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心の治癒と魂の覚醒

        

正定について


 前回の「正念」から、少し間があいてしまいました。申し訳ありません。
 さて、今回は八正道の最後に位置する「正定」についてお話いたしますが、これは瞑想行のことです。釈迦はこの正定について四つの段階を説いています。初禅・第二禅・第三禅・第四禅です。

 初禅について、経典にはこう書かれています。
「もろもろの欲望を離れ、もろもろの善からぬことを離れ、なお対象に心をひかれながらも、それより離れることに喜びと楽しみを感ずる境地」
 初禅は、四諦のなかの最初の「苦諦」と関係するもので、「無常なる現世の欲望は苦しみのもとだと頭では理解している。しかし正直、まだそれに惹かれてしまう。それではよくないと自分を戒め、欲望をなくすように修行に邁進していこう!」という、そのような意気込みというか、修行に向けて邁進していく覚悟ができた境地のことだと考えてよろしいと思います。

 第二禅については、こう書かれています。
「対象にひかれる心も静まり、内浄らかにして心は一向(ひとむき)となり、もはやなにものにも心をひかれることなく、ただ三昧より生じたる喜びと楽しみのみの境地」
 第二禅は、無常なる現世の欲望に惹かれる心がなくなり、欲望や雑念に振り回されず清らかとなり、精神を集中している状態です。精神を集中すると、現世の欲望とは違う精神的な歓喜や安楽が生まれてくるのですが、そこまで至った境地のことです。

第三禅については、こう書かれています。
「その喜びをもまた離れるがゆえに、いまや彼は、内心平等にして執着なく、ただ念があり、慧があり、楽しみがあるのみの境地」
 第三禅では、内から湧き出る精神的な歓喜でさえも、それは(無常である)心がもたらしたものである(つまり苦しみの原因になる)として、それに対する執着も捨て、そうして念(自分の心を見つめる意識)と慧(真理を観じる意識)があり、安楽の境地に至るというのです。

 そして、第四禅については、こう書かれています。
「楽をも苦をも断ずる。さきには、すでに喜びをも憂いをも滅したのであるから、いまや彼は、不苦・不楽にして、ただ、捨あり、念がある、清浄なる境地」
 そして最後の第四禅では、そうした安楽な境地に対する執着さえも捨て、苦も楽も感じず、ただただいかなる執着も捨て去る意識と念の意識だけがある清らかな涅槃の境地(解脱)になるというわけです。
 仏教では智慧によって煩悩を打ち破るとされているので、実際の修行は第三禅までであり、第四禅は、第三禅が成就された結果としてのゴールと見なすことができるかもしれません。

 解説すると、ざっと以上なのですが、これだけでは、よくわからないと思います。
 そのために、多くの学者がこの正定について、難解な見解を展開させてきました。
 たとえば、こうした段階を経るにつれて「自意識」が消滅していくというのです。すなわち、最初は「自分という意識」がある状態だが、次には「自分という意識がない」状態になり、ついには「自分という意識がない、という状態さえもない」状態になると言っています。難しい言葉を使うと「我想」、「非我想」、「非非我想」です。
 私はこの正定については、ヨーガの理論と基本的には同じではないかと考えています。
 ヨーガの目的は「心の作用を止滅させること」にあります。その「心」を、わかりやすく「エゴ」と呼んでもいいでしょう。私たちの本性は仏性なのですが、エゴという汚れにおおわれているのです。だから、エゴを捨てる必要があるのです。私たちの心に湧いてくるあらゆる思い(それが苦しみであれ喜びであれ、その他なんであれ)は、すべてエゴから来ています。
 だから、非常に簡潔に言ってしまうと、正定というのは、「捨てて捨てて捨てまくれ!」という行法であると、私は考えています。
 仏性を「得る」必要はないし、その発想は間違っています。もともと仏性は持っているからです。仏性を妨げているものを、ただ捨てればいいのです。そうすれば自然に仏性は現れます。これが仏教の解脱理論です。
 難解な理屈を好む学者からすれば、仏教をこんな簡単な言葉で片付けるとはけしからんとなるかもしれませんが、実際、仏教というのはシンプルなのです(奥は深いですが)。
 繰り返しますが、正定の行というのは、最近はやっている「断捨離」と同じです。心のなかにあるあらゆるものを断捨離し、最終的には煩悩の土壌である心を断捨離するのです。
 そのために、表向きは精神集中の瞑想が行われるのですが、精神集中することが目的なのではなく、あくまでも仏性以外の余計なものを捨てることなのです。

 八正道については、語ればきりがないのですが、これまでの解説で、少なくともエッセンスだけは押さえたつもりです。これで物足りないという人は、仏教書を買い求め、難解な(ように見える)教理を学んでもよいかもしれません。
 しかし、仏教(釈迦)の目的は、人を学者にすることではありません。あくまでも、「苦からの解脱」です。そのためには、実践するしかありません。実践してこそ、八正道の本当の意味が、単なる机上の空論ではなく、リアルな感覚としてわかるのです。

 宣伝になってしまいますが、今月から私が始めようとしている哲学&瞑想教室「イデア ライフ アカデミー」では、現代の私たちが日常生活を送りながら実践できるレベルにアレンジした「八正道」を紹介し、共に行じていこうと考えています。テクニックだけの瞑想をしていては、へんな方向にそれてしまいます。そうならないために、八正道というシステムのなかで瞑想をする必要があるからです。

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コメント

仏教はシンプルである。私もそう思います。というか、そうでなければ一般人に教えとして広まるわけもないのです。

捨てて捨てて捨てまくる。私は身内の死を境に、自分が死んだら何を持っていけるのだろうという疑問とともに、空・無を意識するようになりました。死んだらこの世にあるものなど何も持っていけはしない。すべてはエゴから生じたもの。なら、何を持っていけるのだろうと。

先生には、本当に良い教えをいただきました。とても勉強になりました。ただただ感謝です。
これからも学びの場として、拝読していきたいと思います。ありがとうございました。
2018-09-08 Sat 08:09 | URL | とおる [ 編集 ]
斉藤啓一です。とおる様、いつもご丁寧なコメントありがとうございます。次回は現代人にとっての原始仏教と大乗仏教というテーマで述べてみたいと思います。引き続き、よろしくお願いいたします。
2018-09-08 Sat 20:02 | URL | [ 編集 ]
 こんにちは、斎藤先生。台風の次の晩に大きな地震に見舞われてしまいました。私の部屋も物が大量に落ちてきてごちゃごちゃしております。揺れた瞬間、死の覚悟をしてしまいましたが、結果それほどの被害をださず、停電も一日ぐらいでした。非常についているとプラス思考で思いつつ、亡くなった方々の冥福をお祈りいたします。
2018-09-11 Tue 10:49 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、このたびは大変でしたね。お亡くなりになられた方、被災された方には心痛みます。今後、完全に復興するまでにまだ時間がかかりそうですが、どうぞおっしゃるようにプラス思考で、無理のない範囲でがんばってください。
2018-09-12 Wed 15:55 | URL | [ 編集 ]

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