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心の治癒と魂の覚醒

        

マズローの「欲求六段階説」は本当か?

 アメリカの心理学者アブラハム・マズローが唱えた「欲求五段階説」というものがあります。自己啓発系セミナーなどでよく引き合いに出されたりしています。有名なのでご存知の方も多いと思いますが、ざっと説明すると、人間の欲求は五段階のピラミッドのように積み重なっており、低次の欲求が満たされてはじめてその上の欲求を満たそうとするようになるという理論です。ピラミッドの一番下に位置するのは食欲などの「生理的欲求」、それが満たされると、その上に位置する「安全欲求(安全・安心した暮らしがしたい)」を満たそうとします。その安全欲求が満たされると、その上に位置する「社会的欲求(集団に帰属したり仲間が欲しい)」という欲求を満たそうとし、それが満たされると、その上に位置する「尊厳欲求(認められたい、尊敬されたい)」を満たそうとし、それが満たされると、その上に位置する最上位の「自己実現欲求(自分の能力を活かして創造的な活動がしたい)」を満たそうとする、という理論です。
 この理論は、確かにある程度、その通りではないかと思います。
 ただ、マズローは晩年、さらにその上に「自己超越欲求」を付け加えたようです。これは、自分よりも世のため人のために生きたいといった、エゴを超越した博愛主義的な崇高な生き方への欲求です。
 ということは、マズローは最終的に「欲求六段階説」を唱えたことになると思われます。
 仮にそうだとすると、最上位となった「自己超越欲求」は、その下の「自己実現欲求」が満たされないと発揮されず、自己実現欲求はその下の「社会的欲求」が満たされないと発揮されず、社会的欲求はその下の……ということになり、結局、最下位の生理的欲求が満たされないと、その上の欲求はすべて発揮されない、ということになります。

 しかし私は、マズローのこの理論には疑問を抱いています。
 というのも、この社会を見渡すなら、生理的欲求も満たされ、安全欲求も社会的欲求も満たされ、尊厳欲求も、自己実現欲求も満たされているのに、まったく自己超越欲求、つまり自分よりも世のため人のために生きようとしている人を、あまりにも見かけないからです。私の経験からいっても、会社を立ち上げてそこそこ成功し、本も何冊も書いて、十分に五段階すべての欲求を満たしていると思われた社長のもとで一時期働いたことがありますが、博愛のかけらもなく、そればかりか、エゴの塊のような人でした。

 逆に、生理的欲求さえも満たされていないのに、自己超越欲求を発揮したという例が、数多く見いだされます。たとえば、ナチス強制収容所の経験をもつ精神科医ヴィクトール・フランクルの証言がそれを示しています。強制収容所では、食べ物さえ満足に与えられず、いつ殺されるかもわかりませんでした。つまり、生理的欲求も安全欲求も満たされない状況だったわけで、いわんや社会的欲求、尊厳欲求、自己実現欲求などは問題外でした。そんな中で、少数ではあったにせよ、ただでさえ少ない自分の食べるぶんを人に分け与えたり、一生懸命に仲間を励まし慰めてまわる人たちがいたというのです。
 また、私自身、ホスピスでカウンセラーをしていたとき、もうすぐ亡くなってしまう患者さんの中に、つまり、五つの欲求が満たされているとはいえない人の中に、すばらしい博愛的精神に目覚めた人も、何人か見てきました。
 さらに、古今東西の博愛的聖者たちの伝記を研究すると、彼らは必ずしも五段階欲求を満たした人ばかりではありません。それどころか、自己超越をするために、あえて生理的欲求も安全欲求も社会的欲求も尊厳欲求も自己実現欲求も否定してきた人たちばかりです。
 以上のような理由から、マズローの「欲求六段階説」には、大きな疑問を抱いているのです。むしろ、彼のいう五段階の欲求が満たされない方が、最上位の自己超越欲求(博愛精神)が発揮されるのではないかとさえ思うくらいです。

 五段階説の頂点である自己実現までは、基本的にエゴです。したがって、五段階説だけなら、ある程度は真実であるかもしれません。しかし、その段階の上に「自己超越欲求」を積み重ねるのは無理があります。なぜなら、自己超越欲求とは、エゴを捨てることだからです。自己実現欲求まではエゴで突っ走ってこれます。基本的にエゴが推進力となっています。ですから、その延長線上に、エゴのない博愛精神である「自己超越欲求」を配置することはできないのです。今までエゴで突っ走ってきたのに、急にエゴが消滅するなんてことはありません。何か別のファクターがそこに導入されたと考えなければ、説明がつきません。
 では、その「ファクター」とは、いったい何なのでしょうか?

 それはおそらく、すでに聖者の行いについて少し触れたように、マズローのいう五つの欲求を否定することが、そのファクターではないかと思うのです。これは五つの欲求が満たされてはじめて自己超越欲求が生まれるとするマズローの考え方とは正反対です。むしろ逆に、五つの欲求が抑制されたとき、自己超越欲求が生まれるのではないかと思うわけです。
 すでに述べたように、五つの欲求の発展は、基本的にはエゴの推進力に基づいています。しかし、自己超越欲求とは、エゴの消滅という方向性をもったものですから、エゴに基づく五つの欲求は、否定されなければならないわけです。
 具体的には、食欲などの生理的欲求を抑え、安全や安心を求める気持ちを捨て自己を守ろうとせずに安全欲求を抑え、集団に帰属しようとせず孤独を受け入れることで社会的欲求を抑え、自分が認められたり尊敬されようとする気持ちを捨てて謙虚になることで尊厳欲求を抑え、自己を前面に打ち出して創造的な活動をしようとするのではなく、ただ神や仏といった、おおいなる存在に身をゆだねることで自己実現欲求を抑えることです。
 こうしたことは、仏教にせよ、キリスト教にせよ、聖者と呼ばれている人たちが行った修行の内容そのものです。

 マズローは、生理的欲求・安全欲求・社会的欲求の三つを「低次の欲求」、尊厳欲求と自己実現欲求を「高次の欲求」と分類しましたが、むしろ、これら五つはすべて低次の欲求であり、自己超越欲求だけが唯一、高次の欲求であると分類するべきではないかと思います。
 仏教にせよキリスト教にせよ、めざしているものは、エゴを滅却させた自己超越欲求を開発することです(厳密に言えば、最終的にはそのような欲求の主体である「自己」さえも滅却することですが)。
 以上のような視点から、あらためてマズローの理論を振り返ると、霊的求道者にとってひとつの指針になるかもしれません。
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コメント

聖書に「義に飢え乾く人は幸いである」という言葉があったような記憶があります。
「幸いである」ということは、おそらく、そういう人は余りいないということだと思います。
釈迦様も「縁なき衆生は度し難し」とおっしゃいました。
宗教的感性というのは生まれつきの特性のような気がしますね。
全く同じお話を聞いても、それが心に強く残る人とさっと流して気にも留めない人がいるような気がします。
必ずしも段階的に発達して現われるものではないように思います。
ただ、一般的に、「衣食足りて礼節を知る」というレベルのことはあると思いますが。
いつも興味深いお話をありがとうございます。
2020-10-14 Wed 23:31 | URL | ユニ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ユニさん、いつもコメントありがとうございます。「宗教的感性」、なるほど、確かにそうなのかもしれませんね。クラシックの名曲を聴いても、すばらしいと感じる人もいれば、退屈だと感じる人もいるのと、基本的には同じなのかもしれません。貴重な示唆、ありがとうございました。
2020-10-15 Thu 10:40 | URL | [ 編集 ]

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