FC2ブログ

心の治癒と魂の覚醒

        

名声を求めることの弊害について


 宗教の世界では、おおむね禁欲が説かれています。食欲や性欲や睡眠欲といった肉体的な欲望を抑制する修行が行われているのです。しかし、そうした欲望よりも弊害が大きいにもかかわらず、またしばしば、そうした欲望を煽る元凶にさえなっているにもかかわらず、ある欲望については、案外、見落とされています。
 この欲望は、肉体的な欲望よりもはるかに弊害が大きく、肉体的な欲望は克服できているような「聖者」でも、この欲望は克服されておらず、むしろそれに振り回されており、しかもやっかいなことに、振り回されていることに気づかないような場合が、ときおり見られます。
 今回は、それについてお話させていただきたいと思います。
 その欲望とは、「名声欲」です。
 名声を求めることは、この世の視点からはともかく、霊性進化という視点から見れば、これほど危険なことはありません。肉体的な欲望を克服するよりも先に、まずはこの欲望を克服すべきではないかと私は考えています。

 ここで言う「名声」という言葉を、私は広い意味で使っています。「有名になること」、「賞賛されること」、「尊敬されること」、「ひとかどの人間だと思われること」、「歴史に名を残すこと」など、こうした欲求すべてを含めて「名声」という言葉で表現しています。単純に言ってしまえば「認められたい」という欲求です。「優越感を満たすことへの欲求」と言ってもいいでしょう。
 人は誰でも認められたいという欲求を持っていると言われます。この欲求があるがゆえに、人は努力します。それは成功の原動力となり、この世的な意味における「立派な人」になるうえでの、強力な動機づけとされていますから、一般的には肯定的に見なされています。
 しかしそれでもなお、名声を求めることは危険であると、申し上げたいと思います。
 名声を求めるのではなく、たとえば自分が好きなことを一生懸命に行うとか、無私の心で何かをするといったようなことをして、あくまでもその結果として、名声が得られるのであれば(そしてその名声に心動かされることがないのであれば)、何も問題はありません。
 しかし、名声そのものを求めて努力することは、人を堕落させ、醜悪にさせ、不幸にさせる可能性がきわめて高いのです。
 名声を求めて一生懸命に努力した結果、それが得られた場合、まず最初に襲ってくる「悪魔」は、高慢さです。最初のうちは、その悪魔は慎ましく振る舞い、名声を得た直後は、まだ謙虚さを保っていることがあっても、名声ある人として世間から尊敬され、崇められ、特別扱いされることに慣れてくると、しだいに、そのような扱いをされないときには不満となり、腹を立てたり、イラついたりするようになってきます。つまり、怒りという煩悩の温床になってしまうのです。
 あげくの果ては、あからさまに人を見下す態度をし、威張り散らしたり、いわゆるパワハラのようなことをしたりします。これは人間として醜悪であるばかりか、人を苦しめるという悪業を積むことにもなります。
 一方、名声を求めて一生懸命に努力したのに、得られなかった場合は、「自分には価値がない」という、自己否定感、低い自己価値観、自己卑下や劣等感に襲われます。そして、名声ある人に対する嫉妬や憎悪に駆られるようになります。自分を認めない人間、自分を認めない世の中に敵意を向けたりします。つまり、この場合もまた、怒りという煩悩の温床になってしまうのです。
 人間や世の中に対する鬱積した妬みや憎悪のために、自分より立場が下の人に対して意地悪をして鬱憤をはらしたり、インターネットで誹謗中傷したり、極端な場合、自分を認めない世の中に対する復讐の意味で、無差別殺人といったことを起こしたりします。殺す相手は誰でもいいのです。見ず知らずの人々というのは、「世の中」の象徴だからです。典型的な例が、オウム真理教の麻原です。麻原は選挙に出て惨敗しました。彼はそのとき、自分を認めなかった世の中を憎悪し、その復讐のために、地下鉄サリン事件を起こしたのだと思います。

 もちろん、犯罪やモラルに抵触しなければ、名声を求めて努力することで、たとえば一流企業に就職し、出世して高い地位や富を得て、タワーマンションの最上階に住んで高級外車を乗り回すといった、人からうらやましがられるような、いわゆるセレブと呼ばれる人となり、世間的には「立派な人」と見なされ、幸せに暮らせると思われるかもしれません。
 しかし、そう簡単ではないのです。
 一度そのような境遇になれば、その境遇を失うことに相当な苦痛が伴います。今まで高級住宅街に住んでセレブと見なされていたのに、庶民的な街に転居してありふれたマンションに住んで「普通の人」と見なされるようになることなど、考えただけでもぞっとする悪夢であり、もしそうなったら、相当な絶望感に見舞われるでしょう。人が「名声」に対していだく執着というものは、それほどまでに根深いのです。
 そのために、現在の境遇が失われはしないかという不安や恐怖感に、常にさいなまれることになります。これが、高慢さの次に現れる悪魔です。
 そして、セレブの生活を維持するために、大変な努力をし続けなければなりません。仕事が順調にいっている時はいいでしょうが、いつもそうだとは限りません。うまくいかない時もあるでしょう。そうなると、かなりのストレスや重圧に悩まされることになります。その結果、健康を損ねたり、家族関係が悪くなるといったことも生じてきます。
 セレブと呼ばれている人たちは、はたからは、さぞかし幸せだろうと見られがちですが、そういう人たちをカウンセリングしたことのある私からすれば、彼らははたで見るより幸せではありません。必死に幸せを演じているから幸せに見えるだけです。もちろん、一時的には幸せなときもあるでしょう。しかし、いつまでもずっと幸せであり続けるセレブなどというのは、存在しないか、したとしても、きわめてわずかだと思います。

 衣食住に困るのは不幸ですが、最低限の衣食住を維持するだけなら、セレブになる必要はありません。それなのに、人々がセレブに憧れるのは、いろいろ理由はあるでしょうが、もっとも大きな理由は、みんなからうらやましがられ、優越感に浸りたいからです。つまりは、名声欲のためです。
 名声欲を野放しにすると、食欲や性欲といった肉体的な欲望も強くなってきます。たとえば「セレブが食べるような高級料理を食べよう」ということになり、食欲が煽られていきます。また、男性の場合「セレブにふさわしいきれいな女性をパートナーにしよう」となり、性欲が煽られていきます。セレブになると、そうした食欲や性欲を満たすことができるようになってきますが、欲望にはきりがないので、ますます欲望が強くなってくるのです。
 名声というのは、麻薬のようなもので、一度それに浸ってしまうと、今度は名声なくしては苦しくていられなくなります。いわば「名声依存症」という状態になってしまうのです。
 麻薬がなければ苦しみを感じる人と、麻薬などなくても平気な人と、どちらが幸せと言えるでしょうか? つまり、名声がなければ苦しみを感じる人と、名声などなくても平気な人と、どちらが幸せか? ということです。
 麻薬など、へたに手を出したら最後、人生は破滅に向かいます。同じように、名声に取り憑かれたら最後、人生は破滅に向かいます。あるいは、人間として醜悪になります。仮に死後の生や来世というものがあるとしたら、かなり悲惨なものになるでしょう。

 ですから、名声など、求めてはいけないのです。麻薬を求めてはいけないのと同じです。
 そもそも、「人よりすぐれて優越感に浸りたい」などという願望は、卑しくてさもしい人の抱く願望です。名声はエゴの中核であり、悪魔の誘惑の常套手段であり、霊性進化という点から言えば、百害あって一利なしです。今まで立派だったのに、名声を得たとたんに堕落し、高慢で人を見下すような、醜悪な人間になった人を、私は何人か見ています。
 それよりも、すでに述べたように、自分の好きなこと、自分の得意なこと、世のため人のためになることを、一生懸命にすることです。その結果として名声を得たのであれば、そして、その名声に心を動かすことがないのであれば(これがけっこう難しいのですが)、何も問題はありません。名声そのものを求めることが問題なのです。
  
スポンサーサイト




エゴを消滅する方法 | コメント:2 | トラックバック:0 |
<<「当たり前」の大切さ | ホーム | 人生の目的>>

コメント

名声というのは意外と深い落とし穴が仕掛けられているのかもしれませんね。
他人からの評価は素晴らしいことですが、そこにあぐらをかいて傲慢になる場合もありそうです。恐らく何かのコンプレックスの裏返しでは。
あまり格好のいいものではないですね。
2020-09-04 Fri 10:23 | URL | ユニ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ユニさん、コメントありがとうございました。コンプレックスの裏返しというのは多いでしょうね。いずれにしても、格好のいいものではありません。気を付けていきたいと思っています。
2020-09-04 Fri 16:57 | URL | [ 編集 ]

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

| ホーム |