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心の治癒と魂の覚醒

        

人間の救われがたさ


 さて、これまで「真の仏教」について述べてきました。ここで言う真の仏教とは、まとめるなら、釈迦が説いたオリジナルな教えであり、しかもそれは八正道である、ということです。
 しかし、ここで大きな問題が生じてきます。
 釈迦が説いた八正道を、そのまま実践することは可能か? ということです。
 ほとんど不可能です。現代人には絶対に不可能だ、と言い切ってもいいでしょう。
 たとえそれを実践できたとしても、仏教の目的である解脱を体得できるとは限りません。釈迦の時代でさえ、釈迦というすぐれた指導者のもとで八正道を実践しても、解脱できなかった人の方がおそらくはるかに多かったのですから。

 まして、大昔の日本のように、文字もろくに読めない知的レベルの低い民衆や、生きるために働くだけで精一杯の過酷な生活を考えたら、釈迦の仏教(原始仏教)など、実践できるはずもないのです。悪政に虐げられ、不正がはびこり、飢饉にでもなれば容赦なく命を落とすような、そんな厳しい時代に、八正道の実践など無理です。
 「真の仏教」では、八正道が実践できないということは、救われないということですから、絶望的だということです。
 しかし、人間は苦しいときには、たとえウソでも心の支えがなければ生きていけません。

 なので、仕方なく、いわゆる「仏様」というものを生み出さざるを得なかったのです。「仏様に祈れば救ってくださるよ」と言うしかなかったのです。
 しかし、実際に仏様に祈っても現実生活がよくならないことは、あきらかなエビデンスとして突きつけられますから(つまりウソだとバレてしまいますから)、「あの世で極楽にいけるよ」と言ったのです。あの世のことなど、誰にも証明できませんから。
 そうして、「仏様におすがりすれば、死後に極楽に行けるから、それを心の支えに、今は我慢して生きなさい」と説くしかなかったのです。
 それが大乗仏教です。

 「おすがりすれば死後に極楽に連れていってくれる」などという、何の根拠もない、私から言わせれば単なる作り話、ウソや妄想を説くしかなかったわけです。しかし、たとえそれがウソであっても、人間は苦しいときにはそれを心の支えにして、慰めを得たり、耐えて生きる力を得ることもできます。何の救いもないと言われたら、絶望で生きていけません。
 なので、そのような時代に生まれた宗教家が、そうしたことを説きましたが、私は彼らを責める気はありません。それしか他に道がなかったからです。たとえそれがウソで民衆をだますことになったとしても、まったく何の救いもないのだと突き放すよりは、ずっとマシだからです。

 しかしもちろん、大乗仏教では救いは得られません。慰めや、はかない希望を与えることができるだけです。徹底的に信仰を深めれば、「救われた気持ち」くらいの心境になるかもしれませんが、そこまで達するのは容易ではありません。しかもそれは単なる思い込みです。言葉は悪いですが、ある種の「洗脳」と言ってもいいかもしれません。しかし、釈迦がめざしていたのは、「救われた気持ち」になることではなく、リアルな救いです。

 しかし、現代でも、事情はあまり変わっていません。飢饉で死ぬことはほとんどありませんが、自然災害で家も財産も家族も失い、仮説住宅で余儀なく生活をさせられることはあります。過労死するほど毎日残業してクタクタの生活。政治も官庁もウソばかり、スポーツも学術界もウソばかりです。カネとコネ、権力やパワハラがものを言う世界です。不正をしても要領よく立ち回った人が出世して金持ちになって人を見下し、正直者がバカを見るような、そんな世の中です。
 要するに、汚濁の世界です。「末法の世」と言ってもいいでしょう。
 それでも、本来は、宗教の世界だけはそうした汚濁とは無縁の領域であるべきはずなのに、その宗教が腐っているのです。
 スピリチュアルなども腐っています。「念ずればすべて自分の都合のいいように事が運ぶ」などと言っている「引き寄せの法則」などは、人間の弱さや依存心、怠惰な心を利用してカネを巻き上げる人たちの格好の商売手段になっています。人々は「らくをしていいめをみたい」という乞食根性が捨てきれないのです。だから、むかしからインチキ商法などたくさんあって事件になっているのに、いまだにだまされる人が後を断たないわけです。

 念ずればすべて自分の都合よく物事が運ぶ」などということはありません。ところが、「引き寄せの法則」でセミナーをしたり本を書いている人たちは、そう言われたときのための言い訳をちゃんと用意しています。「念じても願望が叶わないのは、潜在意識の奥まで念じていないからだ。どこかにそれを否定する気持ちがあるからだ」と言うのです。いったい、そう言う根拠は何でしょうか? 仮にそれが事実だとして、ではどうしたら潜在意識の奥まで念じることができるのか、という点では、明確な回答をしていません。
 これは、「人生でよいことが起きないのは、あなたの信仰心がうすいからだ」と、宗教家がよく言う常套句と同じです。
 魔法ではあるまいし、念ずれば人生すべてが自分の都合よく運ぶ、願望が叶うなどということを信じている、いい歳をした大人がたくさんいることに、私は驚きを禁じ得ません。

 しかし、それも、大乗仏教と同じ理屈なのだと思います。
 たとえウソでも、この生きにくい時代にあって「念ずれば願望が叶うんだ」と思えれば、それが慰めや生きる支えになるのでしょう。
 とはいえ、いずれそのことがウソだとわかるときがきます。念じて願望が叶うことは、たまたまあるでしょうが、なんでもかんでも念じれば叶うわけではないことを思い知らされます。そうして、しだいに現実というもの、その絶望感へと沈んでいくか、あるいは、グルや救世主を名乗るカルト教団など、別の「夢想」を与えてくれるものを求めたりするわけです。

 悲しいことに、この汚濁の世界で清らかに生きることは、至難の業です。
 みんながカンニングしているのに自分はカンニングしないという学生は、成績も悪くなり、よい就職先もないでしょう。カンニングしたずるい人間が出世するのです。学者になっても、巧妙に他人の論文を盗んだり、カネさえだせばどんな粗末な論文でも掲載してもらえる学術誌に投稿して「実績」をあげ、教授になっていくのです(もちろんすべての教授がそうだと言うわけではありません)。最近、話題になっているスポーツの世界でも、カネやコネやパワハラによってまともな判定がなされていません。文科省の役人が自分の息子を裏口入学させています。
 こんな世界で、清らかに生きることは、バカを見ることになるのです。

 しかし、釈迦の説いた仏教というものは、要するに「清らかに生きる」ということなのです。もしこの汚濁の世界で清らかに生きようとしたら、まず出世や成功は望めません。カネも入りません。不正なことをして上にあがった腐った連中からバカにされ、蔑まれるという屈辱に耐えなければなりません。また、そういう「さえない男」であれば、結婚相手を見つけるのも楽ではないでしょう。
 そういうことを覚悟してまで、清らかに生きようとすることは、無謀ともいうべきことです。バカのすることです。そんな人は、この世にどれだけいるでしょうか?
 それよりも、耳に甘いウソを平気で口にする人の方に、人気もカネも集まっていくのです。
 宗教もスピリチュアルも、汚染され、商売道具、ビジネスになっています。
 真実に生きてバカを見るか、ウソに生きて腐って生きるか、この二択を迫られているという点で、人間のおかれた状況というものは、救われがたいのです。

 個人的な話になりますが、私は子供時代から、無謀でバカなので、ウソや幻想で生きることはできない人間でした。たとえば小学生の頃から、教師の言動にウソがあるとそれを指摘したりしていました。「俺はえこひいきはしない」と言う教師がいて、その教師がどう考えても、ある生徒をえこひいきしているとしか思えず。念のために他の友達にも意見を聞いてみると同じだったので、私はその教師に面とむかって「先生は、えこひいきをしている」と言いました。その後、私はその教師から憎まれたり無視されたりするようになりました。正直であるということは、この世では損をする、バカをみる、ということに直結するのです。
 しかし、人間の性格というのは変わらないのでしょう。
 もうすぐ還暦だというのに、ウソのない清らかな求道の場所を作りたいという思いから、「イデア ライフ アカデミー」を立ち上げました。会費も3千円で、諸経費などを考えると、かなりきつきつで、金儲けにはなりません。
 オープニング記念レクチャーを今月22日と23日に始めますが、予想通り、参加者は今のところ少数です。しかも、最初は好奇心で来ても、しだいに来なくなってくると思います。
 しかしそれでもかまいません。なぜならこれは、この汚濁の社会に対する、私のささやかな抵抗だからです。
 将来、ウソや金儲けにまみれている社会&宗教&スピリチュアルの世界にあって、斉藤啓一というバカな人間が、ウソや金儲けとは無縁の清らかな求道の場を作っていたなあと、誰かの記憶に留まってくれれば、それでいいと思っています。たとえそれが、たった一人であったとしても。
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真の仏教 | コメント:6 | トラックバック:0 |
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コメント

先生、このブログに出会えたことは、私にとって生涯の支えとなるでしょう。身内の死に際し、仏教そのものに疑問を感じ始め、葬式仏教に辟易しながらも釈迦そのものの教えを知ろうと思い、原始仏教に触れました。私には常にこんなはずはないという思いが今の仏教に対してあったのです。

それが先生のこのシリーズを通して、本当に胸のすく思いでいっぱいです。真の仏教に対する心の整理がつきました。この上ない感謝でいっぱいです。こういう方もいるんだなという正直な思い、そういう方にこうして巡り合えただけ、私も少しは成長したのでしょうか。ありがたいことです。

私も私なりの信念をもって、己を貫いていきたいと思います。

教師に歯向かってでもおかしいことはおかしいと言う。私も中学時代のことを思い出しました。

改めて心より感謝申し上げます。
2018-09-15 Sat 08:32 | URL | とおる [ 編集 ]
斉藤啓一です。とおる様、心励まされるあたたかいお言葉、誠にありがとうございます。今後もますます精進してまいります。よろしくお願い申し上げます。
2018-09-15 Sat 21:03 | URL | [ 編集 ]
 こんにちは、斎藤先生
この嘘だらけの世界で正直であろうともがく方がいることは励みになります。どうか変わらない先生でいてください。
2018-09-18 Tue 12:52 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤先生の正義に対する熱意と愛がしみじみ伝わってきて、特に今回の記事は私の体験と重ねあわせて書かずにはいられない気持ちになりました。読者の方と少しでもシェアできたらうれしく思います。


人生の半数を信仰してきた宗教の脱会から覚醒に至るまで

震災のあった1999年に、私の身の上にかなしいできごとが起こりました。テレビの画面に映る震災の濁流に私も呑み込まれてしまいたいそんな日々でした。

この頃、私はある宗教の信者でした。その宗教はレイキで病気を治すのが主で、母はこのレイキを使って子どもだった私によく手当をしてくれました。母の宗教をそのまま引きついで苦しい時の神頼み的な存在でしたが、ところが、今から30年前からその宗教に傾倒していくことになります。
姉が地域の拠点になるほど熱心で、その影響もあって私は献金と参拝と奉仕に身を捧げました。献金は小さなマンションを買えるくらい。
信仰が深まるにつれ、霊的な恐怖と怖いビジョンが襲ってきて、ほんとうなら精神科にかかっていたい状態であったのですが、一方では私の夢が順調に育ち、私は恐怖の闇に引っ張られたり、夢の実現の光に引っ張られたりしながら、まるで恐怖と光が同時進行するかのように、次第に恐怖が薄らぎ、夢が実現しました。
その夢とは、私の考案したアイディアが商標特許を取得し、商品化され、たちまちメデイアの話題になりました。宗教をやっている人に言わせると、あなたが成功するためには浄まらなければならなかったのよ、と。宗教の方は月2回からそのうち月1回の参拝になりました。
本来の私はクラシックギターが好きでコンサートを開いたりしていました。しかし、講演などであちこちに呼ばれて、宗教も楽器も私から離れでいきました。


やっと、本題にはいります。
1999年、かなしいできごとによって私は再び、宗教にすがることになります。先祖の罪や穢れ、こうすれば先祖がよろこぶとか、こうすれば魂が救われるとか、こうすればあの世のいいところへ行けるとか。私はご神体をあたらしく買い替え、御霊様が宿り、霊界につながっているという神体にただただ手を合わせました。

そんなある日、友人と会ったとき斉藤ひとりさんのメッセージカードみたいなものをもらったのです。そのカードには「春風のように心地のよいものがほんとうの答えです」と書いてありました。
春風のように心地のよいもの・・・・?? 何? こういう心地のよいものってどこにあるの?
斉藤ひとりさんてどんな人?  私は斉藤ひとりさんの本を求めて近くの書店に行きました。斉藤ひとりさんの本のある場所は三階の奥のコーナーでした。そこは今までに見たこともない神様仏様系の本がびっしり。
「神との対話」え? 神さまと対話できるの? 
自分の神さましかこの世に存在しないと信じ切ってきた私は、まるで別の世界に迷い込んできたような・・。ふと、棚の隅にある本に目が止まりました。「意識の宇宙のアリス」著者・野口けんぞう。この時はじめて「意識」ということばに引きつけられました。意識が現実をつくる。え?  現実は神様が決めているじゃないの???
私の首にはずっと宗教のお守りがぶら下がっていて、落としたらおカネを払って浄めます。過去に何回か落として、そのたびに怖くて怖くてお浄めに走ったものです。何かストーンとおりたような・・・。不思議なくらい私のこころは落ち着いて、腕時計をはずすような感覚で首に下げているお守りを外しました。

そして、宗教を脱会する気持ちになったのです。
今でも忘れません。3月の寒い曇った日でした。脱会届けを出しに行きました。ところが布教所の建物に入るのが怖くて怖くて、あの黒い恐怖が襲いかかってきたのです。恐怖はとっくに消えたはずなのに・・・。私は空を見上げ、「地獄に落ちてもいい、今の私が地獄にいるのだから」といいきかせて建物に入りまし。
そして、神様のお写真と対面しました。最後のごあいさつをしました。すると、あ、この人は私なんだ、と。一瞬そう思えたのです。すると、神様の写真から解き放つようなエネルギーを感じたのです。
神の支配下→ 神と対等→ 神から解放  こんな感じです。 
そして、建物から外に出ると、ビルとビルの間の狭い灰色の空から明るい光がさしてきて、その光がパーと広がり私はその光に包み込まれて浮き上がったような感覚になりました。


私は宗教を卒業したのです。
「意識の宇宙のアリス」を読みながら、この世は幻想とは何かを、とことん解明することになります。もう誰も頼らずに自分で、思いつくすべての感覚を使って探求しました。数年後、林の木々たちの葉が細かな光になってキラキラ輝き、美しい幾何学模様を描いて、風に揺れるといくつもの曼荼羅模様を描くのです。
この世は光です。自分もすべてが光。
斉藤先生の本「悟りを開くためのヒント」に「すべてが愛しい! この世界のすべてが」と書いてありますが。まさしくそうです。街を歩く人たちの動き、地面に映るそれぞれの違った影・・・ただただ美しい。
すべてが光だと知った私は、魂が宿って霊界につながっている神棚を風呂敷に包んで、そっとゴミ置き場に出しました。長年使ったまな板をゴミに出すのも、神棚も、私にとって愛しい存在には変りません。


再びギターを手にして~神秘的な不思議な音が・・・、
長年押入れにしまってあったギターをこころの慰めにと思ってギターを出して、古い弦をぼろ~と弾くと、なんとも不思議な音が・・・。その不思議な音色に導かれるようにギターの練習をしました。その不思議な音の正体は「失われた古代の音、愛の周波数」だそうです。そして、天使の楽器ライアーを購入して、美しい弦楽器を奏でる日々となりました。
ふと、あらたな疑問が。
ちょっと待ってよ。自分が肉体のない光なら、口から出ることばはどこからするの? 楽器の音はどこからするの。そんなある日、私の口から出る言葉もギターから出る音も、0.5秒くらい前に音が顕れる、ノンデアリテイとかのあれです。それを数回体験しました。私の関心は音と波動に向かいます。導かれるように、私は次に進むことになりました。気功の世界でした。


さて、ここまでは、私の体験をお話ししましたが、読者のみなさんはすでにスピリチュアルの探求をされていると思いますので、次にエネルギーについて少しふれておきたいと思います。気功でわかったのですがすべてがエネルギーです。「恐れを手放す」「かなしみを手放す」はスピリチュアル用語になっていますが、あれも、エネルギーです。スピリチュアルの探求は意識・エネルギーの探求でもあります。
斉藤先生は私の体験以上に、そして、オウム真理教のことも本に書いていますので、エネルギーのことも熟知されているはすです。だからこそ、イデアライフアカデミーを主催されたのだと思います。


以上に誤字・脱字があったらすみません。

2018-09-19 Wed 09:09 | URL | ハーブの花 [ 編集 ]
とおる様

はじめまして
こんなはずはない、とずっと思っていらしたとのこと。私もこんなはずはないの戦いでした。とおる様のコメントに共感して「宗教の脱会から覚醒にいたるまで」を投稿するきっかけにもなりました。


こんなはずはないを、やっぱりこんなはずはなかった!、心底湧き上がる感情をことばにして言ってください。それがエネルギーです。ネガティブがちょっとでもあってはダメですよ。こんなはずはないの壁がスーと開かれます。これも覚醒に近づくための大切な一歩です。

2018-09-19 Wed 09:34 | URL | ハーブの花 [ 編集 ]
斉藤啓一です。
ワタナベさん、コメントありがとうございました。もうこの生き方は変わらないでしょうね(笑)。この道を貫きます。

ハーブの花さま、貴重なご体験を紹介してくださり、ありがとうございました。私はもちろん、読者の皆さんにもおおいに参考になったのではないでしょうか。
以前にも書きましたが、宗教というのは、建築の「足場」のようなものです。自己を確立させたら、それは不要だし、むしろ邪魔であると思っています。
引き続き、よろしくお願い申し上げます。
2018-09-19 Wed 18:52 | URL | [ 編集 ]

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