自分を浄めること2019-04-26 Fri 13:00
まずは例によってご報告とお知らせから。
先日4月20日と21日のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は「インナーチャイルドを癒す」というテーマで行いました。 誰もが、程度の差はあれ、親からネガティブな影響を受けているもので、それがインナーチャイルド(内なる子供)を生みだし、人生に暗い影を落としていることが少なからずあります。それは霊的覚醒の道を歩むうえでの大きな障害にもなります。そこで授業では、インナーチャイルドが形成された仕組み、およびインナーチャイルドを癒す仕組みを解説し、セルフケアとして私が制作した「インナーチャイルド・ヒーリングCD」を参加者にさしあげました。重度のインナーチャイルドは専門のセラピストにかかる必要がありますが、軽度から中度くらいであれば、根気よくこのCDを聴き、そこに指示された通りのイメージ作業を行っていくことで、しだいにインナーチャイルドが癒されていくのではないかと期待しています。詳しい内容についてはダイジェスト版で解説していますので、ぜひご覧になってください。 https://www.youtube.com/watch?v=t5lvOhMh_20&feature=youtu.be さて、5月のイデア ライフ アカデミーは特別授業ということで、5月18日(土)だけとなります。私の他に3人の講師が、さまざまな分野からの興味深い授業を行います。お時間のある方はぜひ参加なさってみてください。 詳細↓ http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/ では、本文にうつります。 世の中には多くの宗教やスピリチュアルの教えがあり、多くの人々が熱心に教えを学んでいます。 しかし、私はいつも思うのです。 「これほど熱心に教えを学んでいるのに、なぜ人はなかなか変わらないのだろうか?」と。 長い間、教えを説いてまわったインドの思想家クリシュナムルティは、晩年、側近の人に「私の教えを聴いて覚醒した人は誰もいない」と語ったことを、私はその側近の人から直接ききました。 もちろん、なかには自分を変え人生を変えた人もいるでしょう。しかし、大部分は変わっていないのです。せいぜい「自分は変わった」と自己満足的な錯覚をしているだけで、はたから見れば、まるで変わっていないのです。 実際、釈迦やイエス、その他、数えきれないほどの聖人がこれまで誕生してきましたが、人類はどれほど変わったでしょうか。 多少はよい方向に変わった気もいたしますが、まだまだ人類は悲惨な状態にあります。あまりにも進歩が遅すぎます。 いったいなぜ、人間はこうも変わることができないのでしょうか? その理由はいろいろあげられるでしょうが、私がもっとも大きな理由として考えていることがあります。 それは、本気になって「自分自身を浄めようとしない」ことです。 釈迦は次のように言っています(法句経183)。 「すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、------これが諸々の仏の教えである」 「諸々の仏」とは、釈迦を含めた過去の仏陀(覚者)の教えであるということですから、釈迦のこの言葉は、いわば「仏教の定義」であるとも言えるわけです。 ここで重要なことは、「自己の心を浄めること」です。これが非常に重要なのです。というのも、釈迦はこうも語っているからです(法句経271) 「わたくし(釈迦)は、出離(出家)の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥(が)することによっても、得られないものである。修行僧よ、汚れが消え失せない限りは、油断するな」 すなわち、悟り(解脱)をするには、戒律や誓い、博学、瞑想、孤独の行だけではダメで、心の汚れを消して自分を浄めない限り無理である、と言っているのです。 ところが、世の宗教と呼ばれるものは、戒律や誓いを重視し、学んで博学になることをめざし、瞑想のテクニックばかり追い求めています。いくらそういうことをしても、自分を浄めることをしないと、救いは得られないということになります。 むしろ、戒律や誓い、博学、瞑想、孤独の行といったものは、すべて自分を浄めるためにあるのだと言ってもいいのではないかと思います。 繰り返しますが、仏教の目的は「自分を浄めること」なのです。これは、およそ他のいかなる宗教の目的でもあると思います。 自分を浄めるとは、人の不幸を願うような悪意、憎悪、嫉妬、妬み、怒り、貪欲、虚栄、自慢、吝嗇、欲張り、利己主義、肉欲への耽溺、軽薄さ、下劣、あさましさ……といった、いわゆる「心の汚れ」と呼ばれるようなものを、消し去ることです。ひらたくいえば、心の掃除をすることです。 ところが、この心の掃除が、難しいのです。自分のからだや自分の部屋が少しでも汚れていると、すぐに掃除をしてきれいにする人でも、自分の心にゴミがたまり汚れていても、無頓着なことが多いのです。それはまず、心の汚れは物質的な汚れのように目に見えるものではないため、自分の心が汚れていることに気づきにくい、という点があげられます。 次に、心の汚れというものは、非常に頑固です。なかなか落ちません。忍耐とがんばりが必要になります。 しかも、そこまで苦労してきれいにしても、何か報酬が与えられるわけでもありません。お金が入るわけでもないし、幸運がやってきたり、成功するということもありません(もちろん、心がきれいになれば、そうしたよいことも訪れやすくなるでしょう。ただ絶対にそうとはいいきれません)。ですから、自分を浄めることに対する情熱というか、モチベーションが不足しがちなのです。 このような理由から、私たちは本気になって自分を浄めようとはしません。 ですから、私たちは、いくら宗教的な戒律や儀式を行っても、苦行を行っても、瞑想を行っても、なかなか変わることができないのです。 とにかく、自分を浄めること、このことに、全身全霊をもって情熱を燃やし、倦まずたゆまず忍耐強く取り組んでいく、言ってみれば、これが仏教の奥義であり、あらゆる宗教の奥義なのです。 スポンサーサイト
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