心の治癒と魂の覚醒

        

業想念の浄化

 辛い運命や、辛い感情を経験した後で、何となく心が清められた感じがしたことはないでしょうか。胸の奥にあったどろどろしたものが消え、爽やかになり、心身が清められた感覚です。
 こうした感覚は、いわゆる「業想念」が消えて消滅したときの感覚なのです。すなわち、私たちに不幸をもたらし、覚醒を妨げている悪いカルマが消滅したことを意味しているのです。
 カルマは、二つの手段によって消滅します。
 ひとつは、運命的な現象を通してです。いわゆる不幸や災難です。
 もうひとつは、内的な苦悩を通してです。とくに不運というわけではないのに、内的に辛くなることによって浄化されるのです。悲しみや落ち込み、絶望感といったものです。あるいは、悪意や怒り、邪欲といった、病的な思いや感情によって心がかき乱されることによっても、浄化されます。
 ただし、そうした気持ちに振り回されず、その思いをつかんだりしなければ、という条件がつきます。悪意や怒りの感情が湧いて、人を呪ったり、意地悪したりしてしまったら、せっかく消えたカルマを再び取り入れてしまうことになります。

 業想念を浄化させる方法については、次回で詳しく扱うことにいたしますが、基本的には、苦しみを謙虚に受け入れ、「これで悪いカルマが消えていくのだ、ありがたいことなのだ」という思いを抱いて、じっと堪え忍ぶことです。
 もちろん、それは楽なことではありません。ある種の「苦行」に近いといえるかもしれません。余談になりますが、宗教的な苦行には、それなりの意味があるようです。主な目的は、自我の執着やこの世の欲望を支配できる力を養うためですが、他にも、カルマを滅ぼそうとする意図があるのかもしれません。つまり、運命的な不幸や内的苦悩が訪れるのを待つ(それによってカルマを消滅させる)という受け身の姿勢ではなく、自ら苦しみを求めることで、積極的にカルマの消滅をはかろうとしているのかもしれません。
 果たして、わざわざ自分を苦しめることで、本当にカルマが消滅するのかどうか、私にはよくわからないのですが、少なくてもその「意気込み」だけは、見習ってもいいのではないかと思うのです。
 つまり、不幸や苦しみを経験したら、「ああ、これで悪いカルマが消えているんだ。それだけ運命はよくなっていくし、覚醒の障害も取り除かれ、幸福と覚醒に近づいているんだ」と、感謝と希望を抱き、じっと辛さに耐えていくことが大切ではないかと思うのです。

 覚醒したいと真剣に修行をしていると、カルマの解消が盛んに行われるようになるようです。それは不運が訪れるという形を取ることもありますが、業想念がたくさん湧いてくるという形を取ることもあります。つまり、運命的にカルマを解消するよりも、なるべく業想念を出すことによって解消しようとするのです。これはとてもありがたい配慮であるように思うのです。
 代替医療の世界では、「好転反応」ということがいわれます。病気が治る前に、症状が強く出てきたりするのです。それは病気が悪くなったのではなく、病気が治るときの反応なのです。この反応によって病的な不純物が排出されると、病気が治るのです。
 同じような現象が、覚醒の道にもいえるのではないかと思うのです。すでに述べたように、宇宙的かつ霊的に見るならば、覚醒していないということは、病んでいるということです。悪しきカルマという病気を抱え込んでいるわけです。しかし、覚醒修行という「治療」を行うと、不運や業想念という好転反応が起こるのです。
 悪しきカルマが蓄積されている限り、覚醒することは不可能です。覚醒修行とは、いかにカルマの汚れを落とすかが中心になっているといえるわけです。
 ですから、覚醒修行をまじめに行っているのに、不運が訪れたり、否定的な思いが湧いて心が乱されたり、病気になったりしたら、それは間違いなく「好転反応」だと思っていいでしょう。たとえどんなに苦しくて辛くても、それは「善いこと」であり、喜ばしいことなのです。

 いうまでもありませんが、「不運が訪れる」といっても、何もないところから訪れるわけではなく、いずれは訪れる運命を持っていたということです。むしろ、覚醒の修行によって早く訪れるようにした方が、後になって病根が大きくなって訪れるよりも、ずっと軽くてすみます。たとえば、本来なら交通事故に遭って障害者となる運命だったのが、ちょっと骨折する程度ですむようになったりするわけです。それで悪しきカルマを消すことができるのですから、「ラッキー」ではないでしょうか。
 あるいは、怒りの業想念を沈殿させていた人は、覚醒修行によって怒りが湧いてくるでしょう。本来なら、人を殺すほど激しい、とても自分では制御できない怒りだったのが、なんとか自分で制御できるくらいの怒りで(大きな問題を起こすことなく)すむはずですし、悲しみの業想念を沈殿させていた人は、強い悲しみに襲われるでしょうが、本来なら自殺するほど深刻な悲しみだったのが、自殺には到らない程度の悲しみですむようになるかもしれません。
 また、本来なら運命という外的な現象でなければカルマを浄化できなかったのに、業想念という心理的な現象ですんでしまう可能性もあるのです。
 もっとも、あえていうまでもないことですが、修正可能な因果関係が存在している場合は、それを取り除く努力をしなければなりません。たとえば、食べ過ぎ飲み過ぎで胃の痛みに苦しんでいるような場合、その苦しみに耐えてもカルマの解消にはなりません。この場合、食べ過ぎ飲み過ぎをやめることがカルマの解消です。
 じっと耐えることでカルマが解消される苦しみとは、前世やずっと過去に行われた行為が原因で、現在ではその原因の修正ができないようなものだけです。

 いずれにしろ、このようにしてカルマや業想念が消滅していくと、心身が清められ、不思議なほど心が穏やかになり、謙虚な気持ちが生まれてきます。それはまるで、深い瞑想を行じたような感覚であり、実際、カルマや業想念が消滅しただけで、特別な修行などしなくても、意識は覚醒に近づいていくのです。
 覚醒の道を歩んでいない大多数の人にとっては、不運は悪いもの以外の何ものでもないでしょうが、覚醒の道を歩んでいる私たちにとって、カルマの消滅というすばらしい意義があることを、忘れないようにしたいものです。

 
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コメント

苦行の類、経験あります。でも慣れるとさほど苦痛ではなくなるので、また新たな痛みを考えださなければならないのです。そして痛みはエスカレートの一途を辿ります。

今ではやっておりません。思うに、他人だけでなく自分にもある程度やさしく接するべきです。自分に過度な敵対行為を行うと逆に悪業を重ねてしまうみたいですね。
2010-07-14 Wed 10:17 | URL | 蜻蛉切り [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、ありがとうございました。
なるほど、自分に対しても過度な敵対行為を行うと、それも悪しきカルマを積むことになるというご意見には、ハッとさせられました。
やはり、苦行のための苦行というのは、よろしくないのかもしれません。避けられない苦しみが訪れたときにのみ、それを苦行として臨む方がいいようですね。
貴重なご意見、どうもありがとうございました。
2010-07-14 Wed 21:21 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
こんにちは。

苦難は、必要なタイミングで、必要に応じて与えられるものだと思っています。
望まなくても必要であればくるし、不必要な苦難は与えられないと信じています。 

難しいですが、自分をまず愛し、慈しむことができないと他者に慈愛を持つことはできないと思っています。

ただ、私は、自分を大事にすることと、甘やかすことを混同してしまって、すぐ楽なほうへ行ってしまうような気がしますので、それが難点です。。

自分を責めること、罪悪感や後悔は無駄なエネルギーなので、学びのエッセンスだけを受け止めて、あとは、肯定的にとらえて流していきたいと思っています。他者に対しても同様にしたいです。

修行をしていくなかでの、「好転反応」については、まさしく与えられる苦難ですね。
カルマが消えていくプロセスだと思っていても、自分のなかの邪悪なものを直視しないといけない。。
でも、これこそ、感謝すべき苦難であり、おかげで、気付きを得られる贈り物なんですね。
2010-07-15 Thu 10:49 | URL | WakayamaKajimoto [ 編集 ]
こんにちは、斉藤さん。
悪しきカルマの代表格、「殺生」についてお聞かせください。

私の勤める施設では、作物を育てているため、ネズミ被害が出るとすぐに殺鼠剤を設置しなければなりません。しかもその担当は私です。

間接的な手段とはいえ、悪気のないネズミを殺しているという意識が常にあります。

誰か他の方に代わってもらうべきなのか、これも運命として受け入れていくべきなのか、悩みます。

避けがたい殺生をどう考えていけばいいのでしょうか?
2010-07-15 Thu 14:19 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。以上、お二人のコメント、どうもありがとうございました。

「自分を責めること、罪悪感や後悔は無駄なエネルギーなので、学びのエッセンスだけを受け止めて、あとは、肯定的にとらえて流していきたい」
まさに、これにつきると思います。難しいですが、根気よくがんばっていけば、そうすることが自然にできるようになってくると思うのです。

次に、ネズミの殺処分についてですが、これは難しいですね。正直なところ、私にもわかりません。ネズミだって、生きるためには食べなければなりません。ネズミには罪はないのです。人間にとって邪魔だという理由で殺しているわけです。とはいえ、人間からすれば、精魂こめて作った作物を荒らされてはたまったものではありません。
参考になるかどうかわかりませんが、「もし私だったら」ということでいえば、たぶん、生きたままネズミを捕獲し、人に迷惑がかからない場所にもっていって、そこで逃がしてあげる、といったことをするのではないかと思います。
しかし、このことが本当に正しい行為なのかは、わかりません。
あまりいいご返事ができるに申し訳ありません。
2010-07-15 Thu 21:46 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
なるほど、生け捕りですか・・・。
施設内に侵入したハエとかなら、外に追い出すという手段を使っていたのですが、相手が利口になるとそう簡単にはできませんね。

難しい質問をしてしまいました。申し訳ありません。もう少し考えてみます。
2010-07-15 Thu 23:17 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
こんにちは。

殺生について、私も最近、考えていました。
ふと、蚊は私たちと同じ生命エネルギー、宇宙エネルギーからできていて、顕在している形が違うだけだなあ。。と思ったら、私が生命を絶つのはどうだろう、、と思ったのでした。
他にもゴキブリ駆除のダンゴは、、と考えると、どう考えたらいいのかなと思っていました。

覚醒した聖人たちは、どのように受け入れるのでしょうか?蚊やゴキブリ程度なら、同居・共存しているのでしょうか?
お話のネズミのように、被害が大きく、こちらの生存に関わる場合は、どのようにするのか。。
ワタナベさんのように、お仕事で責任が伴う場合はさらに難しいですよね。

例えば、食物の場合は、できるだけ肉、魚類は避けて、食べる時に、「ありがとう、命をいただいて。」という感謝で食べれば、いい想念に変わり、食べられる命も、役立った(?)という流れでいいのかなという気がしますが。

ひとつ、本にあった聖人の言葉を思い出しました。

「生きることは妥協だ。人生においては、いつでも、”我々の願望や進化”と”生存の必要性”の間で妥協が生じる。悟りを得た聖人やマスターでも同じだ。」と。

ある程度は、そのように考えるのも許される自然な姿かもしれませんね。

私なら、心の中で、「ネズミさん、我々の生存のためにごめんなさい。」というのが精一杯かな。。
そういえば、高野山に殺生する虫や動物を弔ったお墓が多数ありますね。そうやって、この世の妥協と、魂とのバランスをとっているのでしょうか。。。




2010-07-16 Fri 11:06 | URL | WakayamaKajimoto [ 編集 ]
WakayamaKajimotoさん、いい案ありがとうございます。
そうですね、ネズミさんの供養塔や墓を作って謝罪の念を送るのが妥当かもしれません。
あるいは死なせるのではなく、近寄らなくなる忌避剤などを探してみるのもいいかもしれませんね。

私たちは生きていく中で望まぬ殺生をしなければならない場合があります。なるべくそのことに対して無自覚な生き方はしないように心がけようと思いました。
2010-07-16 Fri 14:13 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、ありがとうございました。
殺生のカルマの問題でいえば、欲に目がくらんで人を殺した場合と、戦争にかり出されて仕方なく人を殺した場合とでは、常識的に考えても、同じ罪であるとは思えません。
なるべく殺生はしないように努力はするべきでしょうが、どうしてもやむを得ない場合もあると思います。それは仕方がないことで、その場合、カルマの罪もそう重くはないと思うのです。
あとは、供養をしてあげたり、なんらかのことで善い行いをして、罪滅ぼしをしていくしかないように思います。結局、それが人間という存在なのかもしれません。
2010-07-17 Sat 17:22 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]

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