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心の治癒と魂の覚醒

        

ALSは「業病」か?


 最近、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者を医師が安楽死させた事件が話題になっています。からだの運動機能がしだいに奪われていき、意識はしっかりしているのに、ついにはからだをまったく動かせなくなるこの病気は、おそらくあらゆる病気のなかでも、もっとも残酷な病気のひとつではないかと思います。今回の事件で医師が行った行為の是非はともかく、自ら命を断ちたくなる気持ちもわかりますし、安楽死という問題も、真剣に議論していくべきではないかと思います。
 ただ、ここで言いたいことは、この事件そのものではなく、この事件に関して、石原慎太郎元都知事がツイッターで語った言葉です。彼はALSのことを「業病(ごうびょう)」と表現していました。
 業病という意味は「前世で悪い行為をした報いとしての病気」です。つまり石原氏は、ALSの方々に対して「過去に悪いことをしたから、このような病気になったのだ」と言っているわけです。

 これは、仏教やスピリチュアルなどで言われるところの、いわゆる「因果応報」、「カルマの法則」です。
 仏教徒やスピリチュアルの信奉者たちは、もしALSの原因は何かと問われたら、いったい何と答えるでしょうか? 彼らは因果応報、カルマの法則を信じているはずですから、石原氏のようにあからさまには言わないかもしれませんが、それでもやはり「それは前世の悪業の結果である」と答えるのではないでしょうか。
 これは、病気に限ったことではありません。生まれつき障害をもって生まれた人も、家が火事で焼けてしまった人も、子供が死んでしまった人も、レイプされた人も、その他、不幸災難に見舞われた人はすべて「前世の悪業の結果である」ということになってしまいます。イエス・キリストが十字架にはりつけにされたのも、前世の悪業の結果ということになってしまいます。
 これほど、人を傷つける主張はあるでしょうか?
 もちろん、たとえいかに人を傷つけようとも、事実として実証されたものであるなら、事実は事実として受け入れなければなりません。
 しかし、カルマの法則などというのは、特定の宗教の教義のひとつであって、科学的に実証されたわけではありません。つまり、それは信仰の問題であって、信じるか信じないか、ただそれだけのことなのです。

 私が「カルマの法則」について、ある程度の距離をおいてそれを扱っている理由がここにあります。もし私がカルマの法則を絶対的に信じていたとしたら、苦しんでいる人に対して、暗黙のうちに「前世の悪しきカルマの報いだ」と決めつけてしまうことになるからです。
 そうしたら、その人はますます苦しみに突き落とされるかもしれません。はたして、これが宗教者のすることでしょうか。いえ、人間のすることでしょうか。ここには、人に対する思いやりのかけらもありません。

ですから、私はカルマの法則に対しては、絶対的な否定も肯定もしない立場でいるのです。そしてまた、特定の宗教を絶対的なものとして信じることもしない立場でいるのです。
 ただ、カルマの法則が存在するという仮定のもとで、いろいろなことを述べることはあります。しかしそれはあくまでも仮定であって、絶対的な真実としてではありません。

 もちろん、カルマの法則を信じることで、よいこともあります。たとえば、悪いことをする人が少なくなるだろう、という点です。悪しき報いを受けるのは誰だって嫌ですから、悪しき行為の抑止力にはなるでしょう。ですから、評価できる点もあります。
 釈迦は、カルマの法則を説きましたが、それは、「今後、悪いことはしないように」という戒めとして説いたのであって、苦しんでいる人に向かって「おまえが苦しんでいるのは、過去に悪いことをした報いだ」といって責めることが目的ではないことは、言うまでもありません。

 不幸災難の原因は、宗教によって異なります。
 ユダヤ教やキリスト教では「神の試練」という考え方が主流のようです。強く立派な人間にするために、苦難を与えて鍛えようとしているのだ、という発想です。この方が、カルマの法則よりも救いがあります。
 では、いったいどちらの教えが真実なのでしょうか?
 それは、誰にもわからないことです。
 ならば、どうせわからないことであるならば、前向きになれる考え方を採用した方がいいのではないかと、私は思うのです。
 こうしたプラグマティズム(功利主義)の考え方は、ご都合主義だと嫌って、とにかくはっきりと白黒つけないと気がすまない人たちがいますが、どんなに追求しても、神だとか宇宙法則といった、形而上学的な事柄は、わからないのです。わからないものを追求し続けるのは時間の無駄です。他にもっとするべきことがあるはずです。形而上学的な探求は、それが具体的な実践レベルにとって有益な土台になるくらいまで追求したら、それ以上の深追いはしない方がよいです。

 いずれにしろ、私は、愛に反するような教えはすべて嫌いです。それは、宗教とは相容れないものです。難病で苦しむ人に対して、いちいちその霊的な原因を追究することに、私はあまり意味を感じられません。とりわけ、その苦しみを増すような教えはなおさらです。
 本人がどうしても原因を知りたいと言ったら、私なら「わかりません。それよりも、これからどうすれば少しでもよくなるかを一緒に考えましょう」と答えるでしょう。あるいは、もし励ましになるかもしれないと判断したら「これは神の試練ですよ」と答えるかもしれません。いずれにしろ、苦しみにある人に対しては、安らぎと希望を抱いてもらえるような対応をすることこそが、真の宗教やスピリチュアルの道ではないかと思うわけです。間違っても「業病」などという、根拠のない愚かな言葉は使うべきではありません。

 余談になりますが、こんな話があります。むかし、ある寒い冬の夜、貧しい家に住む一人の禅僧のもとに旅人がやってきました。しかし、貧しいので暖をとるための薪がありません。旅人は寒くて震えています。するとその禅僧は、大切にしていた仏像を燃やして、旅人を温めてあげたのです。
 これこそ真の宗教者のすることではないでしょうか。そして仏様も「これでよい」と、喜ばれたのではないかと思います。ガチガチの宗教者ではなく、何が一番大切なのかを見究めたうえで柔軟性のある行動がとれる宗教者こそ、真の宗教者だと思うのです。

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コメント

カルマの法則によって今世不遇な目に遭うといった考えを、私も受け入れていません。ただ純粋に人は自分が蒔いた種を刈り取るのだという受け止め方をしています。

カルマ云々と主張することは、だから今世で苦しむのは当然だとするその考え自体が非常に非人間的だと感じるからです。

この世の中の誰にでも現実的な救われがあっていいと思いますし、あるはずであり、そこを説き導くのが教えというものでしょう。人の苦しみに便乗し、己の主義主張を、それも宗教に絡めて言うことは単に非道な行為と思います。

個人的には、生命そのもの、また生命の在り方は神の領域と思っています。ですから、誰も生命というものに対して権限というものはない。あるなら、いつでもその生命を蘇らせることもできなければいけない。人の手の届かぬ領域というものは必ずあり、それゆえ人は目に見えぬものを畏れ尊びもするのだと思います。
2020-08-02 Sun 11:54 | URL | とおる [ 編集 ]
斉藤啓一です。とおる様、コメントありがとうございました。神や生命、そして宗教といった問題は、その善悪をつけるのが非常に難しいですね。だからこそ、すべての人が互いに謙虚になって柔軟に理解していくべきで、自己の主張を一方的に押し付けるようなやり方は、この世に不調和をもたらす、もっとも反宗教的な行為ではないかと思います。
2020-08-02 Sun 20:04 | URL | [ 編集 ]
石原氏の発言について、こちらの記事ではじめてしりました。まさか・・・・と思って調べましたら、

以下です。

ALSは業病」ツイートで炎上
ツイッターで「作家なのに『業病』の意味も知らないのですか」「東京都民としてこんな恥ずかしい知事を持ったことが残念で仕方ありません」

石原氏は7月31日、「ALSを難病とせず業病と記したのは偏見によるものでは決してなく、作家ながら私の不明の至りで誤解を生じた方々に謝罪いたします」とツイッターに投稿した。

以上

斉藤先生のおっしゃるとおり、愛や思いやりがあれば、このような言葉はでてこないはずですよね。ましてや、影響力のある人は、ツイートをこのような使い道をしてはいけいと思います。それに反論する自由がだれにも与えられているツイートはありがたいですね。




2020-08-03 Mon 07:57 | URL | 通りすがり [ 編集 ]
斎藤 さま

今回の安楽死に関しては、いろいろ考えさせられます。
そして何が正解なのか、どうすればみんなが救われたのか、答えは見つかりません。

そして、「カルマの法則」という言葉。
これ自体は真理を表現しているのかもしれませんが、それを説明している多くのスピリチュアルを語る人、宗教家は、大変大きな勘違いをされていると感じます。
過去世で犯した罪が現世で返ってくる……いろんなモノを観察している限りそれは全く感じられません。

その時代で異なる善悪の定義が、その時代で消費されずに別の時代で返ってきても、何の意味も成さないのですから。

「カルマの法則」の本質とは、自分の行いは自らのDNAに刻まれて、その後の自分の糧になる……そういうことだと解釈しています。
難病や事件事故に巻き込まれる……そういうこととは、違う次元の話だと思います。

過去においしいものを食べた記憶によって、食に対する欲求が強くなってその欲求に従ったために病気になることはあると思います。
また、大きな勇気をもって乗り越えた記憶が、さらなる困難に立ち向かわせる力になることも同義だと思います。

今、病気と戦っていることが、未来の自分や周りの人のDNAに刻まれ、いつしか希望を生み出すことはあるでしょうし、くじけた姿は、連鎖的にそういう事態を生み出すかもしれません。
ですから自分の行った結果が、未来に影響を及ぼすことはあるでしょうし、未来の誰かが痛みを負うことも考えれます。

ただそれは、過去の報酬を受け取るためでも、罪を償うためでもないということを感じて欲しいと願います。
これは、社会全体で受け止める必要があるもので、これを個人に責任に押し付ける身勝手な解釈は、非常に身勝手な行為としか思えません。

今回のALSの発症者の方は、拾ってしまったのだと感じています。
それを無意識に。

ただ、自らが戦うことで、その後の誰かが救われると感じることができたならば、その方も安楽死を望まなかったかもしれません。

非常に「我の強い」今のカルマの法則の解釈は、いずれそれを謳う人を飲み込んで、苦痛しか生まない世界を作り出す気がしています。
悲しいことです。
2020-08-03 Mon 09:45 | URL | 黒いネコ [ 編集 ]
斉藤啓一です。通りすがり様、そしsて黒いネコ様、コメントありがとうございました。

通りすがり様のおっしゃるように、思いやりがあれば、たとえ百歩譲って今回の件がうっかりしたものであるとしても、そういう言葉は口に出ないように思います。心の底では何か差別的なものや、自分が信じる考え方への固執があるのではないかと思います。

黒いネコ様は、あらためて「カルマの法則」というものを、その上っ面だけで取り扱うことの危険性を示してくださいました。私はこの地上世界には、いかなる場合にも適応できる普遍的な真理はないと考えていますので、カルマの法則にしても、柔軟に解釈し、何よりも私達にとって肯定的な意味をもった扱いをしなければならないと思いました。
2020-08-03 Mon 15:13 | URL | [ 編集 ]
今回の事件に関してはいろいろと思うところがありました。
ALSは前から知り合いのご家族が罹患されたこともあって、恐ろしい病気だと思っていました。その苦しみを多少は想像できるにも関わらず、亡くなられた方には最後まで頑張って欲しかったです。
というのは、人間は生きるにおいて「寿命まで生ききる」ということが一番重要だと思うからです。
カルマというのは古代インドのヒンドゥー教から
来ている考えだと思いますが、支配層のアーリア人が自分たちに都合のいい社会にするために作った精神的な縛りの制度だと解釈しています。
おそらく世の中の理不尽を説明するにはとても上手く機能したのだと思います。
そこから脱却したのが仏陀なのだと思います。

私はスピリチュアルでよく使われる解釈ではありますが、この世で難病や災難を得ることはある種のチャレンジなのだと思います。ヘタレにはとても出来ないことです。もし魂があって、それを向上させることが使命ならば、その苦難を乗り切るということはとても難易度の高い経験をクリアしたということになるのかもしれません。

ただ医療の在り方は今後検討されるべきではないかとも思います。

石原元知事の発言はかねてからの失言癖を考えると、何となく他人事とは思えない悲しさを感じます。
かくいう私も自分の失言に苦しんだ覚えがあり、振り返ると、愛がないというより、迂闊で想像力が足りない浅はかな人間だったのだと思います。
そんな人間もいるのです。

2020-08-04 Tue 11:58 | URL | ユニ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ユニさん、コメントありがとうございました。こうした問題は簡単に白黒つけられないところがあり、難しいですが、いろいろと考えてみるきっかけになったのはよいことだと思っています。いろいろな意見があってもいいし、その方が理解が深まります。決めつけたり独断に偏らないように気をつけながら、今度も探求し続けていきましょう。よろしくお願いいたします。
2020-08-04 Tue 16:45 | URL | [ 編集 ]

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