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心の治癒と魂の覚醒

        

神仏を愛するとは

 まずはご報告とお知らせから。 
 今月11月21日/22日のイデア ライフ アカデミー哲学教室は「西田幾多郎と山崎弁栄」というテーマで行いました。日本を代表する哲学者と、あまり知られていないけれども非常に偉大な聖者のお二人を紹介できたことは、私にとっても大きな喜びとなりました。近代日本にこんなすばらしい人がいたということを、ぜひ動画で知っていただければ幸いです。
 動画視聴
 来月は、今年最後の授業となる瞑想教室を行います。瞑想は、一部の変わり者が行う趣味のようなものではありません。本来、すべての人が行うべきものなのです。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで
 
 それともうひとつ、カバラ数秘術講座を、ミストラル・アレックス様主催で始めます。
 カバラ数秘術は、文字通り「カバラの数秘術」です。つまり、カバラの思想を土台にした数秘術です。カバラの思想とは、地上から解脱して高い次元に移行することです。ですから、単なる占いではなく、あくまでもカバラの思想、その目的のための数秘術の活用法をご紹介する予定です。
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 それでは本題にうつります。
 今回のイデア ライフ アカデミーの授業で紹介した西田幾多郎は、「愛することは知ることであり、知ることは愛することだ」と言いました。というのは、愛とは自分という意識なく相手と一体になることであり、相手と一体になれば、相手を自分のことのように知ることができるからです。
 一方、山崎弁栄は「ひたすら如来(仏)を愛せ」と言いました。愛することで仏と一体になり救われるのだと。キリスト教でも「神を愛せ」と説いていますが、本質的に同じことだと思います。
 悟りだとか救いといったものは、自力だけでは限界があるのです。もちろん、自力も必要です。しかし自力だけで悟ること、救われることは不可能です。どうしても、神だとか仏、あるいは守護霊といった、名称はどうであれ、高い霊的次元の存在から引き上げてもらう必要があるのです。
 とはいえ、弁栄はこうも言っています。
 「愛せと言われても、姿も見えないし声も聞こえない仏様をどうして愛せるのか、そんなことができるのは頭の狂った人ではないのか、と言われるかもしれませんね」
 確かにその通りだと思います。五感に触れることもなく、そもそも存在しているのかしていないのかさえ明確ではない神や仏を愛せと言われても、難しいのではないでしょうか。それなのに「私は熱烈に神を愛しています!」などと言う人がいたら、少し気味悪くさえ感じてしまいます。ただ弁栄は、「それができたのが、宗教の開祖や宗教的天才である」と述べています。

 とはいえ、私たちは、宗教の開祖ではないし、宗教的天才でもないでしょう。
 しかし、西田幾多郎にせよ山崎弁栄にせよ、また古今東西、多くの聖者は異口同音に「神(仏)を愛せ」と説いているのです。それが、神や仏から引き上げてもらうためには、どうしても必要不可欠の要素らしいのです。
 ならば、いったいどうしたらいいのでしょうか?
 「愛しなさい」と言われて「はい、わかりました」などと、簡単に愛せるものではありません。無理にそんなことをしても自分に嘘をつくだけです。
 こう考えると、悟りや覚醒に至るのは本当に難しいなあと、思わずため息が出てしまいます。
 ただ、この愛の問題さえクリアできれば、あとはかなり順調にいくようなのです。
 ですから、この問題は真剣に考えてみなければなりません。神(仏)を本当に愛することができるかどうか、ここが重要なポイントになってくるのです。
 では、どうしたらいいのでしょうか?

 逆に考えてみたいと思います。すなわち、私たちは五感に触れたものなら愛することができます。たとえば、男性の場合、きれいな女性を愛するでしょう。さらにその女性の性格が優しくて親切で、とにかく自分の好みに合った性格だったとします。すると男性は、その女性を愛するようになるでしょう。
 しかし、それは本当の意味で女性を愛していることになるでしょうか?
 単に、自分を喜ばせるルックスや性格をしている、というだけであって、要するに愛しているのは女性ではなくて自分であり、その女性は、自分を喜ばせるための手段(道具)にすぎない、ということではないでしょうか。

 では、今度は、人格高潔で徳が高く、尊敬に値する非常に立派な人物がいたとします。しかしその人は、あなたに何の喜びも与えてはくれません。それどころか、会ったこともないとします。
 あなたは、その人を愛するでしょうか?
 自分に喜びを与えてくれるわけではないから、愛することはないでしょうか?
 おそらく、ここで、人間の霊的資質というものが分かれてしまうのだと思います。
 確かに、その人は、物質的な喜びはもたらしてはくれないでしょうが、精神的な喜びをもたらしてくれます。すなわち、立派な人格者である、というだけで、喜び(感動)を感じる人は感じるのです。もちろん、感じない人もいます。立派な人を見ても、喜びを感じない人もいます。それはもう、資質の問題としか説明のしようがありません。

 釈迦もイエスも、立派な教えを説き、尊敬に値する人格者でした。そして、自分を犠牲にして人々の救済に全力を尽くしました。
 もちろん、現代においては、釈迦やイエスと会った人はいません。それは記録として知りえるのみです。にもかかわらず、そのようなすばらしい人物がいたことは事実であり、それだけで、釈迦やイエスを愛することができる人もいるわけです。それは彼らの高潔な人格に感動したからです。
 そして、釈迦やイエスを心から愛するならば、彼らの説いた教えも心から愛するでしょう。イエスは「神を愛しなさい」と言いました。「愛するイエスがそういうのなら」ということで、素直に神を認め、愛するようになれるはずです。最初はそれほど深い愛ではないかもしれませんが、しだいに深く、真実の愛になっていくのです。

 では、具体的に神を愛するとは、どういうことでしょうか。
 ただ単に「神様、大好き!」という気持ちだけでは、本当の愛とは言えないでしょう。
 本当に愛しているなら、神を歓ばせたいと思うはずです。
 では、神はどのようなことを歓ばれるでしょうか?
 神は、私たちが、この苦しみである地上世界から解脱して、自分のもとに帰ってきて同化されることを、もっとも歓ばれるのです。なぜなら、神ほど幸せな存在はなく、そんな神に同化されることが、私たちにとっては至高の幸福だからです。西田幾多郎は、そのように同化させようとする働きを「統一力」と呼び、統一力とはすなわち神であると言いました。
 神と同化するには、神と同じ属性、すなわち、高い徳を養う必要があります。すなわち、人格を向上させ、徳を完成させる生き方をすること、これが、神がもっとも歓ばれることなのです。
 ですから、神を本当に愛する人は、自分自身を立派にすることを、人生の最優先課題にするでしょう。
 神も、そんな人を嬉しく思い、いろいろと手を差し伸べてくれるでしょう。

 ただし、だからといって、この世的な喜びを与えるとは限りません。むしろ、この世的には辛い試練を与えることの方が多いでしょう。
 なぜなら、もしこの世的な喜びを与えたら、この世に対する執着が強くなり、この世に縛られてしまって、高い次元の神と同化できなくなってしまうからです。
 ですから、この世的なものに魅力を感じなくさせるために、あえて辛いことを与え、この世的なものに対する執着を断ち切るようにさせるわけです。
 それが、神の愛です。
 ですから、一見すると、神の愛は厳しく感じられることもあるわけですが、遠い視野をもって見るならば、この世の幸せとは比較にならないくらい大きな幸せを与えるための導きなのですから、やはりそれは慈愛ということになるのです。
 こうした理由をよく知って神を本当に愛するならば、何が起こっても「これでいいのだ、これが最善のことなのだ、神様、ありがとうございます」と、感謝して受け入れられる心境になっていくはずです。その心境になればなるほど、私たちは神から引き上げてもらえるようになるのです。
 愛する人は、愛する人のために生きるでしょう。同じように、神を愛する人は、神のために生きるでしょう。神と自己とは本来一体ですから、神のために生きるとは、自己のために生きることになるわけです。逆に言えば、自分のためにのみ生きている人は、本当の意味で自分のために生きていないことになるわけです。
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コメント

神を愛するとは自分自身が神を生きることだと認識して日々精進しています。神を自分の中に抱いてこそ、心は神と一体となれるのであり、一体であるということは、仰る通り神の属性を己の人格とすべく己を神に重ねて生きていくことと思っています。そして、常に神の道に従うこと。

今日自分の命があるのは、神の生命が、あるいは気が私の生命にその営みを与えているからだと、だから何よりも感謝が先に来るべきであり、自分に起こる様々な出来事も、生涯を通じて自分というものを作り上げていくために与えられたものだと、だから、そこにも感謝しかないのだと思っています。もちろん簡単にできるわけではなく、日々実践による行を重ねているわけです。

神仏を自分の外に作ってしまったのではいつまでも神仏を愛することはできない。一体となることなどできないと思っています。神の気が常に注ぎ込まれている、万物がそれにより生命の営みを続けている。その一つが自分であるということ。だから、人は皆その意識さえ持てれば神たり得るのだと思っています。
2020-11-26 Thu 11:40 | URL | とおる [ 編集 ]
斉藤啓一です。とおる様、いつも示唆に富んだコメントありがとうございます。まさにその通りですね。
2020-11-26 Thu 15:27 | URL | [ 編集 ]

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