心の治癒と魂の覚醒

        

 覚醒のための圧縮と火花

 覚醒とか、悟りという言葉は、誤解を生みやすいと思います。もともと、覚醒や悟りが何であるかは、(覚醒した人以外は)わからないわけですから、無理もありません。
 ただ、私は便宜的に、覚醒や悟りというものを、完全な覚醒(悟り)と、順覚醒、あるいは「小さな覚醒」というように分けています。私たちはまだ完全なる覚醒はしていませんが、順覚醒、小さな覚醒は、たくさん経験してきているはずです。
 そして、完全な覚醒というのは、こうした小さな覚醒を積み上げていくうちに、いつか訪れてくるものではないかと思うのです。
 小さな覚醒というのは、今まで自分らしくない生き方(エゴの生き方)をしていたのが、そのあやまちに気づき、自分らしい生き方(魂の生き方)に一歩近づいた状態のことだと思います。たとえば、傲慢で人に対する配慮に欠けていた人が、それがよくないことだと心の底から気づき、自分の非を認め、謙虚な人柄になるといった場合です。
 これが単なる「反省」と異なる点は、単なる反省の場合は頭で「これはよくないことだ」と理解するだけですが、覚醒であれば、心の底から懺悔の念にあふれ、全人格的な変容があり、ある種のショック、深い感銘を伴っているはずです。「我に返った」という言葉がありますが、これなどはまさに小さな覚醒体験のことを指していると思うのです。

 ところで、こうした覚醒体験には、ひとつのパターンがあるように思います。
 それは、ちょうどクルマやバイクのエンジン(内燃機関)のメカニズムに似ています。ご存じのように、エンジンは、まずガス(気化されたガソリン)をシリンダーに吸い込み、それをピストンで圧縮し、圧縮した頂点で火花を放ちます。すると爆発して、その反発力でピストンを跳ね返し、シャフトを回転させているわけです。
 圧縮していない段階で火花を放っても爆発しないか、不十分な爆発しかしません。つまり、火花を放つタイミングが重要になるわけです。
 同じように、覚醒というのも、まずはガスを吸い込んで圧縮するのに相当する期間があるように思うのです。具体的には、ある程度の期間に及ぶ悩みや問題意識といったものです。長い間、ずっとある悩みに苦しみ、解決のためにあれこれ苦闘して、それが心のなかに「圧力」を作り出し、ついに一定のレベルに達したとき、火花に相当する何らかのきっかけが生じて、いっきに爆発するのです。そして、その内部の爆発によってエゴの殻が破壊され、新たな境地を獲得するわけです。

 その「火花」とは、人からの何気ない言葉であったり、本に書いてある一文であったり、自然の現象であったり、ちょっとしたハプニングであったり、その他、あらゆる場合が考えられますが、ほとんどは、はたからみれば、何の変哲もないようなものです。ところが自らを「圧縮」し続けてきて、ついに「タイミング」が訪れた人にとっては、それは変容をもたらす大きな意味を持っているのです。

 したがって、覚醒をめざすには、内面に「圧力」をかけ続ける作業が必要ではないかと思うのです。ある程度の期間(それはしばしば長期に及んだりしますが)、悩み続けるのです。苦闘し続けるのです。そうしたら、いずれ予期しない形で「火花」が放たれ、突如として内的変容、すなわち覚醒が訪れるのです。
 こうした圧力は、いわゆるストレスといえるでしょう。ただ、それを前向きにとらえるか、そうでないかの違いだけです。前向きにとらえなければ、おそらく覚醒はしません。胃に穴があくだけでしょう。しかし前向きにとらえるなら、それは爆発(覚醒)に向けて心を圧縮させている作業となるのです。どんなに辛くても、そこには偉大な意味が潜んでいることになるのです。
 こうしたストレスを持たず、ただ毎日を楽に、惰性でダラダラと過ごしていただけでは、覚醒は難しいのではないかと思います。
 とはいえ、あまりにも強いストレスばかりではつぶれてしまいかねません。そのへんのバランスは微妙で、ある種の冒険といえるかもしれません。
 しかし、私たちの魂というものは、もともと冒険家であると思うのです。覚醒のためには、冒険が必要ではないかと思うのです。
 魂は、この地上に成長するために来たと言われます。そして、可能な限り最大限に成長しようと、ぎりぎりの苦しみや試練を計画して来たと言うのです。そのため、しばしば「誤算」をして、苦しみや試練に負けてしまう魂も多いようです。そのこと自体は悲しいことには違いありませんが、自分を大きく成長させようとして大きな苦しみや試練を計画したその魂の勇気は、称賛に値すると思うのです。
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覚醒の理論 | コメント:7 | トラックバック:0 |
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コメント

こんにちは、斎藤先生。
「真実の旅」において、最後の決め手となるテーマが出てきましたね。 

火花を生かすためには、苦難という圧縮作業が必要不可欠というわけですね。偉大なる内的変容を得る者の人生はぬるま湯ではいけないとも言えます。

そういう意味では私の現在の状態は良い加減の苦難といえます。つぶされる程過激でもなく、毎日安心するわけにはいかない、自分の力ではどうすることもできない不条理の最中です。

エゴの殻が破壊されるためには、長い間この状態を私の魂が望むと思われます。
2010-11-11 Thu 16:57 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、ありがとうございました。
はい。「火花」は、覚醒の核心であると思います。
私は何もわざわざ苦しんで覚醒しなければならないとは思っておらず、むしろ楽に覚醒できるならそうしたいと思っているのですが、過去に覚醒した人の文献などを見ますと、やはりそうはいかないのが現実のようで、現実は現実として、安易な幻想や期待を抱いたりせず、受け入れなければならないと思うのです。
苦難にはいろいろな種類があると思いますが、なかでも「不条理」がそこにある苦難というのは、まず間違いなく覚醒に向かっているプロセスだと思います。
辛い道を歩まれているご様子ですが、どうか負けないでください。
2010-11-11 Thu 21:19 | URL | [ 編集 ]
はじめまして。
「真実への旅」を読んで以来、こちらへうかがうようになりました。
 どこまで到ることができるかはわからなくても、少しでも成長をしたいと、そう願っています。でも、願うばかりで、日々の苦悩・試練と捉えていることにもすぐに挫けてしまいます。
 社旗や人とも関わるのが苦手で、なにごとにもすぐ背を向けてひねた気持ちになってしまいます。
 どんな状況であっても、それが私が自分で用意したおいた冒険であるなら、こんな私・こんなことなどと、ひねた投げ出したり逃げ出したりしてはいけないですね。
 もう一度踏み出す一歩のために、私もまた冒険家のひとり、旅人のひとりであるのだと、こんなどうでもいい私ではないのだと、表明と言ったら大げさですが。

 これからもこちらのお話をいろいろ参考に歩み続けたいと思います。

 寒くなってきましたが、斉藤先生も、旅路のみなさんもお体気をつけて。
2010-11-11 Thu 23:58 | URL | しいの [ 編集 ]
斉藤先生こんばんは
苦しんでいるたくさんの人が、斉藤先生のブログを訪れますように、心からお祈りしております。
勘の良い人や賢い人は、今の物質社会の日本に飽き飽きして、自らの魂をよい方向に向けていこうとしていると思います。
私の場合、無駄なテレビ番組や、ゴシップだらけの雑誌や、つまらない交友関係を断ち切り、家族からも離れ、身の回りをシンプルにしていくことが始めの一歩でした。静かに黙って自分の内面を見て行くと、うつになり、頭痛がやみませんが、それが圧力となっていき、泣くという浄化が起き、身体の痛みを伴い、やがてよいタイミングで花火が打ち上がりました。雷が落ちたようになり、電気が身体を走り、2ヶ月、寝たきりになりましたが、それが覚醒の入り口だったと思います。休養をするということを初めてしたのがその時です。
それから10年経ち、今は目の前がとてもクリーンです。あの時の痛みは今も忘れません。今、いろいろな環境でその途中におられる方の中の気持ちがよくわかります。周りを気にせず、段階をふんでゆっくり進めば、安定剤などを服薬していても、いつかは手放すことができます。苦しいということは、そうあまり長く続かない、いつまでも小さな覚醒が起きないでいることのほうがずっと苦しいのですから。
個人の経験でしたが、コメントしました。
2010-11-12 Fri 01:51 | URL | 匿名 [ 編集 ]
斉藤啓一です。以上、お二人の方のコメント、本当にどうもありがとうございます。
このように、覚醒という険しい道を歩む者どうしが、こうして貴重な思いや体験をご紹介してくださり、また励ましの言葉を投げかけてくださることは、なんとありがたく、希望を与えてくれることでしょうか。

仏陀の弟子アーナンダが「お釈迦様、よい仲間を得て修行をするなら、修行も半分はうまくいったと同じだと思うのですが、いかがですか?」と尋ねたとき、仏陀はこう答えました。「アーナンダよ。それは違う。よい仲間を得て修行をするなら、それは修行の半分がうまくいったのではなく、すべてがうまくいったのである」

このブログを読んでくださっているすべての皆様に、心からの感謝と敬愛の念を捧げます。
2010-11-12 Fri 09:05 | URL | [ 編集 ]
斉藤先生 こんにちは。
久しぶりにブログを訪問いたしました。
共感する言葉の数々、また皆さんのコメントにも、覚醒の話をする人が周りにいない孤独を癒される思いです。
覚醒への道のりは、人様々ですね。家族とも離れて、修行に打ち込まれたというコメントには驚きました。魂が本当に望むことというのは、すごいパワーですね。変化を恐れないことの重要性を知りつつ、なかなか行動に移せずにいます。
最近は、まったく認識の違う配偶者といかに愛と調和の関係を築いていくかに試行錯誤の毎日です。
離れたほうがいいのかと迷うときもありますが、今は、この状況で学び、成長していく時かも。。と格闘しております。この場で、それぞれの環境で修行されている方々と交信できることの有難さを感じております。
この場を提供していただいた斉藤先生にも改めて感謝申し上げます。
2010-11-25 Thu 12:06 | URL | wakayamakajimoto [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、ありがとうございました。
覚醒について論じるという行為は、数百年から千年くらい早いと、私は思っているのです。今の時代では、こんなことを説いても大部分の人から理解されないし、怪しいとか、変人と思われるだけでしょう。
しかし、数百年から千年後には、どの人も覚醒をめざすことが常識となり、もしかしたら義務教育で覚醒が教えられるようになるかもしれないとさえ思っています(たぶん)。
いずれにしろ、どんなこともそうですが、あまりにも時代を先取りしすぎると、孤独なものですよ。
しかし、覚醒とは、人間として最高に立派になるということでもありますから、何も恥じることなく、むしろ誇りと自信を持って、これからもみんなで励まし合いながら歩んでいきたいと願っているのです。

2010-11-25 Thu 20:22 | URL | [ 編集 ]

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