心の治癒と魂の覚醒

        

覚醒を求めたら何が訪れるか?

 アメリカにヨーガを普及させる活動を精力的に行ったスワミ・ラーマについて、弟子が書いた『ヒマラヤ聖者の教え』(徳間書店)という本には、覚醒のための貴重な示唆が溢れています。
 そのなかで、覚醒を求めたら、その人はどうなっていくのか(どんな運命を経験するのか)について、興味をそそるエピソードが書かれてありますので、少し紹介してみます。
 弟子であり本の著者であるジャスティン・オブライエンは、スワミのアメリカでの普及活動を熱心に手伝っていたのですが、あるとき、「私は覚醒したい。そのためにはどんなことでもする覚悟がある」と師に告げました。
 するとまもなく、スワミが主催するヨーガ普及のための組織の評議会に呼び出され、彼の持っている博士号や学位は詐称ではないかと、あらぬ疑いをかけられ、組織の運営業務を一方的にやめさせられ、さらに彼が教授職を勤める大学も彼の経歴に疑惑を抱き、大きなスキャンダルにさらされることになりました。
「僕には名前も、地位も、認識番号もない。築いてきた家はみな取り壊された-学位、地位、名声、オフィス、監督権、職歴。訴えるべきところもない。妻を守ってやることさえできずにいる」
 こうして、プライドも、人を教えることに生き甲斐を感じていた教授職も、さらに、世界は正義が貫いているという信念も、すべてずたずたに打ち壊されて苦悩のどん底に突き落とされる数ヶ月間を経験したというのです。
 最終的には、誤解は解け、彼の学術論文は高く評価されて、以前より高い名声を取り戻し、教授職や組織の活動にも復帰することができたのですが、とにかくいっときは、死ぬほどの苦悩を味わったといいます。
 なお、彼をおとしめたり非難した組織の人たちは、彼の名声が回復すると、自ら組織から去っていったということです。

 また、オブライエンは、あるとき師のスワミ・ラーマがこんな話をしてくれたと紹介しています。少し長くなりますが、引用してみます。
「ある日、師(スワミ・ラーマの師)と川べりを歩いていた時のこと、ひとりの男が崇敬を表し言葉をかけてきた。そして覚醒に近づくためにできることは何かと質問した。『三か月嘘をつかないこと』師はそう答えた。いいかい、真実を語れでなく、ただ嘘をつくなと言ったんだ。男は家に戻り、その行を始めた。
 彼は政府の仕事をしていて、そこではある収賄行為がなされていた。彼もそのことを知ってはいたが、関与はしていなかった。翌週オフィスに不意打ちの捜査が入り、全員尋問された。捜査官から収賄について聞かれた時、男は師の言葉を思い出し、洗いざらい話した。捜査官がオフィスの他の昔たちに尋ねると、彼らはその男こそ首謀者だといって罪をなすりつけた。男は起訴された。
 妻は男が捜査官に話したことに激怒した。ただ口をつぐんでいればこんなことにはならなかったのに、そういって責め立てた。男は聖者と川べりで会った時のことを話して聞かせた。『結構ですわ』妻は言った。『そんなに私に恥をかかせたいなら、その聖なるお方のところに行ってください』彼女は離婚を申し入れた。
 友人たちは彼を愚か者だと言ってその窮状を笑った。子どもたちでさえ、自分より妻と暮らすことを選んだ。妻は預金を全部引きだし、夫を拘置所に残したまま去っていった。彼には弁護士を雇う金さえなかった。
 男は自分のおかれている状況を見て、嘘をつかずにいることで、このあとどんなことが起こるのだろうと思った。
 判事の前に連れだされ、彼の側の言い分を尋問された。男はこの『嘘をつかない』という一連のできごとがいかにして始まったのか説明しなければ、という強い衝動にかられた。男の話に息をのんだ判事は、休廷を申しわたし彼を執務室に呼びだした。そこで二人のサドゥ(行者)についてもっと詳しく話すよううながした。それを聞くうち、判事はこの男が出会ったのが自分のグルだったと悟った。それをきっかけに、証拠書類が再度詳しく検討され、いくつか矛盾点が発見された。起訴は取りさげられた。
 男は晴れて自由の身となったが、ひとりきりだった。他にどんなことが起こるのだろうと思った。行の三か月が終わる頃、200万ルピー(およそ2000万円)の遺産を相続したという電報が届いた。するとすかさず妻が連絡をよこし、すべては自分の誤解だったと認めてきた。しかし男はもとの生活に戻るつもりはないと丁重に伝えた。あまりにもたくさんのことが起こったその三か月、男は嘘をつかずに生きることが何をもたらしていくか見たいと思ったんだ」

 このように、覚醒を求めたときには、その人が大切にしているものを、ことごとく奪い去られてしまうようなことが起きたりするようです。名声も、仕事も、お金も、家族さえも、奪われてしまうのです。もっとも、以上の二例は、最終的にはほとんどのものは取り戻しているので、まだマシかと思われます。失ったまま、ということもあるに違いありません。
 とはいえ、失われたものは、案外、自分が思うほど大切なものではなかった、ともいえるのかもしれません。特に後者の場合、あきらかに彼の妻はカネに目のくらんだ、本当の愛情がない女性だったように感じますので、こういう女性と縁が切れてよかったともいえるでしょう(この話の先はどうなったのかわかりませんが、おかげでもっとすばらしい女性と出会って結ばれたのかもしれませんし、あるいはそういう願望は超越して高い覚醒の境地に達したのかもしれません)。
 こういう出来事には、自分の心やカルマを浄化するだけでなく、自分の周囲の、自分にふさわしくない人や物をも浄化する、という意味があるのかもしれません。
 いずれにしろ、正直を貫いたこの男は偉いと思います。世間からすれば、いわゆる「バカ正直」といわれるでしょうし、実際、正直だったために、職も家族もお金も失われて牢獄に入れられたら、大半の人は「ああ、自分はなんてバカだったんだ! 人生なんて、正直に生きるべきじゃないんだ! この世に神も仏もあるものか!」などと嘆き、心をゆがませてしまうでしょう。そしてそれからは、ゆがんだ人生を送るようになってしまうかもしれません。
 しかし、そのような気持ちになったら、この「試練」は、きっと落第となり、その後の人生は、覚醒は遠のき、カルマの渦の中に巻き込まれて、いつまでも課題を先延ばししたまま、さえない人生を送ることになってしまうように思います。
 正直に生きて、ここまで過酷な不運や不当な扱いを受けてもなお、そこに神意を信じるという気持ちは、超人的かとも思うのですが、こういう実話を知ると励まされる思いもします。
 覚醒を求めて歩んだときには、こういう厳しい試練に見舞われる可能性があるということは、覚えておいていいかもしれません。それはすべて、エゴをうち砕いて本当の意識を開発するために訪れるのですが、もしそのような試練が訪れたときには、せっかちに結論を下したり、心をいじけさせたりせず、じっと耐えて静観している態度が大切であるようです。
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コメント

こんにちは、斎藤さん。
世の中にはすごい試練を経験した人がいるんですね。私などまだまだです。
ただ、私の場合、子供の時から人より運が悪めで、迫りくる運命に腹を立てたり、いじけたりしがちでした。腹をすえて受け入れるようになったのは30過ぎてからでしょうね。

最近では嫌なことがあると「神様に見捨てられていない証拠」と考えることができるようになりました。

斎藤さんのこのブログのおかげです。ありがとうございます。

私も覚醒めざして努力を続けようと思いました。
2010-08-21 Sat 12:17 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、ありがとうございました。
人により、さまざまな試練を受けるものなのですね。そのため、覚醒の道を中途半端に考えていると、怖じ気づいてしまう気もします。しかし、これは人類すべての人がいつかは通らなければならない道です。ならば、早く通り過ぎて、早くより高い段階の幸福を享受できるレベルに移った方が賢明だと思います。
お互い、がんばって試練を乗り越えていきましょう。そのためにこのブログがお役に立てているようで、私としても光栄です。ありがとうございます。
2010-08-22 Sun 10:46 | URL | [ 編集 ]

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