心の治癒と魂の覚醒

        

 「私」という想念の消去

 覚者になった人たちは、どうも「私」という意識がないようです。もちろん、彼らは「私は……」という表現は使いますが、それは覚醒していない私たちが使う意味での「私」ではないようなのです。
 私たちがいう「私」とは、他者との差別意識といってもよい自我(エゴ)から発せられたものですが、覚者たちの「私」には、そうした差別意識というものはなく、彼らのいう「私」とは、ある種の役割といいますか、働きという意味で、単に「私」といっているようなのです。いわば「自意識」というものがないのです。
 釈迦は、「天上天下唯我独尊(この世で私が一番偉い)」といったそうですが、これはもちろん、釈迦という個人がこの世で一番偉いという意味ではなく、覚醒して「私」という意識が消滅した釈迦にとっての「我」とは、すべての人間の本質である魂(真我)のことを指していたわけです。つまり彼は、「すべての人間の本質は偉い」といったのです。

 通常、私たちが「私」と思っている意識は、自我(エゴ)によって形成されたものです。自我は、自己防衛的な本能を土台に、先祖からの遺伝と生後に受けた環境によって形成された衝動メカニズムにすぎません。それが「性格」となっているのです。私たちは、自分=性格 と考えがちですが、そうではないわけです。性格は自分ではないのです。性格は、いわゆるペルソナ(仮面)であり、環境その他の影響によって「洗脳」された結果として形成された、偽りの自分「私」なのです。
 たとえば、親から虐待された子供は、過剰に自己防衛的になり、すぐにキレるか、あるいは逃避的になって引きこもったりします。彼らは「すぐにキレるのが自分だ」と、キレる衝動と自分とを同一視していますが、違うのです。たとえるなら、ブレーキの利きが悪いクルマに乗っているようなものです。クルマ=自分ではありません。
 私たちは、クルマと自分とは違うのだという認識を、まずしっかりと持つ必要があると思うのです。つまり、覚醒していない私たちが「私は……」と思ったときには、それはすべて本当の「私」ではないのだと、はっきりと認識していくのです。本当の私は、「私は」という意識を持たないのです。
 私は怒りっぽい、私は偉い、私は謙虚だ、私はダメな人間だ、私には希望がない、私はあいつが嫌いだ、私はこう思う、私は悲しい、私はこうしたい……
 こういった意識は、すべて幻想なのです。
 もちろん、そういう偽りの自分(自意識)のなかにも、ある程度は魂(真我)の意識も混入しているときもあるでしょう。たとえば、崇高な愛の感情を抱いたとき、すばらしい芸術や自然に感動したときなど、多少は真我の意識も入っていると思うのです。
 しかし、それ以外の「私」にまつわる思いは、ほぼ百パーセント、幻想であり、衝動メカニズムが作り出した虚妄といってもいいと思います。
 結局、覚醒するとは、こうした虚構の自我を抹消することにあるわけですから、私たちはこのことをもっと自覚して歩んでいくべきではないかと思うのです。
 すなわち、日常生活において、「私は……だ」といったような思いを、なるべく消していく方向が大切ではないかと思うわけです。

 このことは、究極的には、「何も思わない」ということになります。頭のなかが空(くう)になっている状態といってもいいと思います。
 しかし、何も思わなければ、生活していけません。思ったり考えたりしなければ、仕事も料理も、メールも、なにもできないでしょう。いったい覚者は、そういう場合、どうするのでしょうか。
 どうも彼らは、思考機能というものを、必要なときだけ、ある種の道具として使っているようなのです。私たちは、思考や感情を使うより、使われている、ことの方が多いのですが、彼らは思考や感情を完全に支配し、必要なときに活用しているだけなのです。
 そして、それ以外のときは、本当に無念無想で生きており、まったく「私」という意識がないのです。自分が何かをしているとか、そのような感覚がなく、ただ宇宙と一体となって、そこに「存在している」、使命だけがその場において「遂行されている」という感覚しか持っていないようです。
 自分という意識がありませんから、人からバカにされて腹が立つとか、自分より優秀な人に嫉妬するとか、そういうことはもちろんありません。また、いかなる苦しみも恐怖も悲しみもありません。そういうものを感じることはできますが、そういうものと一体化する自分が存在しないので、苦しまないのです。

 とにかく、何も思わなくても、ちゃんと生きていけるようなのです。はためには、いろいろなことを思ったり考えたり、感情豊かに見えたりしても、本人は何も思っていないのです。かといって、魂の抜けたゾンビ人間というわけではなく、私たちよりもずっと充実した意識状態なのです。不思議な話ですが、事実のようです。
 私たちも、常に自己観察をして、「私」という意識、「私」が勝手に作り上げた意味もない思考や感情に気づいたら、すぐに「これは幻想だ、これは本当の私の思考や感情ではない」と認め、さっと消していく修行を積む必要があるようです。とりわけ怒りや貪欲といった業想念などは、まさに本当の自分とは関係のないものですから、なおさらこういう想念が湧いたときには、「これは本当の私の想念ではない、消えていく幻想にすぎない」と、さらりさらりと受け流すことが大切だと思います。すなわち、何も考えない修行をひたすら積んでいく必要があると思うのです。そして、考えることが必要なときだけ、知性を道具のように使って考えるようにするのです。
 あとはもう、何も考えない。いっさいの想念を停止させるのです。やってみると、けっこうできそうです。通勤のため駅まで歩いていくとか、単純な家事をするとか、何も思わなくてもできたりします。単純な会話なら、何も思わなくても必要な言葉が自然に口から出てきて(決して霊に憑依されたような意味ではなく)、会話が成り立ったりします。こんな経験をすると、何も思わないで生きるということが、最初は荒唐無稽のように思われるのですが、案外、可能なことではないかと思えるようになってくるのです。
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覚醒した意識の特徴 | コメント:7 | トラックバック:0 |
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コメント

おはようございます♪

朝から、考えさせられてしまいました(笑)
深いですね。。。
己を見つめて1枚、1枚、偽物の自分を脱ぎ捨てていくしかないようですね。。。道のりは、長い!(笑)
・・・でも
いつか本当の自分に出会える・・・そう思うと、これからが楽しみです!!
今日も、ためになるお話、有難うございました。
2010-09-08 Wed 09:13 | URL | クニハラ [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、ありがとうございました。
自我の消滅は、いわば覚醒の最大の山場といいますか、覚醒そのものでありますから、道のりは長いでしょうね。
しかし、思うのですが、毎日の積み重ねというのは、バカになりません。3年なんて、あっという間にすぎてしまいますし、10年なども、あっという間とはいいませんが、けっこう早く過ぎ去ってしまうものです。
その間、こつこつと毎日少しずつでも努力を続けてきた人は、結局、その積み重ねは、ものすごいものになっていると思うのです。
それと、修行というものは、最初から最後まで同じペースで進んでいくのではなく、最初はのろいが、しだいにペースが進んでくるようです。つまり、最初は3年かけてようやく達成できるくらいの進歩度合いだったものが、だんだん加速されていき、半年くらいで達成できるようになる、といったことが起こるようなのです。
ですから、案外、思っているよりも、先はそれほど長くはないのかもしれません。そんなことを考え、希望を持って歩んでいこうではありませんか。
2010-09-08 Wed 21:10 | URL | [ 編集 ]
僕はこう思う、私はこうだ、と強く意見をし、主張をする人がいますよね。エゴをそのままぶつけてくるような会話しかできない人も中にはいます。
そのような、僕、私という自分を持ちすぎていると、とても疲れるだろうなあと感じることがあります。
人類みな兄弟という言葉がありますが、人類はもともと一つのものから生まれているわけですから、何時の日か、みんなそこに戻っていくのだろう。と考えることがあります。目に見えるもの、全て幻想だ。先生の仰る通りです。魂は世界中の人類みんなでひとつであり、そこには神聖が宿り、大きいようでとてもシンプルで小さな宇宙がそこにはあるのだと思いました。
2010-11-14 Sun 04:13 | URL | 匿名 [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、ありがとうございました。
私も同感です。エゴが強い人は、周りの人も疲れますが、なによりも本人が疲れるのではないでしょうか。
しかし、おっしゃるように、魂ではみんながつながっているのは、間違いないことだと思うのです。だから、エゴという差別意識は、そもそも幻想なのですね。私たちの魂というのは、いわゆる小宇宙、すなわち、大宇宙の相似形なのだと思います。
2010-11-15 Mon 00:43 | URL | [ 編集 ]
初めまして、けんと申します。
地震の大変な時期に失礼致します。
貴重なお言葉の数々読ませて頂きました。
瞑想を行ってきて感じてきた事は、毎日の瞑想の中で拘りや雑念がなくなってくると、何かに依存したり
拘ったり欲を持つ事自体が対したものではないという事が分かるので、とても穏やかな瞑想の時を
過ごせています。
また、どうも全ては一つにつながっているという感覚になってきて、あくまでこの肉体という器を通じてここにいるという感覚になってきています。そして
今持っている全ての感情や想いは
あくまでこの地上で生きてきた中で培われたものであり、それらを除いたら、本来私が持っている魂というのは、全く別のモノであるのかななんて考えたりしもします。
また、無念夢想に近づけると、
あらゆる感情や雑念に
振り回されずにすむので、心がとても穏やかに
毎日を過ごせますが、周りの人々の
喜怒哀楽の状態を見ていると、
心が激しく動くのだなあと
何か全てのものがほほえましいというか、
可愛い我が子たち、育ってゆきなさい^^
みたいな気分になってしまい、
どうも妙な感覚になります(私の心に何処か
傲慢さがあるからなのでしょうか?)。
歳が遥かに上の方でもそう思ってしまい、
肉体年齢よりも魂の年齢というのでしょうか、
その様な方を重視する自分がいるので、
俗人満載の様な方や、こういった魂の修行を
疎かにする様な人は結構苦手な部分があります
(これも私の魂の修行によっていつか
赦すというか慈しめるようになるのでしょうか)。







2011-03-19 Sat 09:24 | URL | けんさん [ 編集 ]
斉藤啓一です。けんさん、コメントありがとうごさいました。
瞑想を続けられ、そのすばらしい心境の変化をご紹介して下さり、感謝いたします。
とても貴重な教えを示唆して下さっていると思います。これはまさに、瞑想が順調に進んでいることを示していると思います。
どうぞ、この調子でがんばって下さい。
2011-03-19 Sat 10:41 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
若い娘さんとかで、自分自身のことを「私は」と言わずに「陽子は~」みたいに名前で言う人がいますけど、
自分自身を突き放して観ているのか、それとも逆に自意識過剰なのかなと疑問に思っています。
2011-07-12 Tue 21:28 | URL | nakatsu [ 編集 ]

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