実在(神)が人間に与える喜び2010-09-05 Sun 21:56
子供は、親から助けてもらったり、物を与えられたりすると喜びます。おもちゃを買ってもらった子供などは大はしゃぎです。親としても、物を買ってあげれば簡単に子供の喜ぶ顔が見られるので、つい買ってあげたりします。
しかし、そんなことばかりすると、いわゆる過保護になり、子供はいつまでも親を頼り、自分はなにもせず、与えられるのを期待するだけになってしまうかもしれません。親はいつか死んでいなくなります。一生遊んで暮らせるだけの莫大な遺産を残してもらえれば話は別ですが、そんなことは稀でしょう。 たとえ、そうなったとしても、その人は、あまり幸せとはいえないと思います。なぜなら、自分の力で困難を克服する喜び、苦労の末に何かを達成する喜びというものを経験できないからです。 何かを与えられる喜びよりも、自分の力で困難を克服したり何かを達成したときの喜びの方が、ずっとすばらしいと思います。人間的にも成長しますし、自信もつきます。それがさらなる喜びとなって膨らんでいきます。その困難が険しければ険しいほど、克服したときの喜びも大きく、目標が高ければ高いほど、達成したときの喜びも大きいものです。 ですから、本当に子供を愛している親であれば、子供にそんな喜びを味わってもらいたいと思うはずです。しかしながら、そのような自覚を持たない子供、すなわち、「困難が険しければ険しいほど克服したときに大きな喜びが得られ、目標が高ければ高いほど達成したときには大きな喜びが得られる」ということが理解できない子供に、親が困難や高い目標を与えたとしても、子供はそのことに不満を持つばかりで、そんなものを与えた親を恨むばかりになってしまうのが、おそらく大多数ではないかと思います。親としても恨まれたり子供との関係がぎくしゃくするのはイヤなので、結局、そうした喜びを味わってもらうことを諦めてしまいます。 ところが、実在(神、仏、etc)という親は、たとえ恨まれようと、どう思われようと、人間という子供にこの喜びをぜひとも味わってもらいたいという、強い願望というのか、私たち子供には計り知れない愛があるようです。人間の親のように、弱気になってたじろいだりしません。そこには断固としたものがあるようです。 そうして私たちは、さまざまな困難や苦労に遭遇します。実在は、そんな困難や苦労を除こうと思えばすぐにでもできるのかもしれませんが、あえてそれをせず、ただ沈黙したまま見守っているのかもしれません。 困難や苦しみに見舞われると、まるでそれが永遠に続くように感じられてきます。実際、辛いときの時間はすぎるのが遅く感じられます。そのため意気消沈して挫けそうになります。「神様、助けてください!」と、しつこく祈っても、何の反応も返ってきません。深い孤独感を覚え、自分ではどうにもならない障害を前に、途方にくれてしまいます。戻るも地獄、行くも地獄といった状況のなかで落ち込みますが、落ち込んでいても何も解決しないということを悟り、とぼとぼと前に歩き出すのです。たとえ一歩踏み出しても、踏み出さないのとほとんど変わらず、どこに向かって歩いていったらいいのかさえわかりません。疲れ果てて休みたいと思っても、歩き続けなければならないのです。 しかし、そうやって忍耐強く歩いていると、いつのまにか、自分が思っていたよりはずっと遠くまで歩いてきたことに気づくものです。後ろを振り向くと、途中で歩むのを止めてその場に座り込んでしまったたくさんの人たちの姿を見ることでしょう。そして前に目をやると、何と! ゴールがもう間近に見えたりするのです。 そうして、ついに困難を乗り越え、何かをやり抜いたとき、たとえようもない深くて大きな喜びが湧いてきます。今までの苦しみを補って余りあるほどの喜びに打ち震えていると、誰かが肩を叩くのです。見ると、それは神様で、こういいます。 「おめでとう! ついにやったね。君なら必ずやり遂げると、最初からわかっていたよ」 地面を見ると、ずっと二つの足跡がついていたことを発見するのです。 もちろん、最後にたとりついた場所が、必ずしも自分が希望していた場所とは限らないでしょう。それでも、達成されたものがあると思います。それは、最後のときが訪れるまで、とにかく歩き続けた、という実績です。 止まらずに歩き続けた、このことは、ものすごく偉大なことだと思うのです。そのことだけでも、大きな喜びを味わえると思います。 つまり、とにかく歩き続けるというだけで、前途に喜びが待っていることは約束されている、こういってもいいと思うのです。そんなときでも、実存は肩を叩いて、「おめでとう! よくやったね」と、祝福してくれるのではないでしょうか。 スポンサーサイト
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2010-09-06 Mon 14:39 | | [ 編集 ]
こんにちは、斎藤さん。
一回目の講演お疲れ様でした。 止まらずに歩き続けるという事が一番重要で難しいものですよね。 子供に大きな試練を課す親って最近とくに減ってきているような気がします。「友達親子」という同じ目線で子供と接する親は増えているみたいですけど。 ところで先週末、2時間のリトリートに挑戦しました。やはり座りっぱなしだと、腰が疲れます。そのうえ電話&来客で落ち着いて瞑想状態に入れませんでした。 それでも懲りずに今週末もやってみます。 2010-09-06 Mon 17:35 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、および講演の励ましのお言葉、ありがとうございます。
おっしゃるように、歩き続けることは忍耐がいりますので、もっとも重要なのですが、もっとも難しいのだと思います。忍耐ということがポイントですね。 子供に試練を課す親も少なくなりましたが、仮に試練を課したとしても、それを受け止める子供も、少なくなったような気もします。 それと、リトリート、2時間されたのですね。それはすばらしい! とにかく実践だと思います。実践することで、自分が本当に変わるきっかけがつかめるわけですね。 ぜひ、また挑戦してみてください。 2010-09-06 Mon 20:14 | URL | [ 編集 ]
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2010-09-06 Mon 20:19 | | [ 編集 ]
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