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心の治癒と魂の覚醒

        

私が特定の信仰を持たない理由


 私はいろいろな宗教をかじってきましたが、特定の宗教は信仰してはいません。釈迦もイエスも尊敬していますが、仏教徒でもクリスチャンでもありません。
 というのも、特定の宗教を信仰してしまうと、たいていの場合、教祖は神格化され、教祖の教えに間違いは絶対なく、その教義に間違いは絶対ないと、極端な考え方に陥ってしまうからです。
 しかし、絶対に間違いのない教祖も、間違いのない宗教も存在しないと私は考えています。
 どの宗教もよいことを説いていますが、どう考えてもおかしいと思うことも説いています。しかし、その宗教の信者になると「それはおかしい」と言えなくなります。そんなことを言ったら、宗教組織から追い出されるか、迫害を受けることになるでしょう。だから、本心ではおかしいと感じていても、「おかしくないのだ」と、無理に思い込んで自分をだますしかありません。あるいは、本気でおかしくないのだと洗脳されるか、いずれかです。

 たとえば、仏典などを読んでも、ときどき「おかしいぞ」と感じるときがあります。つまり、「お釈迦様、それはおかしいのではありませんか?」と言いたくなることもあるのです。しかし、釈迦は神格化されてしまっているので、そんなことは言えません。そんなことを言ったら「おまえは自分を何様だと思っているのだ。釈迦より偉いとでも言うのか?」と言われてしまうでしょう。
 しかし問題は、偉いとか偉くないといったことではなく、自分にウソをついたり洗脳されることが正しいことなのかどうか、ということなのです。
 たとえば、前にも書きましたが、釈迦が食中毒になって死んでしまうとき、弟子のアーナンダに向かって「おまえが私に永遠に生きて欲しいと願わなかったから私は死ぬことになったのだ」といった意味のことを言っているのです。
 私はこれは、釈迦が言ったことではなく、仏典作家の作り話だと思っているのですが、仮にもし本当にそんなことを言ったのだとしたら、「お釈迦様、それはおかしいですよ」と言います。その証拠に、釈迦は後になって、悲しむアーナンダに「泣くな、この世は無常であり、すべてのものはいずれ朽ち果てると教えたではないか」と言っているからです。

 他にもあります。釈迦は、教えを守らない一人の弟子に罰を与えました。弟子たちに、「彼に話しかけられても無視をしろ」と命令したのです。そうしてその弟子は、修行仲間から仲間はずれにされ、今の言葉でいえば「シカト」されて孤立しました。私はこういう罰を与えるのは適切ではないと考えます。
 詳しい事情がわからないのではっきりとは言えませんが、教えを守らないのは何か理由があるからで、まずは彼の話をよく聴いてあげて、適切なアドバイスを与えたり、理路整然と説明してあげた方が効果的ではないかと思うわけです。みんなで無視をするというのは、ある種の「いじめ」に近いものに感じられてしまいます。
 仮に、そういう罰を与えることがゆるされる指導者であるなら、その罰を与えることで立ち直ることが確実にわかっているほどの、すぐれた霊眼がなければダメだと思います。釈迦はそうした霊眼があったのでしょう。そう考えるのであれば、釈迦がそうした罰を与えたのは正しかったと言えるかもしれませんが、すべての弟子にその罰が適するかどうかは別問題です。適しない弟子もいるでしょう。いわば、ケースバイケースということです。
 ところが、経典のそうしたエピソードだけを取り上げて、原始仏教を信奉しているスリランカあたりの修行僧は、教えを守らない僧をみんなで無視する罰を与えているらしいのです。「釈迦がそうしたと経典に書いてあるから、そうやるのが正しいのだ」と、機械的に信じ込んでいるのです。
 なぜ、もっと合理的で効果的なやり方がないのかどうか、検討しないのでしょうか。
 それは、釈迦とその教えに、絶対に間違いはないと信じているからでしょう。「洗脳されている」と言ってもいいかもしれません。

 洗脳というのは、怪しいカルト教団だけが行っているのではなく、大なり小なり、信仰というものは洗脳によって成り立っているのです。
 なぜ人々は、宗教に群がり、洗脳されたがるのでしょうか?
 それは、その方が楽だからです。「教えられた通り信じていれば救われる」と言われた方が、自らの頭で考え、救いの道を捜し求めていくより楽だからです。

 どの宗教も、真理の断片はとらえていると思います。しかし、真理は断片ではありません。真理というものは全体的なものです。断片は真理ではありません。目の不自由な人が象の鼻を触って「象とは長いものである」と語ったという有名な話がありますが、それと同じです。確かに象の断片はとらえていますが、象は長いものではありません。同じように、断片にすぎない宗教を真理と考えることはできないのです。

 ですから、真理をつかみたければ、特定の宗教の信者になってはいけないのです。言い換えれば、いかなる教えも「絶対に間違いのない真理」だと考えてはいけないのです。
 なので、私は仏教も学びますし、キリスト教も、他の宗教も学んで、可能な限り「断片」を集めて全体像、すなわち真理を構築する道を歩んでいるのです。なので、どの宗教も全面的に否定もせず、全面的に肯定(信仰)もしない立場に立っているのです。
 しかし、その道は険しいものです。すべてのことを、自分の責任において行わなければなりません。必死になって自分の頭で考えなければなりません。それが「自由」というものの本質です。人は「自由、自由」と賞賛しますが、自由というのは厳しいものです。ある意味で、自由がなく、言われたことを黙ってやっていればいいだけの奴隷の方が、ずっと楽かもしれません。
 しかし、真理というものは、あらゆることから自由になった人だけが得られるものではないかと、私は思っているのです。

 私が主催するイデア ライフ アカデミーは、そういう自由な道を歩む人に、さまざまな情報を提供することを目的にしています。次回2月2日と3日は、ヨーガの解脱理論について紹介する予定です。そうして「断片」を数多く学ぶことで、「全体」を構築していく作業を、力を合わせて共にやっていきたいと思っているわけです。
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コメント

私も同感です。先生が仏教の解説をされていた時に、このブログに出会い、その時初めてコメント致しましたが、特に今の葬式仏教は詐欺であると言わせていただきました。また、釈迦がこの世は苦しみであるとすることも根本的に間違っているのではとも。

無論私はそんな大それた人間ではありませんが、今はすっかり仏教を見る目も変わりました。宗教と捉えるよりも、ある意味生きる哲学として接するようになったのです。釈迦についても同じで、あくまでも人間釈迦としてしか私には意味をなさなくなりました。

信仰に染まっている身内、新興宗教にはまってしまった友人など間近に見て思うのは、宗教に頼らなければ自分がもたないという人たちもいるということ。それでもいかなる信仰の中にあっても、自分自身が考えることを放棄したら何の意味があるのかと思います。既存の教えばかりをありがたがるより、真にその宗教を愛しているならば、大いに疑問も持ち発展させていくのが良いのではと。

自由の意味は、仏教から心を離してみて不確かながら先生が仰るような意味合いを感じています。『真理というものは、あらゆることから自由になった人だけが得られるものではないか』・・・まったくもって同感です。仏教を離れたことで、このブログに出会えたことで、私も追ってみたいと思うようになりました。感謝いたします。
2019-01-12 Sat 08:09 | URL | とおる [ 編集 ]
斉藤啓一です。とおる様、コメントありがとうございました。「真にその宗教を愛しているならば、大いに疑問も持ち発展させていくのが良いのではと。」←このお言葉はまさにその通りであると私も思います。いつも深い理解と考察をしてくださり、感謝申し上げます。
「この世は苦しみである」とする釈迦の見解については、人それぞれ考え方があると思います。私としては、釈迦の見解と同感で、この世は苦しみであると考えていますが、これは主観の問題であり、どちらが正しいとは一概にはいえないでしょう。
2019-01-13 Sun 16:27 | URL | [ 編集 ]

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