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心の治癒と魂の覚醒

        

 神という言葉

 この社会でまともだと思われながら生きていくには、あまり宗教やスピリチュアルなことはいわない方がいいようです。たとえば「神」といっただけで、胡散臭く思われる風潮が日本にはあります。そのため、「サムシング・グレート」といった言葉を使っている人もいます。
 しかし、実際は名高い科学者でも経営者でも、神やスピリチュアルやオカルトを信じている人はけっこう多いようです。ただ、おおっぴらにそういうことをいうと、ビジネスや科学者としての名声に支障が生じるので、あまり口にはしないだけです。
 覚醒だとか、心の治癒といったことも、できれば「神」だとか、宗教的なことはいわない方がいいのかもしれません。しかし、私が心理カウンセラーとしてたくさんの患者さんに接してきて感じたことは、もし根本的に心を癒そうとするなら、どうしても神や宗教やスピリチュアルな問題を避けて通れない、ということでした。
 ところが、心理療法やカウンセリングの世界で、そのようなことをおおやけに言ったり、書いたりしている人は少ないのです。ユングは例外としても、あとははっきりと「死後の世界は信じない」と明言している人も少なくありません。私個人としては、死にゆく人や不条理な病気や苦難に苦しむ人に対して、宗教やスピリチュアルな問題を避けて、つまり、唯物的な考えだけで、どうして患者さんの心が癒せるというのかと、不思議でならないのですが。

 とはいえ、やはりひそかに霊的なものを信じている人もいて、以前、心理カウンセリングを学んでいる人なら知らない人はいないある有名な先生と一緒に食事をしたときのこと、その先生が真面目に「(精神的に病んだ)患者さんに接していると、邪気が移って具合悪くなるんだよ。だから、診察が終わったら、神社の神主さんが使う御幣(ごへい=お祓いのときに振る白い紙のついた棒)で自分の体を清めているんだよ」といっていました。
 また、心理カウンセリングには、テレパシーというものが大きく治癒に関係すると私は考えていたのですが、そんなことを口にしたり書いたりする学者なんてもちろん誰もいません(そんなことをしたら学会から仲間はずれにされるでしょう)。ところが、『説得と治療:心理療法の共通要因』(金剛出版)という、海外の有名な精神科医の書いた本には、心理療法にはテレパシーの要因が関係していると、はっきりと書いてあるのです! 通俗本ではなく、まじめな専門書にこんなことが書いてあるとは驚きですが、やはり一流の人は違うなあと感心しました。

 話がそれてしまいましたが、覚醒という道も、「神」などという宗教的な事柄は、社会的な体裁からすると、できれば避けたいのですが、避けて通れないのです。世間は、「神」だとか「祈り」だとかいうだけで、へんな目で見ますし、ましてや「オーム」などといったら、それこそ後ずさりされてしまうわけです。

 ただ、実際、「神」という言葉ほど、手あかにまみれた言葉はないかもしれません。人によってとらえ方がずいぶん違うのです。ある人は、「神」というと、厳しく人間の罪を罰して地獄に落とす怖ろしい存在だと思っています。ある人は、お賽銭をあげれば願いを叶えてくれる自動販売機のような存在だと思っているかもしれません。
 私自身は、神というのは、「人格をもった宇宙法則」のようなとらえ方をしており、あまり神話的で着色されたイメージはないので、「神」という言葉には抵抗はないのですが、人によっては、周囲から植え付けられた、ずいぶん不適切だと思われるイメージを抱いているということが、最近、少しずつわかってきました。
 そのため、「神」と言ったとき、それは私の意図している「神」とはまるで違うものとして相手に伝わっている可能性があるようなのです。
 これはまずいと思いました。覚醒というものは、幻想を排除する方向を持たなければならないのに、逆に幻想を増強させてしまうのではないかと。

 そこで、神という言葉をなるべく使わずに、「実在」という言葉で代用しようかなと考えているのです。「実在」という言葉は少し堅いイメージがありますが、それほど着色されたものではないと思います。老子が、神や宇宙法則といったようなものは言葉では表現できないが、言葉を使わないと伝えることができないので、仕方なく道(タオ)という言葉を使ったように、私は「実在」という言葉を使うようにしようかなと、今、考えているのです。
 この実在というのは、高い次元の霊的な存在すべてを含めるとします。すなわち、それは神であり、仏であり、守護霊、守護神であり、天使であり、菩薩であり、宇宙法則であり、サムシンググレートであり、特定の聖者でもあるわけです。
 とにかく、高い次元には、私たちを救おうと力を貸してくれる存在がある、それを「実在」という言葉で表現しようかと。そのため、神という言葉の方がしっくりくる人は、「実在」を「神」に置き換えて読んでいただく、仏教徒なら「仏」に置き換えて読んでいただく、好きなように置き換えてかまわないようにしようかと。
 こうすることで、社会的な誤解も避けられるし、私の意図することが歪められて伝わることも、少しは減るのではないかと考えているわけです。
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コメント

こんにちは、斎藤さん。
確かに最近は「神」という言葉が軽いです。ものすごいとか優れたとかいうときに「神~~」とか言ったりします。

新しい言葉を定義するのに賛成します。
2010-09-01 Wed 16:51 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、ありがとうございました。
そうですね。「神」という言葉は、安易に用いるべきではないということが、よくわかりました。
このブログを見てくださっている方には、「神」で私の真意を理解していただけると思いますが、一般には、別の言葉を使った方がいいかもしれません。
2010-09-01 Wed 20:24 | URL | [ 編集 ]
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2010-09-05 Sun 09:40 | | [ 編集 ]
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2010-09-05 Sun 19:47 | | [ 編集 ]

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