心の治癒と魂の覚醒

        

神への全託とエゴの終焉

 神に祈るとは、「神への感謝と全託」ではないかと述べました。全託とは、すべてを神にゆだねることであり、なにがあっても「これでいいのだ」と心の底から思える心境です。それは自分自身を捨てること、「煮るなり焼くなり好きにしてくれ!」と、自分を神に捧げることです。いわば、究極の自己放棄といえるでしょう。
 もちろん、これは口でいうほど簡単なことではありません。
 なぜなら、自我(エゴ)による自己防衛の本能が、それをゆるさないからです。私たちは自分の本質を自我と思っているので、自分を捧げるというと、自分自身が否定されるような恐怖や不愉快な思いが湧き上がり、意識的にも無意識的にも抵抗をしてしまうのです。
 しかしながら、実は自我というものは、もともと存在しないのです。自我というのは、生物的な本能や先祖から遺伝した衝動を土台に、幼少時から体験したさまざまな体験とその反応によって構築された、ある種の力動的な複合観念にすぎません。
 たとえるなら、映画を夢中になって見ているとき、いつのまにか自分が主人公になった気になり、主人公の「人格」となって、悲しんだり喜んだりするようなものです。しかし、映画が終われば、(真の)自分を取り戻します。というより、映画も主人公も、もともと実在していませんから、実在しない人格を自分だと錯覚していたことになるわけです。
 人生も、同じです。小さい頃に虐待されたりいじめられたりすると、攻撃的で憎悪に満ちた衝動が形成されます。やがてそれが複雑に絡み合い、性格だとか人格となります。しかし、そうした性格や人格は、いわば環境と、環境に対して反応する本能や衝動によって形成されたもので、実体はないのです。実体は、そういう性格や人格(という幻想)を、本当の自分自身であると錯覚している「意識」だけです。悲しんだり、怒ったり、怖がっているのは、自我であって、意識ではありません。それなのに、意識は自分が悲しんだり怒ったり怖がっていると勘違いしているわけです。

 したがって、「自分を放棄する」といっても、本当に自分を放棄するわけではないのです。「自分を神に捧げる」といっても、もともと(本当の)自分は神のものであり、神そのものですから、「自分を神に捧げる」という表現そのものが、奇妙なわけです。
 事実はむしろ正反対であって、今の自分は本当の自分ではないわけですから、すでに自分を放棄しているということになるわけです。したがって、神に自分を捧げ自分を放棄するとは、実は自分自身を取り戻すということなのです。
 それが、「神に対して全託する」という意味だと思うのです。

 自我(エゴ)の自己防衛本能を克服しない限り、(エゴの消滅である)覚醒はできません。意識的にも無意識的にも、覚醒することに自ら抵抗してしまうからです。これでは、瞑想や呼吸法など、いくら行っても覚醒はできないでしょう。
 神はそのために、しばしば辛い試練を計画することがあるのかもしれません。
 それは、自我の典型的な特徴である「プライド」や「高慢さ」を、徹底的にうち砕くような体験です。仕事で大失敗をして落ちぶれてしまうとか、大恥をかくとか、イヤな相手に頭を下げなければならないとか、貧乏で惨めな生活をさせられるとか、メンツなどを叩きつぶされるような経験です。そうして謙虚になって(つまりエゴを消滅させて)こそ、覚醒に近づき、本当の自分を取り戻すわけです。

 しかし、覚醒の道を歩む私たち修行者は、そういう試練が来るのを待つのではなく、積極的に自我(という幻想)をうち破っていく姿勢が大切だと思うのです。
 そして、そのためにもっともふさわしいのが、神に対する全託だと思うのです。
 神の意識とひとつである真我に比べたら、自我などゴミのようなものです。そんなゴミを、後生大事につかんで離さないというのは、考えればこっけいなことです。
 自我とは、もともと真我が使う「道具」なのです。神は、この地上を調和的なものにするために、私たちひとりひとりに使命を与えていると思います。その使命を果たすための道具が、自我なのです。自我は真我の支配下において、使いこなすべきものなのです。
 その意味では、自我そのものは、決して悪というわけではないわけです。ただ、道具にすぎない自我を、自分自身だと錯覚していることに問題があるわけです。

 いずれにしろ、私たちは修行のために地上に生まれてきたと同時に、神の使命を手伝うために生まれてきたともいえるわけです。神は、そのための媒体を求めています。神の意図や真理に素直に反応する「器」を求めているのです。
 したがって、私たちは、「神様、私のすべてをあなたに捧げます。どうか、私を使ってください」と祈ることが、全託であり、積極的に自我の幻想をうち破り、覚醒に到る道であると思うわけです。

 ただし、この祈りを「自我」で行ってはいけません。「神様、私を使ってください」と祈れば、なにか偉い指導者になれるとか、世のため人のために大きな貢献をしてたくさんの人から感謝されたり認められるのではないか、という期待があれば、それはエゴが祈りを利用していることになります。そうではなく、どのようなことでも喜んで引き受けなければならないのです。誰からも認められない地味な仕事、掃除をしたり穴を掘ったりといった汚い仕事をしなければならなくなったら、「それも神の使命崇高のための偉大な仕事なのだ」と感謝して、喜びに満ち、誠実に行う必要があるわけです(そういう仕事を、神はその人の純粋さや誠実さを試すために与えることがあるようです。それがしっかりとできた後、偉大な仕事が与えられるのです。なぜなら、それほどの「逸材」を、いつまでも掃除や穴掘りに使うというのは合理的ではないからです)。
 以上のように、なかなか簡単ではないとはいえ、私たちは「神への感謝と全託」に生きることができるよう、努力していこうではありませんか。「神様、ありがとうございます。私のすべてをあなたに捧げます。あなたの偉大な使命遂行のために、どんなことでもいいですから、私を使ってください」と祈りましょう。
 そのためには勇気が求められるでしょう。自分を捧げてしまうのですから。自分を捧げられるほど、偉大な勇気というものが、他にあるでしょうか?
 しかし、どんなときも道を開いてくれるのは、勇気ではないかと思うのです。

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コメント

こんにちは、斉藤さん。
瞑想に「神への全託」を取り入れた直後から効果てきめんで苦難にさらされました。

しんどい部分もありましたが、良寛さんを見習って、自分に嫌な事をする相手の幸せを祈ってみました。

なにやら心が軽くなった感じがします。業が浄化されたのでは、と思いました。

とにかく神様には感謝ですね。急ピッチでカルマの解消が行われているのかもしれません。コツはやはり何度も「~~私をお使いください」を心の中で連呼することのようですね。
2010-07-28 Wed 12:24 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、ありがとうございました。
苦難にさらされたとのこと、大変でしたね。
しかし、自分に嫌なことをする相手の幸せを祈られたというのは、すごいですね。なかなかできるものではありません。お見事だと思います。
結局、それでカルマが消滅したので、心が軽くなったのだと思います。本来なら、もっとひどいことになっていた可能性があったのかもしれません。
神は、全託をする人間に「こいつならカルマを浄化できるだろう」と信頼してくれて、こうした出来事を与えてくれているのかなとも思いました。
2010-07-28 Wed 20:09 | URL | [ 編集 ]

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