心の治癒と魂の覚醒

        

カルマ・ヨーガによる愛の実践

 一般の人は、ヨーガというと、柔軟体操のようなものだとか、呼吸法や瞑想法などを思い浮かべると思います。しかし、それはいくつかあるヨーガのなかのひとつの局面にすぎません。
 そのなかで、「カルマ・ヨーガ」と呼ばれるものがあります。カルマとは「行為」のことですから、「行為のヨーガ」ということになります。
 私は、このカルマ・ヨーガを非常に重要なものと考えており、クンダリニーやチャクラを健全に目覚めさせるには、このカルマ・ヨーガを徹底的に行じていかなければならないと思っているのです。
 覚醒していない人の行為の99%くらいは、「自我(エゴ)」を土台として営まれているのではないかと思います。すなわち、それは執着であり、打算であり、利己主義です。残りの1%くらいは、(魂からくる)純粋な愛を土台として行動しているかもしれません。
 カルマ・ヨーガは、この愛を土台とする行為を通して、覚醒と解脱に向かおうとするものです。愛を土台とした行為とは、愛を動機とすると言い換えてもいいでしょう。

 愛を動機とした行為とは、具体的にどのようなものでしょうか?
 それはいかなる報酬も見返りも求めず、世のため人のために奉仕する行為です。たとえばボランティアのような活動がそうですが、そればかりではありません。仕事であっても、その動機がお金や出世といった自分のためではなく、仕事を通して他者に奉仕するという愛の動機に基づいてなされたなら、それはまさにカルマ・ヨーガとなるのです。
 いかなる報酬も見返りも求めないというのは、要するに、結果にこだわらないということです。人に何かしてあげたのに、感謝もしてくれない、それどころか恩を仇で返されたといって、気分を悪くしたり憤慨するのでは、愛の奉仕(カルマ・ヨーガ)とはいえません。また、(他者に奉仕するために)仕事をがんばったが、それがうまくいかずに失敗し、がっかりしたり、腐ったり、悲観的になったりしても、それはカルマ・ヨーガの実践とはなりません。
 どのような結果が訪れようと、まるで他人ごとのように心平静に受け入れ、淡々としていなければならないのです。これがカルマ・ヨーガの修行です。かなり厳しいです。これは、自分を徹底的に捨てなければできません。自分を捨てて、捨てて、ひたすら捨てまくる修行といってもいいでしょう。

 カルマ・ヨーガの実践者は、「自分が愛している」などと思っていません。もしそう思っていたら、それはエゴであり、とんでもない傲慢な思いです。人間(自我)は愛することなどできないのです。真に愛することができるのは、ただ「神」より他には存在しません。
 したがって、カルマ・ヨーガの実践者たちは、「神が自分を通して愛しているのだ」と思いながら、無私の奉仕に励むのです。だからひたすら謙虚であり、ただ自分の役割に徹しているだけです。「自分を見せよう」とか「自分を認めてもらおう」という気持ちはありません(そのような気持ちを持たないように修行していくということです)
 要するに、カルマ・ヨーガとは、神のマネをして生きることなのです。徹底的に神をまねるのです。行為だけでなく、言葉においても、心においても、すべてを徹底してまねるわけです。
 しかし、いくら神をまねても、しょせんまねはまねであり、人間は神ではないと思われるかもしれません。ニセのブランド品は、いくら本物そっくりでも、しょせんはニセものではないかと。
 ところが、前に述べたように、人間の本質はもともと神や仏ですから、実は「まね」ではなく、愛の奉仕こそが本当の行為ということになるのです。

 このように、自分の行為・言葉・意識を、神の行為・言葉・意識に近づけていくと、ある種の共鳴現象が生じてきます。たとえば、200ヘルツの音叉を鳴らすと、同じ200ヘルツの音叉が共振して音を発しますが、共振して音を発するとは、エネルギーが与えられたことを意味しています。
 つまり、神の行為である愛の奉仕(カルマ・ヨーガ)を実践していくと、神の周波数に近づいていき、神の強大なエネルギーで振動するようになるのです。その振動エネルギーに触発されて、クンダリニーやチャクラが目覚めるのです。
 神のエネルギーは、至福そのものであり、生命そのものです。したがって、カルマ・ヨーガの実践者たちは、至福に満たされ、生命力に満たされます。そのため、病気などは治癒され、大きなバイタリティで満たされるようになってきます。

「もし今ここに神がいたら、神はどのように思い、どのように語り、どのように行動するだろうか?」と常に考えて実践していくのが、カルマ・ヨーガの道です。実際、神は、いまこの場所で何かをするために、私たちを派遣したのだと思うのです。私たちは神の媒体なのです。いえ、私たちは神そのものなのです。
 したがって、仕事も、修行も、日常生活も、あらゆることを、愛の奉仕として行い、その結果がどうなろうと、淡々として涼しい顔でいられるようにしようではありませんか。それはかなり難しい道ですが、これこそが覚醒の道ではないでしょうか。
 神は愛ですから、神は世のため人のために、すべてを捧げて一所懸命に働いてくださっているはずです。ならば、私たちも、すべてを世のため人のために行いましょう。
 金儲けや野心のためではなく(結果としてそれらがついてくるかもしれませんが)、あくまでも世のため人のために、仕事をしようではありませんか。世のため人のために食事をしようではありませんか(そうすれば体に悪い暴飲暴食などできないはずです)。世のため人のために遊ぼうではありませんか(世のため人のために尽くすことができる英気を養うために遊ぶのです。そうすれば、節度を超えることもないはずです)。
 そして、世のため人のために、覚醒の修行をしようではありませんか。
 すべて、世のため人のために、すなわち、すべてを神のために。
 結局、こういう生き方こそが、本当に自分のためになる生き方だと思うのです。なぜなら、私たちは神のもとでひとつにつながっているからです。
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コメント

こんにちは、斎藤さん。ひたすら神の行為を真似することで、神すなわち自らの本質に戻ろうとする修行ですね、私は福祉系の職場なので奉仕させていただいているという感覚がすぐにつかみやすいですね。

もしも嫌な思いをしたとしても、それは自我がはたらいているのだな、と思う事にしてます。神はどんな相手にも嫌な感情をもったりしないでしょうから。

ちいさなことからコツコツと修行に置き換えて、人生を愛の実現に塗り替えていくようにしたいですね。
2010-07-08 Thu 06:17 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、ありがとうございました。
福祉系のお仕事は、まさにこの行法に直結するお仕事ですね。
嫌な思いをしても、神は嫌な感情を持ったりしないと考えて感情をコントロールする姿勢、まさにその通りだと思います。
結局、修行に近道はなく、小さな努力をコツコツと積み上げていくことが最善であると思います。そうして、おっしゃるように、少しずつ、じわじわと、カタツムリが歩むように、人生を愛の実現に変えていくわけです。
しかし、たとえカタツムリの歩みといえども、それを何ヶ月も、何年も続けていけば、いつのまにか到達できないほどの距離を進んでいたりするわけですね。
凡人と偉人を分ける違いというものは、結局、この地道な努力をひたすら続けていくかどうか、にかかっているのだと思うのです。

2010-07-08 Thu 10:28 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
斎藤さん、初めまして

かなり以前の記事のコメントで、申し訳ありません。

最近、奉仕する事の重要性を感じましています。

奉仕を通じて、神様と繋がればいいかな、

みたいな感じで

時々、老人ホームでボランティアしたりしています。

しかし、何かの記事の中で、

仕事を通じても、そこに愛を持ち込めば、それは神様への奉仕になる、
みたいな事が書かれておりました。

まあ、確かにそうかもしれません。

自分は公務員の仕事をしていますが

生産性もなく、クリエイティブな感じもなく、創造性を要求される訳でもなく、

正直に申しますと、

20年近く、同じ仕事を続けてきましたが、やりがいや、喜び、プライドすら感じたことがありません。

仕事に対しての姿勢が、間違っていることに最近ようやく気が付きましたが、


実際、どのような気持ちで取り組めば、神様への奉仕としての仕事に変わるのものなのでしょうか?

全く、へんな質問ですみません。
2011-08-24 Wed 00:26 | URL | 若ハゲ王子 [ 編集 ]
斉藤啓一です。若ハゲ王子さん、コメントありがとうございました。
へんな質問ではありません。多くの人が同じような悩みを抱えていると思います。とてもいい質問だと思います。
そこで、この質問に対する私の考えは、このコメント欄ではなく、ブログ本文の方でさせていただけますでしょうか?
よろしくお願い致します。
2011-08-24 Wed 21:21 | URL | [ 編集 ]

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