心の治癒と魂の覚醒

        

無為の道

 覚醒や悟りというものを、どのように認識するべきかという点では、いろいろな見方や考え方があると思いますし、実際、そのように多角的に見て理解することは大切だと思います。
 そのうちのひとつの見解としていえば、覚醒というものは、結局のところ、高い次元の意識(神、また神とダイレクトにつながっている真我やハイアーセルフ)で生きることだと思うのです。
 すなわち、宇宙(神)の意思そのままの生き方をするということです。チャネラーや霊能者のように、神からメッセージや霊感を受けて、その通りに行動するのではなく、自分の考えが同時に神の考え、いや、考えることさえもせず、ただただ宇宙の法則や神の理念そのものの行いや生き方しかできない、ということです。
 このような境地を、老子は「無為自然」と呼びました。
 老子は、覚醒というものを、彼なりのスタイルで非常に巧みに、純粋に表現したと思います。彼が残した『老子道徳経』は、繰り返し読むに価するものと思います(一説によれば、老子はヨーガの伝説的な偉人の生まれ変わりだそうです)。おそらく老子という人は、肉体や地上の物理的な制約を超えた、まさに霊人、神人であったに違いありません。

 老子は、人格的な神は認めていないようです。ただ宇宙の法則だけが存在し、それは本来、どのような呼び名でさえも表現できないものであると断ったうえで、「道(タオ)」と呼びました。この「道」とひとつになった人が、老子にとっての聖者であり、君子なのです。
 ところで、老子が説くように、人格的な神は、存在しないのでしょうか?
 無から有は生まれないということを考えれば、私たちに人格があることは確かでしょうから、神にも人格があるとは思うのですが、もしかしたら、その人格は、私たちのレベルとは非常にかけ離れており、私たちの感覚からいえば、人格とは呼べないようなものなのかもしれません。
 たとえばもし、人間と同じようなレベルの人格を神が持っているならば、これほどの残酷さや悲しみが生じる世界を創造するとは、私には思えないのです。突如として洪水がやってきて、善い人も悪い人も、女も子供も、赤ちゃんも、すべてを深い海に沈めてしまうようなことは、少なくても人間的なレベルをもった人格的存在がやるとは思えません。世界を創造したのなら、そのようなことを起こさないことも可能なはずです。したがって、そういう悲惨が起こるということは、人間が死のうと生きようと知ったことではなく、法則は厳格に施行されるということなのかもしれません。
 したがって、究極の神、創造主としての神は、ほとんど宇宙法則のような存在ではないかと思うのですが、しかしそこから派生して、神より少し次元が低い(人間に近い)守護神といった存在には、あきらかに人格があるように思います。そして、偉大な愛を持ち、苦しむ私たちを救おうと、懸命に努力してくださっていると思うのです。
 もっとも、そのような存在を生み出したのも、もとはといえば(法則である)神ですから、神は冷酷であると同時に慈悲深い存在であると、いえるのかもしれません。

 話をもとに戻しますが、では、老子が理想とした人格(すなわち、宇宙と一体化した人格)とは、どのような人格なのでしょうか?
 それをひとことでいうと、「謙虚さと柔和さ」です。老子が描く理想的な人格像は、謙虚で柔和で、とらわれなく自由で、のびのびとしていています。この世の喜びにも苦しみにも心乱されることなく、生かされるがままに生き、流れに身をまかませたような生き方です。根性だとか、信念だとか、がんばるといった生き方とはおよそ無縁です。それが「無為自然」の生き方です。換言すれば、「宇宙の法則」ということになるわけです。
 このような生き方は、単なる怠惰な人と、同じように見えてしまうことがあるかもしれませんが、もちろん、まったく違うわけです。ただ、老子のこうした思想を、単なる怠惰な人が「言い訳」にすることはありそうです。本当に怠惰な人による、文字通りの「無為」は、自我という虚構の自意識による病的なものですが、老子のいう「無為」は、自我の力みや我欲を、完全に消滅させたことによって実現するものです。それは、宇宙法則に完全に身をゆだねた、全託した生き方です。全託しているという思いすらもないでしょう。がんばろうと力まなくても、結果的にがんばって力んでやったと同じくらい効果的な、それ以上に効果的な行いができるようになるわけです。
 すべての人は、本来、このような能力が存在しているのですが、自我によって邪魔されているわけです。そして、この自我というものは、「オレ様が一番だ!」といった、根深い高慢な思いを中核に持っています。このような自我がある限り、無為の境地は得られないでしょう。つまり、覚醒することはできないわけです。

 したがいまして、謙虚で柔和であることを心がけていく必要があると思うのです。もちろん、謙虚になろう、柔和になろうといっても、一朝一夕でなれるわけでもなく、自我はずる賢いので、今度は謙虚であることを自慢しようなどと、たくらんでいたりします。そうして、謙虚であるフリをして、自他をごまかそうとするわけです。
 しかし、そういう自我のワナに注意をしつつも、やはり謙虚であろうとする努力は必要だと思うのです。決して偉ぶらない、自慢をしない、見せびらかさない、人を差別しない、頭は深く下げる、感謝の言葉やお詫びの言葉を口にする、馬鹿にされても怒らない、人を自分のために利用しようとしない、相手の立場になってよく考える、独善的にならない、相手の話をよく聴く……、こういったさりげない行為の積み重ねが、ついには覚醒するにふさわしい人格的な基盤を養っていくと思うのです。

スポンサーサイト

覚醒した意識の特徴 | コメント:5 | トラックバック:0 |
<<覚醒を求めたら何が訪れるか? | ホーム | リトリート(集中訓練)の勧め>>

コメント

斉藤先生こんにちは、okuです。たしかに「無為」という言葉は、世の中では有識者(笑)などを除くと、悪い意味で使われる場合が多いですよね。でも自分も「無為」という力の抜き方を目指してみますね(笑)
2011-07-31 Sun 18:57 | URL | oku [ 編集 ]
斉藤啓一です。okuさん、コメントありがとうございました。
無為というのは、天(神)に身をゆだねて、天の意識のままに行動することですね。
これは、覚醒の奥義ともいうべきものです。
ともに、めざしていきましょう。
2011-07-31 Sun 19:24 | URL | [ 編集 ]
ここ1年ほど、毎日お祈りしてます、しかし前々から疑問に思っていたことがあります。

はたして自分はどちら様に語りかけているのか?

僕は祈る時、シンプルに神様という言葉を使います。
というのも、昔からピンチの時、無意識に出てくる言葉が「あ~神様」だからです。

別に人格神である存在に祈ってもいいんでしょうが、個人的にピンときません。
キリスト教あたりだと、人間と神の仲介役である聖霊に祈るという教えもあるようですが。

特にどの宗教でもない自分には神様が一番落ち着きます。

しかし、あまねく偏在する神が宇宙法則と考えると、この祈り、神様はお聞きになられているのか、不安に感じることがあります。

難しい質問だとは思いますが、斎藤先生のご意見を伺えたら幸いです。









2011-09-19 Mon 21:04 | URL | 若ハゲ王子 [ 編集 ]
斉藤啓一です。若ハゲ王子さん、コメント、ありがとうございました。
これはもう、しっくりと感じる祈り方でいいと思います。真心がこもっていれば、神様は必ず聞いていると思います(ただし、その願いが叶えられるかどうかは神様の判断しだいですが)。
高い次元の存在は、川の上流・中流・下流のようなものだと思います。上流も中流も下流も同じ川です。川が3つあるわけではありません。人格神だろうと守護霊だろうと、宇宙法則だろうと、みんなつながっているわけだから、祈る対象などは、どうでもいいと思います。大切なのは真心があるかどうかです。
2011-09-19 Mon 21:21 | URL | [ 編集 ]
分かりやすいご回答、ありがとうございます。

やっぱり、真心の問題ですよね。


あんまり難しく考えず、無垢な子供のように


純真な気持ちで祈れたらと思います。
2011-09-19 Mon 22:54 | URL | 若ハゲ王子 [ 編集 ]

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

| ホーム |