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心の治癒と魂の覚醒

        

教え(知識)を血肉とするために大切なこと

 まずはお知らせから。
今月のイデア ライフ アカデミー(20日/21日)は、「カバラ思想の本質」というテーマで行います。魔術や占いの一種であるかのように誤解されがちなユダヤの神秘主義カバラとは、どのような教えなのか。その本質に迫っていきたいと思います。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで
 
 では、本題に入ります。
 世界で一番売れている本は聖書だそうです。ご存知のように、聖書には、愛することや謙虚さ、節度や寛容さといった、徳を養い、人格や霊性を高める教えがぎっしりと書かれています。仏典も同じです。聖書ほどではないにしても、仏典を読んでいる人も多いでしょう。
 しかし、ここで素朴な疑問が湧いてくるのです。
 これほどすばらしい本が、これほど多く読まれてきているのに、人類の精神性はそれほど進歩していない、ということです。聖書や仏典を読んでいるのに、その一方で、下劣で恥知らずなことを平気でやる人も少なくありません。
 つまり、善い知識を頭に入れただけでは、それがそのまま人格や霊性の向上につながるとは限らない、ということです。何かが欠けているのです。もちろん、人格を向上させるために、善い知識は必要でしょう。しかし、それだけではダメなのです。知識を、人格向上という実践レベルにまで変換するものが必要なのです。
 では、いったいそれは何なのでしょうか?

 釈迦の時代、多くの弟子が釈迦の教えのもとで修行しました。当時のインドの習慣として、師の教えを書き留めるということはなかったようです。すべて暗記に頼っていました。もちろん、個人の暗記力には限界がありますから、弟子たちは、釈迦の説法が終わると集まって、各人の記憶を出し合って、どんな説法が行われたかを復元し、そうしてまとめたら、最後にみんなで何回もそれを暗誦して記憶に定着させたのです。ですから、当時の弟子たちは、おそらく現代の私たちよりもはるかに記憶力がよかったのではないかと思います。
 現代の私たちは、本に頼っています。ところが、一度読んだだけでは、その内容の何分の一、あるいは何十分の一くらいしか記憶していないものです。それなのに「必要な時はいつでも読めるからいい」という、安易な状況にあるために、結局、次から次へとたくさん本は読むが、ほとんど記憶に残っていない、ということになります。記憶として定着されていなければ、どんなに善い本を読んでも、それを人格レベルにまで落とし込むことは無理でしょう。

 それに対して、釈迦の弟子たちは、記録して本としていつでも読めるような状況になかったので、それこそ非常な真剣さで、釈迦の語る言葉をすべて吸収しようと、必死に聴いていたに違いありません。その真剣さに、まず大きな違いがあるのではないかと思います。
 しかも、弟子たちは常に釈迦の教えを聴けるわけではありませんでした。釈迦から直接、説法を聴けるのは、月に一度か二度、多くても数回程度で、後は修行仲間と研究したり、独りで思索や瞑想する時間の方がずっと多かったのです。釈迦は本当に大切なことを少し話す程度で、弟子たちひとりひとりに手取り足取り手厚い指導をしていたわけではありませんでした。
 にもかかわらず、経典によれば、多くの弟子がそれで煩悩を清め、人格を向上させて解脱を果たすことができたというのです。
 知識という点では、難解で膨大な仏教理論が頭に入っている仏教学者には、足元にも及ばなかったと思います。しかし、仏教学者で解脱を果たしたという話は聞いたことがありません。
 いわゆる原始仏教、つまり、釈迦が弟子に説いた教えは、奥は深いが、量としてはそれほど多くなかったのです。言い換えれば、情報量は圧倒的に少なかったわけです。ところが、むしろ情報量の少なさゆえに、釈迦が説いたわずかな教えを宝物として大切に守り、あたため、それを実践して解脱したわけです。
 そう考えると、私たちは、あまりにも情報に恵まれすぎていて、知識を詰め込みすぎ、かえってそれが妨げになっているのかもしれません。たとえるなら、たくさん食べ過ぎた結果として下痢をし、かえって栄養不足になるようなものです。
 それよりも、エッセンスとなる教えを、少なくてもいいのでしっかりと頭に入れ、あたため、自分でも繰り返し繰り返し何回も深く考え、そうして自分の血肉とする方が、ずっと有効ではないかと思われるのです。

 それと、教えを誰から聴くか、ということも重要な要素になると思います。
 卑俗なたとえで恐縮ですが、好きでもない人から高価な贈り物をもらうより、安物でも好きな人からもらった方がずっと嬉しいように、釈迦という比類なき指導者から教えを受けるという、そのありがたさと、釈迦に対する深い尊敬の念とを伴ったとき、その教えが非常に活きてくると思うわけです。
 このように、すばらしい師匠に恵まれた人は幸せです。深い尊敬の念をもって学ぶでしょうから、自然と真剣となり、教えを大切なものとして受け入れるでしょう。そうしたとき、いかに少ない教えしか説いてもらえなかったとしても、立派に進歩していくことができるのです。
 その意味では、人を指導する立場にある人は、尊敬に値する人間性をもつことが非常に重要になってくるともいえますが、一方で、釈迦ほどの人でさえ、小馬鹿にする人がいたようですから、教えを受ける方も、教えを授けてくれる人を尊敬する気持ちをもつようにすることが大切になってくると思います。
 私の経験から言っても、霊的な分野に限らず、どのような分野であれ、礼儀正しい人は伸びます。基本的な礼儀がなっていない人は伸びません。また、自分が尊敬する人は礼儀正しいが、そうでない人には非礼なことをするような、二面性があるような人も伸びません。誰に対しても礼儀正しく、謙虚に学ぶ姿勢がある人は、どのような分野であれ、よく伸びます。

 とはいえ、ほとんどの人はそんな師匠には恵まれていないと思いますので、結局は本を通して教えを学ぶしかありません。
 しかしそのとき、「本を読んでいる」という意識を捨てて、その本の著者が目の前にいて、直接教えを説いてくださっているのだ、という気持ちになることが大切です。
 たとえば、私は毎日少しずつ『ブッダの言葉(スッタニパータ)』と、前回ご紹介した『キリストにならいて』の本を読むのを日課にしています。そのとき、「本」を読んでいるという意識は捨てて、実際に目の前に釈迦がいて、その教えを聴いているのだ、という気持ちで文字を追うようにしています。また、目の前にイエスがいて、私のために教えを説いてくださっているのだ、という思いで目を通しています。ゆっくりと、ひとつひとつの言葉をかみしめるようにしながら。そういう気持ちで読むと、やはり真剣さが違ってきます。自然と内容が頭の中に記憶されてきます。
 そうして私は、この2冊の本を、完全に暗記するまで、エンドレスで何回も繰り返して読み続けていこうと思っているのです。
 皆さんも、善い本を読むときは、このような感じで読んでみてください。そうすればきっと、善い教えが自らの血肉となって、人格と霊性の向上につながっていくと思います。
 
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