりで、軽口をたたき、やたらに騒ぎ、興奮し、心があちこち定まらないとしたら、それは本当の仏教徒とは思えません。「無常観」を常に観想していたら、そのようなことはできないはずだからです。
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真の仏教 | コメント:4 | トラックバック:0 |
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コメント

 こんにちは、斉藤先生。
 無常観をもって注意深く日々をすごそうと思いました。ありがとうございました。
2018-08-19 Sun 18:51 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございます。最初から無常観は、なかなか厳しいかもしれません。最初は、自分の内面を見つめて、煩悩(怒り、邪欲、嫉妬、その他)が起きていないかどうか、注意深く日々を過ごすところから始めた方がよろしいのではないかと思います。
2018-08-19 Sun 20:33 | URL | [ 編集 ]
日々の生活の中で、嫌なことや悩み、苦しみが生じるとわかると、すべては「空」「無」であるという意識を持つようにはなりました。

それで問題が解決するわけではないのですが、平静を取り戻すことは何とかできるようになってきました。

しかし、仏教はやはり目の前の現実を苦とし、そこから如何に抜け出すかという印象を受けますね。他の教えのようにすべてを肯定的に受け入れるといったものとはやはり違い、余計負担を感じることもあります。

ありがとうございました。
2018-08-20 Mon 07:39 | URL | とおる [ 編集 ]
斉藤啓一です。とおる様、コメントありがとうございました。「すべては無常である」と「すべては空である」と思うことは、完全に同じではないにしてもかなり近いと思います。いずれにしろ、釈迦の教えは、一般の人から見れば、かなり悲観的で厭世的であることは否めません。それがはたして現代人に適した教えかどうかは別として、これが釈迦の考え方であるのが原始仏教です。
2018-08-20 Mon 20:34 | URL | [ 編集 ]

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