FC2ブログ

心の治癒と魂の覚醒

        

正しい瞑想とは


 今月の20日(土)と21(日)に、イデア ライフ アカデミーの最初の瞑想講座を開催します。詳細は下記のホームページをご覧ください。
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/
 さて、瞑想ということはよく言われますが、そもそも瞑想とは何なのでしょうか?
 瞑想のはっきりした定義はないようです。結局、それは瞑想に何を求めるかによると思います。たとえば、健康が目的であれば、「瞑想とは健康になるためのものである」となるでしょうし、超能力を身に着けるのが目的ならば、「瞑想とは超能力を身に着けるものだ」ということになるのでしょう。瞑想には大きな効果があるので、忍耐強く続ければ、そうした目的はいずれ成就できるはずです。
 しかし、瞑想とは「覚醒や悟りを開くためである」としたならば、ここに大きな注意が必要となるのです。

 瞑想を続けていくと、潜在意識の領域にまで入り込みます。そこに何らかの願望を携えていくと、潜在意識はそれを実現しようと自動的に働きます。たとえば、「お金が欲しい」と願望を抱いて瞑想すると、原則的にはお金が入るようになるのです。
 つまり、このことは、「お金が手に入る」という暗示をかけながら催眠状態に入るのと同じことになるわけです。
 お金というものは、この現実世界のもので、本当にお金が手に入ったかどうか、客観的にわかります。健康や超能力も、客観的にわかります。だから、妄想に陥ることはありません。
 ところが、覚醒だとか悟りといったものは、客観的に実証できません。
 すると、どうなるかというと、私たちの心は、願望を投影するという性質を持っているため、「私は覚醒した、悟りを開いた」という妄想が起きてしまうのです。
 禅ではこのことに気づいていて、そのために「仏に会ったら仏を殺せ」などという物騒な言葉が伝えられています。その「仏」は、自分の願望が投影された妄想だからです。

 そもそも、覚醒も悟ってもいない私たちが、何かをする動機というものは、エゴに基づいています。たいていの場合、覚醒したい、悟りたいというのは、「覚醒して人々から認められたい」という動機か、あるいは、この世の中がいやになって、そこから解脱したいという動機の、いずれかです。
 そのような動機を持ち続けながら瞑想をすると、「自分は覚者になった」という妄想に陥ってしまうのです。また、この世の中がいやになって解脱したいという動機の場合、もし人生が何か幸運に恵まれるようなことが起こったら、すぐに瞑想などしなくなってしまうでしょう。結局、エゴはこの地上における名誉だとか富、欲望を叶えることなどが動機になっているからです。

 覚醒や悟りというものは、エゴを消滅させることですから、皮肉なことに、瞑想をすればするほどエゴが拡大強化されていき、どうしようもなく醜悪なものになっていくわけです。その最たる見本がオウム真理教の教祖です。

 ですから、もし覚醒や悟りをめざそうとするのであれば、必ず正しい瞑想を行わなければなりません。
 では、正しい瞑想とは、どのような瞑想なのでしょうか?
 それは、「覚醒や悟りを開こう」という願望を捨てた瞑想です。
 達磨大師は、「座禅などして、どんな功徳があるのか?」と問われたとき「何もない」と答えたといいます。この答え方が正解なのです。エゴは「何の功徳(得、いいこと)もないのに、なんで座禅なんかしなければならないんだ」と考えます。
 しかし、魂が多少でも目覚めた人であれば、このときピンとくるはずです。「そこにこそ真実がある」と直感するのです。そうして、とにかく座禅、すなわち瞑想を始めてみるのです。
 もちろん、その後もさまざまな障害が待ち受けています。それをひとつひとつ乗り越えていかなければなりません。まさに瞑想とはエゴとの闘いです。あらゆる妄想、「ひとかどの人間として認められたい」という欲望、低俗な物欲、そして、悟りたいという欲望など、あらゆるものを、とにかく捨てて捨てて、捨てまくっていく必要があるのです。
 そこをどのようにうまく乗り越えていくか、それが私の研究課題であり、このブログの課題であり、また、私が主催するイデア
ライフ アカデミーの課題でもあるわけです。
 
スポンサーサイト

修行法 | コメント:5 | トラックバック:0 |
<<イデア ライフ アカデミー瞑想教室の音響システム | ホーム | イデア ライフ アカデミー授業 YOUTUBEアップのお知らせ>>

コメント

 斉藤先生、こんにちは。
 もしも、瞑想すること自体が気持ちいいから瞑想するとしたらどうでしょうか?
2018-10-15 Mon 18:39 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、よい質問ありがとうございます。気持ちよいという感覚は、瞑想によって脳内麻薬が出たからです。そのため、「瞑想依存症」になりかねません。瞑想をすると確かに気持ちよくなる時期がありますが、それさえも捨てなければならないのです。
2018-10-15 Mon 20:39 | URL | [ 編集 ]
イデア ライフ アカデミーの動画、拝見しました。これからもアップしていただけるとありがたいです。

素朴な疑問で申し訳ありませんが、ご教授いただきたく、よろしくお願いいたします。

潜在意識という言葉が出てきましたが、これはどこにあるものでしょうか? 脳の中でしょうか? 意識そのものを脳が作り出すものという考えがあるのですが、そうなると顕在意識も潜在意識も脳内にということになるのでしょうか? この辺をどう捉えたらいいのか。脳を超えた深遠な世界?次元?にある?

そして、瞑想は潜在意識につながることを目的とするのでしょうか? 意識すら捨てていくのでしょうか?

「悟りとは、これまで学んできたことを捨てることにある」といった言葉を思い出します。

よろしくお願いいたします。
2018-10-16 Tue 08:57 | URL | とおる [ 編集 ]
斉藤啓一です。とおる様、ご質問ありがとうございました。
まず、潜在意識は脳のどこにあるかですが、専門家でないのでちょっとわかりません。ただ、ご質問の趣旨は、意識と脳は同じものかどうか、ということかと思います。つまり、意識とは脳の産物なのか、それとも、意識は脳を超えたところにあるのか、ということです。これも真実はわかりません。ただ、私の個人的な考えでは、意識の根源は脳の産物ではない可能性の方が高いです。肉体を持って生きている間は、ほとんど私たちの意識は脳の産物と言えると思いますが、脳が死滅したら意識も死滅するかというと、そうではないように思います。ただ、それが何であるのかはわかりません。
瞑想の目的は潜在意識につながることではありませんが、瞑想すれば結果的に潜在意識とつながることは確かです。
釈迦によれば、あらゆる意識を捨てていくのが瞑想らしいのですが、では、意識を捨てたら何が残るのかという問いに関しては、釈迦はそうした形而上学な問題は扱わないと、バッサリと切り捨てています。たとえそれを説明しようとしても、説明できるものではないと言っています。それよりも、目の先の修行に専念せよ、というのが釈迦の教えです。
私も、そうした問題は考えていてもきりがないし、考えてもわかるものではないので、それよりも、日常の生き方に焦点を合わせた方がいいのではないかと思っています。

2018-10-16 Tue 19:51 | URL | [ 編集 ]
ご回答いただき、ありがとうございます。
質問の趣旨を汲んでいただき恐縮です。

意識の根源は脳の産物ではない可能性、生きている間の意識は脳の産物、脳死しても意識は残る。
私もそのように思っています。となると、私たちの本質は意識エネルギー、意識を持った魂なのかなと。

ふと疑問に思ったのです。あることをイメージする、例えば日常のある場面。その場面は日常を映し出した一つの映像になるわけですが、この映像の世界は脳内にあるのか、それとも別の次元なのかと。脳がなくても意識はこういった映像をイメージすることは可能なのかと。

自分の興味があることと重なることも多く、度々の質問にも詳細かつご丁寧にご回答いただき、本当に勉強になります。

ありがとうございました。
2018-10-17 Wed 09:07 | URL | [ 編集 ]

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

| ホーム |