心の治癒と魂の覚醒

        

祈りの本質とそれがもたらす力

 前回述べたように、祈りの本質は、感謝と全託の気持ちだと思います。
 そして、こうして神と交流し、神とひとつになった祈りの状態でなにか願い事をすると、それが叶えられる可能性は高くなるようです。
 もっとも、本当に感謝と全託の気持ちがあれば、あまり利己的な願い事はしなくなるでしょう。たとえば、「お金が欲しい」とか「結婚がしたい」という願い事があったとしても、感謝と全託の祈りから発するときには、「自分も他者も幸せにするために使うお金が欲しいのです」とか、「配偶者の幸せに貢献し、子供を立派に育て、世の中に貢献していきたい」といった、利他的な動機が入り込むようになるはずです。そのような祈り(願い事)は、神(宇宙)の法則と合致しているので、叶いやすくなるのです。
 ただ、全託しているわけですから、結果がどうなっても「これでよかったのだ」と思えなくてはなりません。不平不満をいったら全託したことにならないからです。
 さらにいえば、神は、私たちに本当に必要なことは私たち以上にご存じのはずですから、神への信頼が深まり、本当に全託の境地となれば、いかなる願い事もしなくなるのかもしれません。
 とはいっても、私たちは、いい意味での「人間らしさ」を持ってもいいと思うのです。そのひとつが願い事ではないかと思うのです。苦しんでいる人を目の前にして「苦しむなら苦しんだ方がいいのだ」というのは、確かに真理としてはそうかもしれませんが、人情としてはどうかと思うのです。やはり、「あなたの苦しみが癒えますように」と祈ってもらえたら嬉しいですし、励みにもなるでしょう。あまりにも苦しいときには、自分の苦しみを救って下さいと祈りたくもなるでしょう。そのこと自体は、必ずしもエゴだとは思いません。苦しいときに救われたいと願うのは、心情として当然だと思いますし、そういう人間的なところがあった方が、いざ今度は人を助ける場合になっても、うまく人を導けるようになると思うのです。いくら理屈は正しくても、人間的な温情に欠けた人は、他者に対する救済という点で弱い気がいたします。高い境地にあると思われる聖者たちも、けっこう神に願い事の祈りを捧げていたようですし。

 いずれにしろ、祈りの本質は「感謝と全託」であり、「神様、ありがとうございます」という気持ちだと思うのです。いいことがあっても、悪いことが起こっても、なにも起こらず平凡であっても、すべてをよしとし、神に感謝する気持ちです。そのとき、私たちは神の意識とひとつになっているのだと思います。
 神の意識とひとつになっているとき、神の導きがより効果的に得られるようになるのです。神の導きが得られるとは、これ以上に最高の人生はない、という生き方ではないでしょうか。
 なぜなら、神の智慧は、人知などとうてい及ばないほどすぐれているからです。私たちはまるで、迷路を脱出しようとしてもがいているネズミのようなものであり、神様は、迷路の全貌を空高くから見て、どの道がゴールへの最短距離なのか一目瞭然にわかっているのだと思います。
 したがって、神の導きによってカルマの浄化などをさせられ、現象的には辛い出来事が起きたとしても、「最高の人生」だといえるわけです。たとえば、本来ならこれからもたくさんの悪いカルマを作り出し、そのためにたくさん苦しんで、ようやく覚醒の道をめざすという運命だったのが、過去のカルマを早く清算することで、もう悪いカルマを作り出すことがなくなり、結果としてトータルに見たときには、他の魂がうらやむくらい、少ない苦しみで覚醒の道に到達できるかもしれないからです。

 神様は、おそらくそのようにして私たちを「救済」しようとしているのではないかと思うのです。つまり、神の救済手段とは「浄化」なのです。
「早く浄化させよう。早く浄化すれば、それだけ苦しみが少なく、早く幸せになれるのだから」
 これが、神の愛であり、神の考えなのではないでしょうか。私たちが意味もなく苦しむのを、神がよしとするはずがありません。なるべく苦しみ少なく、最短距離で覚醒して欲しいと願っているはずなのです。
 ところが、狭い視野しか持たない凡夫の私たちにすれば、不運や苦労には浄化という意味があることが理解できず、つまり幸福への最短距離だということが理解できずに、文字通り「不運」であり「苦しみ」としか認識できないのです。そのために、いじけてしまったり、絶望したり、不正な手段に訴えたりして、うまくカルマの浄化を果たすことができなくなるという、悲しい状況になってしまったりするわけです。
 そのような悲劇を繰り返さないためにも、私たちは本当の祈りを習慣的に実践していく必要があると思うのです。避けられる苦しみは避け、苦しみを乗り越える努力を続けながらも、姑息な手段に訴えるのではなく、神の意思に叶った正しい生き方を貫き、祈りながら、苦しみに耐えてカルマが消滅するときをじっと待ち続けること、結局、これこそが幸せになるためのもっとも確実にして、もっとも近い道ではないかと思うのです。

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コメント

斉藤先生、こんばんは。

先月の18日の夜から瞑想を始めたので、1ヶ月以上になります。
雑念ばかりで何の光も見えませんが、続けます。
すべて神様のみ心のままに、と祈っています。
2010-07-21 Wed 23:41 | URL | 両さん [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、ありがとうございました。
一ヶ月間、一日も休みなく、ですか?
それはすごいですね。できそうでいて、できないものです。
修行の成果は、お湯を沸騰させるようなものだと思います。水に熱を加えても、しばらくは何の変化もありませんが、突如として沸騰するのです。
今は、「熱」を加えているときなのです。ここでやめてしまったら、今まで加えた熱も冷めてしまい、振り出しに戻ってしまいます。ぜひ続けてください。そうすれば、いつか突如として開かれるときがくるはずです。

2010-07-22 Thu 09:29 | URL | [ 編集 ]
こんにちは。

私も、瞑想中、相変わらず思考がわき、しかし、それを止めてはいけないと聞きましたので、流れるままに走馬灯のようにと思いながら、なんとか続けています。雑念は、川にそれを流す様子を思い浮かべれば、すこし流している気分になる気がします。
光は見えませんが、なんとなく、すっきりするのと、
感謝と愛情が強くわいてくる瞬間があるようになった気がしています。
魂(神)は自己が認識するよりも、瞑想や想念の影響を受けるのかもしれません。
それを励みに頑張ります。。

斉藤先生が書かれた、人間らしい願望や気持ちは私も大切にしたいと思うようになりました。
エゴからの明らかに汚れた想念は別にして。
神は、地上で私たちが、人間らしく楽しむ体験をすることもその目的としているのではと思うからです。
そうしながら、意識を高め、本当の平和、愛や幸せに到達することを願われているのではないかと思うのです。

2010-07-22 Thu 09:36 | URL | WakayamaKajimoto [ 編集 ]
こんにちは、斉藤さん。
自分の願い事って、あまり思い浮かびませんねぇ。神様とひとつに繋がっていると考えるとそれだけで幸せいっぱいになります。

むしろ施設に来ている利用者さんがたのために、神様に祈りたいですね。彼らの障害が少しでも軽くなればいいな、とか。

私もまだ瞑想中に光は見えません。ですがそれも神様の思し召しと考えています。
2010-07-22 Thu 12:23 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。以上、お二人のコメント、どうもありがとうございました。
瞑想というのは、あれこれ考えるというより、ある種の「チューニング」だと思います。続けていけば、しだいに高次の存在とチューニングできるようになってくると思います。
人間らしい心というのは、人間にはどうしても弱点や欠点や好ましくない欲望があり、そこから抜け出すのは容易ではないということを、深く理解し、それを責めたりせず、ゆるしあっていく気持ちではないかと思うのです。

そして、他者の幸せを祈ることができるようになれば最高ですね。そのような気持ちこそが深い瞑想の境地なのだと思います。へんに光などを見るよりも、そういう境地になる方がずっと重要だと思います。
また、こういう境地に近づいていけば、光が見えるようになるのも時間の問題ではないかと思います。
2010-07-23 Fri 09:54 | URL | [ 編集 ]

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