神と波長を合わせるために2010-08-26 Thu 21:05
覚醒とは、神と波長を合わせて生きることだという表現もできると思います。同じ振動数をもった音叉が共振するように、神と波長を合わせてひとつになるには、私たちの方が神の属性に合わせていかなければなりません。
では、神の属性とは、何でしょうか? それは、愛であり、光であると思います。神は、愛と光のエネルギーそのものです。 ところで、覚醒をめざすような、宗教的また哲学的な人は、控えめにいっても善い人の範疇に属すると思います。困っていたり苦しんでいる人がいたら、できる限り助けてあげたいという気持ちを持っていると思います。つまり、愛についてはよく理解していて、実践面においても、おそらく平均的な人よりも上ではないかと思います。 しかし、一方の「光」についてはどうでしょうか? いわゆる「善い人」といわれるような人は、優しさや愛については申し分ないのですが、「光」については、やや難点がある人がいるような気もします(自戒を込めて申し上げています)。 つまり、ひらたくいえば、「暗い人」が、けっこういたりするのです。 物事を悲観的に考えたり、取り越し苦労や不安のために、陰気な感じが支配しているのです。こういう傾向は、直接的には人に迷惑をかけているのではないので、本人もそれほど悪いことだとは思っていません。そのため、自分で暗いことをゆるし、暗さを野放しにしているようなところがあったりします。 ところが、神の属性は光、すなわち、明るさですから、暗いことは、神と波長が合わなくなることになり、それだけ神の加護や恩恵、覚醒から遠ざかってしまうことを意味しています。 とはいえ、お世辞にも健全とはいえないこの世の中を生きていたら、誰だって暗い気持ちになっても無理はない、むしろ、人間として当然ではないかという気もしないではありません。 ただ、善いか悪いかという視点ではなく、「得か損か」という視点で考えるならば、暗いことは、あきらかに損です。いいことは何もありません。かえって、その暗さが暗さを呼び寄せて、ますます暗くなっていく可能性さえあります。ならば、前にも申し上げたように、覚醒をめざす人は感情をコントロールする力を養い、「損なことはしない」と決めて、それを実行する必要があると思うのです。 しかし、理屈ではわかっていても、暗い気持ちをすぐに改めることは簡単なことではありません。この地上に生きていて暗くなってしまうのは、ある種の必然といえる理由もあるからです。実際、釈迦などは、「この世は苦なり」と断言しています。世の中に暗い側面があるのは事実であり、それを無視して明るい気持ちになることは、自分をだますことであり、無理だと思うのです。 ただ、世の中には暗い面があることは事実ですが、明るい面があることも事実ではないでしょうか。暗い人は、けっこうこの事実を忘れていたりします。世の中の暗いところだけに意識が向けられていたりするのです。 そこで、世の中には暗い面があることは認めつつも、明るい面により意識を向けていくようにしたらどうでそうか。そうすれば、気持ちを光明で満たすことができるのではないかと思うのです。 そうして、愛と光(明るい気持ち)で生きるように努めることにより、神と波長が合って、神の恩恵がより得られるようになり、結局、覚醒に近づいていくのだと思うのです。 スポンサーサイト
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コメント
こんにちは、斎藤さん。
明るく生きる必要性はサットヴァ・グナの境地に至るためにも重要そうですね。 しかし簡単ではないです。ともすれば軽薄で無神経なふるまいをする状態になってしまいがちだからです。 多くのいわゆる「明るい人」たちのうちにこうした思慮不足の人がいるのを見てきています。 気配りのいき届いた明るい人を目指さなければいけないでしょうね。 2010-08-27 Fri 19:00 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、ありがとうございました。
「多くのいわゆる「明るい人」たちのうちにこうした思慮不足の人がいるのを見てきています」 おっしゃるとおり、他者の気持ちを配慮しない「明るさ」というのは、結局はエゴを土台とする明るさ、つまり、「自分さえよければいい」という明るさであり、あるいは、控えめにいっても、知的・感性面での弱点があるといってもいいと思います。 こういう明るさではなく、他者への思いやりに基づいた、つまり、「愛」に基づいた明るさこそが、本物の明るさであると思うのです。 そういう明るさをめざしたいものです。 2010-08-28 Sat 08:38 | URL | [ 編集 ]
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