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心の治癒と魂の覚醒

        

究極のリスク管理


 国家においても、企業においても、いわゆる「リスク管理」というものが求められます。すなわち、将来、起こるかもしれない何らかの危機的状況やトラブルの可能性をまえもって予想し、そのような問題が生じないように対策を立てたり、もしも生じた場合は、どう対処したらいいか、あらかじめ講じておくことです。
 こうしたリスク管理は、国家や企業に限らず、個人においても必要なことです。たとえば、将来、病気になったり職を失ったりするといったリスクがあるわけですが、それを回避するような手段を日ごろから講じたり、万が一そうしたリスクが生じた場合、どう対処するかといったことを、あらかじめ準備しておく必要があるわけです。そのために、健康面ではダイエットや運動をするといったことがあげられますし、職を失ったりするとか、事故や災害などに関しては、保険をかけておくといったことをすることになるでしょう。

 ところで、世間でいうリスク管理は、あくまでもこの世に生きている間だけに関してであって、「死後のリスク」については関与していません。しかし、個人レベルでは、死後のリスクについても、リスク管理をする必要があると思うのです。いわば、遠い先までも考慮した「究極のリスク管理」です。
 死後のリスクというのは、「死後に苦しい状態に陥る」ことです。俗に言う「地獄に落ちる」ということです。
 ここで問題となるのは、そのような、死後の世界などといったものがあるのかどうかです。唯物論者は一笑に付して、死後の世界など存在しないと言うでしょう。もちろん、死後の世界が本当にあるかどうか、誰にもわかりません。あるという証明もできないし、ないという証明もできません。あるかないかわからないものに対して、対処をしておくなどということは、馬鹿馬鹿しく思われるかもしれません。
 しかし、リスク管理というものは、そもそもそういうものなのです。将来、たとえば交通事故を起こすかどうかなど、誰にもわかりません。しかし、もし交通事故を起こしてしまった場合、その損害は致命的なものになるので、ほとんどの人は、クルマに乗るときは自賠責保険だけでなく任意保険もかけているわけです。

 死後の世界も同じです。「死後の世界なんてない、地獄なんて存在しない」といって、人をさんざん苦しめてまでカネや地位を獲得した人がいるとして、もし地獄が存在していたら、その人は死後に地獄に行って、筆舌に尽くしがたい苦しみを味わうことになるかもしれません。
 釈迦もキリストも地獄はあると言っています。彼らの教えによれば、地獄という場所は、想像をはるかに超えたひどい苦しみを、永遠か、永遠に近いともいえるほど長期間にわたって味わうことになるらしいです。
 たかだか長くても百年くらいにすぎないこの地上人生を、人を苦しめてまでカネや地位に恵まれて幸せに暮らせたとしても、死後に待ち受けている、壮絶な苦しみを気が遠くなるほど味わわなければならないとしたら、割りにあわないのではないでしょうか。

 ですから、私たちは、死後の世界までも考慮してリスク管理をしておく必要があるわけです。そのためには、「悪いことはしない」ということです。殺人といった重大な犯罪はもちろんですが、ささいなイジメや嫌がらせ、パワハラといった、人の心を傷つけるような行為であっても、その報いを受けなければならないリスクがあるわけです。そしてその報いは、釈迦やキリストの主張が本当なら、私たちが想像する以上に苦しいものです。
 したがって、死後の世界があるかどうかはわからないとしても、もしあった場合のことを考えて、それに対処していく、つまりリスク管理をしておく、ということが大切だと思うわけです。そのために、ずるいことはせず、人をだましたりいじめたり裏切ったり踏み台にするようなことはせず、正直に、誠実に、まじめに、正義感をもって柔和に生きることです。これが究極のリスク管理です。

 ところが、この地上世界という場所は、ずるいことをしたり、人をだましたりいじめたり裏切ったり踏み台にしたりする人の方が、成功したりカネや地位に恵まれることが多いのです。たとえそこまで言わないにしても、目上にこびたり、自己を売り込んだり、心にもないパフォーマンスをすることが上手な人が成功する傾向があるわけです。
 一方、正直に、誠実に、まじめに、正義感をもって柔和に生きる人は、そのために馬鹿を見るようなことも少なくありません。この地上世界は、だいたいにおいて、不条理で汚い場所なのです。ですから、このような地上世界で、正直に、誠実に、まじめに、正義感をもって柔和に生きているのが、愚かしく思えてしまったり、いじけてしまいたくなったりするのです。無理もないことです。

 しかし、そうしてこの世ではさえない人生を送ったとしても、「死後の地獄行き」という、とんでもないひどいリスクは回避していることになります。もちろん、地獄など存在しなければ、悪いことをしてまでもこの世の成功をつかんだ人が「勝ち逃げ」ということになりますが、もし存在していたら、その損害と苦しみの恐ろしさは、はかりしれないものがあります。
 ですから、人生をまっとうに生きて、そのためにさえない人生を送ることになったとしても、それはすばらしい「リスク管理」をしていることになると思ったらいかがでしょうか。クルマの保険をかけ続けて、結局、事故を起こさなければ、今まで支払った保険料は無駄ということになりますが、しかし、安心してクルマの運転ができたわけですから、その保険料は「安心を買った」という意味に解釈できるわけで、決して無駄ではなかったことになります。

 なお、釈迦やキリストは、天国(極楽)についても説いています。善き行いをした人が天国に行くわけですが、地獄とは正反対で、地上のいかなる幸福とは比較にならないくらい幸福だとされています。長くても百年という短い地上人生の間に、人間としてまっとうに生き、人に優しくし、困っている人がいたら助け、機会あるごとに親切にするならば、天国か、少なくともそれに近い霊的領域に死後は行くことになるでしょう。これを「投資」にたとえるなら、最高にパフォーマンスの高い投資です。千円の株を買って、それが値上がりして一億円になったくらい、あるいはそれ以上のものです。
 たとえ人に親切にして、感謝されなかったりしても、実害はありません。むしろ、感謝されたりしたら、それだけ功徳が減ると考えて、感謝されなくてよかった、くらいに考えるといいと思います。
 神智学の教義によれば、ほんの小さな親切であっても、霊界では、とてつもなく大きな功徳として認められるとのことです。卑俗な例をあげれば、貧しい人に千円をあげたら、霊界では一千万円をあげたくらいの功徳があるらしいのです。
 たとえ、そのような功徳は別としても、人を助けたり善いことをすれば、気分がいいし、それだけでも十分な報酬であるとも言えると思います。

 ということで、皆さん、この地上人生は短いです。あっという間です。私なんか、いつのまにか60歳になったと思ったら、先月、もう61歳になってしまいました(笑)。こんな短い人生において、どれほどカネや地位を手にしたところで、それが何だというのでしょう。それよりも、リスク管理をして生きようではありませんか。悪いことはせず善いことをして死んだなら、仮に死後の世界がなかったとしても、そういう生き方をしたというだけで気持ちよく生きたことになります。そして、死後の世界があったなら、それこそ想像を絶するほどすばらしい生が待っているのです。どちらにしろ損はないのです。
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コメント

リスク管理というお考え、よくわかります。私も万が一あの世があるかもしれないし、と思って行動するようにしています。ただ、地獄とか、天国という極端な世界はちょっと考えにくく、単に、自分と同じような性質の人たちが集まっている所と解釈しています。スェーデンボルグの本を読んだら似たようなことが書いてあって、なるほどと思いました。
問題は、本当の善とは何かが中々わからないことです。いいことをしたつもりで実は迷惑になっていたり、とんちんかんな事をしてそうです。
もう少し賢くなりたいものです。
2021-07-14 Wed 18:39 | URL | ユニ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ユニさん、コメントありがとうございます。何が善であるかわからない、賢くなりたい、というのは同感ですね。ただ、結果的に悪いことをしたことになっても、それがよい動機でなされた場合は、どうもおおめにみてくれるらしいです。でもやはり悪いことはしたくないので、せいぜい一生懸命いろいろなことを勉強して、少しでも善悪がわかるようになりたいものです。
2021-07-14 Wed 18:52 | URL | [ 編集 ]

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