心の治癒と魂の覚醒

        

 スピリチュアルと娯楽

 このたび、私の携帯占いサイト(カテゴリー→占い→西洋占い→姓名の神秘)を運営してもらっている携帯コンテンツ制作会社ザッパラスの主催で、セミナーを開くことになりました。詳細はホームページにて紹介されていますが、このブログとはずいぶん雰囲気が違う、軽快なものになると思います。
 というのも、この会社は、スピリチュアル的なものを娯楽として提供しようという企業理念を打ち出しているからです。そのためにスピテイメント(スピリット+エンターテイメント)という言葉を作り出して、これから本腰を入れて事業展開していくようです。
 といっても、スピリチュアルなものを娯楽とする考え方は、今に始まったばかりではなく、過去も、現在も、ほとんどがそうではないかと思います。スピリチュアルな探求は、ほとんどの人にとっては「娯楽」や「趣味」なのです。

 私がこの世界に入ったのは20歳くらいのときからで、それまでは科学者になろうと思っていたくらいですから、スピリチュアルだとか、宗教といったものは、どちらかというと好きではなかったのです。しかし、もともと人生に対して暗く悲観的にとらえる傾向がある典型的な「ネクラ」少年(表面的には明るさを装ってはいましたが)で、この世界や人生を生きることに深い苦痛感を抱えていました。それは今でも変わらないのですが、そこから脱却するにはどうすればいいかということで、スピリチュアルにたどり着いたのです。しかも、単に教えを聴いて「慰め」や「気休め」を得るのでは満足せず、本当にこの世界から完全脱却しなければ幸せは得られないという切実なものがありましたから、ヨーガなどの実践的な教えに惹かれました。
 したがって、私にとってスピリチュアルというものは娯楽や趣味とはなり得ないのですが、世の中の大半はそうではないようです。
 そのため、いわば「娯楽」を求める人々の要請にしたがって、私も生活のためにお金を稼がなければならない事情もあって、娯楽としてのスピリチュアルなセミナーや執筆をしてきました。本音をいえば、そういう活動はあまり気が乗らず、あまりにもミーハーな仕事は断ったりもしてきましたが、最近は、スピリチュアルなものを、とりあえず娯楽として入門するということがあっても、いいのではないかと思うようになりました。そのため、頼まれれば、どんなに軽いノリのものでも、それなりにこなすようにしています。ただし、どんなに軽いノリのセミナーや執筆をしても、そこにちゃんと、このブログで展開しているような本格的なスピリチュアルの要素を盛り込むようにしています。そうすれば、それなりの意義があると思うからです。
 そして、そうしてスピリチュアルな世界というものを知ってもらい、その奥深い意義に気づいてもらってから、いよいよ本格的なスピリチュアルの道を歩んでいけばいいと思うのです。

 しかし、そのときから、スピリチュアルな世界は変貌します。今までは、どんな甘えもゆるしてくれた優しいお母さんのような存在だったのが、突如として、厳格な父親になるのです。なぜなら、スピリチュアルな道というのは、エゴを消滅させる道だからです。人々が娯楽と思うものは、ほとんどエゴを満足させるものでしょう。しかし、それとは正反対なのが、実はスピリチュアルの正体なのです。
 しかも、エゴを消滅させ、真にスピリチュアルな存在に移行するには、エゴを浄化させなければなりません。つまり、蓄積されていた悪いカルマを早く結実させて消していかなければならないのです。本来なら、何回もの生まれ変わりを通してカルマの負債を返していくべきところを、今生、あるいはほんの数回の生まれ変わりですべて返していかなければならないわけですから、スピリチュアルな道に入り込んだとたん、ありとあらゆる不幸災難や苦しみが訪れても、不思議ではありません。というより、それがまったく訪れないとすると、まだどこかでスピリチュアルではないのかもしれません。
 スピリチュアルな道とは、この世的な視点からいえば、辛く、苦しく、不条理で、損するばかりで報われない……といった思いに打ちひしがれる連続です。
 ですから、スピリチュアルな本などで、「こうすれば幸運なことが起きる!」と書いてあったりするのは、本当の意味ではスピリチュアルではないと思うわけです。スピリチュアルな世界に入る前の「待合室」でしかありません。もちろん、それはそれなりの意義はあるとは思いますが。

 地上世界の経済の論理が、人々のエゴを満たすという目的で循環していることは、明白でしょう。つまり、スピリチュアルな世界というものは、本質的にビジネスには成り得ないのです(詐欺まがいのことをして信者を集めたりすれば別ですが)。あまりにも正直に、スピリチュアルの本質を書いた本など売れないわけです。お金を払ってまで、辛く苦しい道を歩みたいと思う人など、いるでしょうか? お賽銭箱にお金を入れて「私に苦しみを与えて下さい」と祈る人など、いるでしょうか?
 しかし、霊的に高い境地へと進んだ存在たちは、地上の人間に何を期待しているかというと、エゴを満足させて、私たちのいう「幸せ」をつかむことではなく、常に人間性を磨い続け、(カルマの清算である)苦しみが訪れたら、それにじっと耐え抜いて生きることなのです。
 彼らは私たちに、こう叫んでいるのです。
「はかない地上の娯楽なんかに目を向けず、今はじっと耐えて、早くここに帰っていらっしゃい。ここには本当の“娯楽”があるのですから!」
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コメント

こんばんは、斎藤さん。
確かに、本当の楽園つまり覚醒にたどり着いてから見る景色こそ真の世界なのでしょうね。

そこにたどり着くまで、あとどれほどの試練を乗り越えたらいいのか実在たちに尋ねたいです。

>ミーハーな仕事
たしか以前、霊的なものとそうでないものを分けてはいけないとおっしゃってましたね。すべては霊的であると(「真実への旅」だったような・・・)。
ということは一見軽薄そうな内容の仕事でも、深い霊的な意味があるのかもしれませんね。

話は変わりますが、覚醒を目指すような方は権威を嫌うものと考え、ずっと「~さん」呼びしていましたが、やはり悟りの重要性を気付かせていただいた方なので尊敬の意をこめて「先生」とお呼びしてよろしいですか?
2010-09-21 Tue 19:04 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
こんにちは、初めてコメントします。えむと言います。
エゴの追及は一見楽しそうだけど、常に渇望があり、心の底か満たされることはない…。
でも、霊性の追求は、一見苦しそうだけど、満足があり、心が満たされ、さらに上の苦しみを追及してしまう…。

>本当の“娯楽”…言い得て妙なり!
2010-09-21 Tue 21:50 | URL | えむ [ 編集 ]
斉藤啓一です。以上、お二人の方へ、コメントありがとうございました。
霊的覚醒への道のりは、この地上次元の感覚でいえば、まだ先は長いでしょうね。しかし、覚醒が人生の目的であることに気づいた魂は、間違いなく来世でも同じ道を歩むでしょう。したがって、宇宙的な次元の感覚でいえば、もう目の前だといえるのかもしれません。
そして、どんなことにも霊的な意味を見いだしながら歩むことが大切なのですね。
ところで、私のことは、どう呼んでくださってもけっこうです。むかしは「先生」と呼ばれるのがイヤでしたが、「先に生まれた」という意味で、もういい歳になってしまったので、そう呼ばれても抵抗は感じなくなってしまいました(笑)。

「えむ」さん、はじめまして。
この世の快楽の追求は、エゴは満足し、魂は不満足となり、霊性の追求は、エゴは不満となり、魂は満足するのでしょうね。
けれど、人間の本質は魂ですので、最終的には後者の生き方に、本当の幸せが待っていることは間違いありません。前者の道には希望がありませんが、後者の道には希望があります。というより、希望そのものに向かっているわけですね。
あとは、その道がなるべく平坦であるのを祈るばかりです。
これからも、よろしくお願い致します。
2010-09-22 Wed 18:02 | URL | [ 編集 ]

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