心の治癒と魂の覚醒

        

 言葉の力

 覚醒やスピリチュアルの世界では、「言葉」というものが、重要なものとしてよく取り上げられます。「言霊」だとか、聖書には「はじめに言葉ありき。言葉は神なり……」などと言われています。
 たとえばマントラというのは、ある種の言葉です。有名なのが「オーム」だとか「ナーム」で、他にも複雑な音節や意味からなるマントラが伝えられています。マントラは単なる言葉、つまり意味を伝達する音声ではなく、ある種の物理的な力を備えていると信じられています。
 そして、広い意味では、すべての言葉が「マントラ」であると言われています。
 すなわち、私たちの発する言葉は、その言葉の意味する内容に関する「力」が備わっているのです。たとえば、「私は貧乏だ」と口にすれば、その言葉は自分を貧乏にさせる力を発揮するといいます。「あなたの病気は治る」というと、その言葉は実際に相手の病気を治す力を発揮すると信じられているのです。もっとも、こうしたことは暗示効果として説明できなくもありませんが、しかしそればかりではなく、言葉そのものが独自の力を持つということは、あり得ることだと思うのです。
 そのためか、仏教などでは、三業といって「身・口・意(行動・言葉、想念)」の要素を重く見ており、なかでも加持祈祷によって超自然的な恩恵をもたらすとされる真言密教では、この「身・口・意」を重要な要素としています。言い換えますと、仏の行動・言葉・想念をまねることによって仏に近づき、仏の持つ力を得ようとするのが密教の原理なのです。
 もちろん、言葉そのものに力があるのではなく、言葉に意識の力を込めることによって力を発揮するのだと思います。そうでなければ、たとえばコンピューターで合成されたマントラの言葉を流しておけば、超自然的な力が発生することになり、わざわざ人間や徳の高い僧侶が唱える必要はないでしょう。要するに、心を込めて発した言葉に、力が宿るというわけです。

 そのため、覚醒の道を歩む弟子は、言葉の使い方を厳しく教えられるようです。人を傷つける言葉、否定的な言葉、汚い言葉、乱暴な言葉、冷たい言葉などは、悪い影響を及ぼし、当然、そのために悪いカルマを積むことになります。逆に、人を励ます言葉、肯定的な言葉、美しい言葉、優しい言葉、愛のある言葉などは、善い影響を及ぼし、善いカルマを積むことになります。
 実際、言葉というものは、ときには行動よりも強い影響を与えることがあります。たとえば、人を殴っても相手は死なないかもしれませんが、心を傷つける言葉で、相手は死んでしまったり、ひどいショックで重い病気になることもあるわけです。
 逆に、ほんのささやかな親切な言葉、たったひとことの優しい言葉が、人を死の絶望から蘇らせたり、病気を治したり、さまざまなよいことを生み出したりもします。
 このように、言葉の力というものは、私たちが想像する以上に強力ですから、「たかが言葉」などと思ってはいけないわけです。慎重に言葉を選んで口にしなければならないわけです。

 ところで、こうした言葉の力を利用することによって、いわゆる「願望成就」の力を得ることができると言われています。たとえば、気持ちを込めて「私は経済的に豊かである」と口にすると、実際に経済的に豊かになっていったり、「あなたの病気は治る」といえば、相手は癒されるようになったりするのです。
 ところが、ここで、大きなポイントがあります。
 それは、真実の言葉だけを語る者だけが、そのような言葉の力を得ることができるという原則です。真実の言葉というのは、難しく考える必要はなく、要するに嘘をつかないということです。どんなささいなことでも、約束は必ず守るということです。
 ヨーガの教典を見ますと、「正直に徹したならば、その人は行為とその結果とのよりどころとなる」と書いてあります。簡単にいうと、その人が語った言葉は現実のものとなるというのです。
 正直や誠実さに徹することは、簡単ではありません。しかし、「徹する」のは難しいでしょうが、私たちはもっともっと正直で誠実になれるのではないでしょうか。
 世の中には、まったくいい加減で誠意に欠ける人が少なくありません。こういう人はそもそも自我の機械性に乗っ取られているのです。その人がどれほど覚醒に近いかは、どれほど正直で誠実であるかを見れば、だいたいわかると思います。「できない約束、最初から実行しようとさえ思っていないような約束はしない、約束したら必ず守る、もし守ろうとしても守れないようなら、なるべく早く守れそうもないことを告げる」ということが大切だと思うのです。
 もちろん世の中には、多少の社交辞令だとか、他愛もない嘘やお世辞、リップサービスによって人間関係を円滑にさせるということも、必要なときはあるかもしれません。しかしそういうことも、覚醒をめざすのであれば、なるべく避けた方がいいと思います。どこからどこまでが許せる嘘で、どこまでが罪となる嘘かはわからないからです。相手がそれを本気だととらえてしまうと、相手を傷つけることになってしまうからです。
 たとえば、私は職業柄、本を書いている人と知り合うことがよくあるのですが、どきどき著者の人が「私の本を送ってあげるよ」などと言ってきたりします。しかし今までの経験では、送ってくる人はわずかです。忘れてしまったというより、最初から送る気がないのがよくわかるのです。本人は軽い気持ちで言ったのでしょうが、そういうことはいけないと思うのです。「今度、一緒に遊ぼうよ」などという程度のことも、その気がないなら、言わない方がいいと思います。
 正直や誠実さに徹することは難しいですが、この程度のことなら、ちょっと心がければできることだと思います。
 いずれにしろ、このような心がけをしていくと、言葉の持つ力が強大になっていくというのです。つまり、発した言葉が、現実のものとなっていくのです。それは人生における、もっとも偉大な力ではないでしょうか。
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コメント

こんにちは、斎藤先生。
言葉は心のあらわれですね。その人の心根が窺い知れます。

ひどいブラックユーモアで問題を出す教師たち、失言相次ぐ政治家たち・・・。

かくいう私も、沈黙に耐えきれず、言わなくてもいいような話題を出して場を紛らわそうとしたりします。
 
先生の推薦図書「ヒマラヤ聖者の生活探究」にも、否定的な言葉を言ったとたんに、内在する神の本来の力が削がれてしまう、というふうに言葉や思いの重要性が説かれていますね。

愛や真実のこもっていない言葉を口にするたびに神様に背中を向けることになるらしいです。

それらのことを踏まえて、心に浮かんだエゴが口から洩れないように訓練を積もうと、決意を新たにしました。
2010-11-23 Tue 16:30 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、ありがとうございました。
言葉は、その人の心の現れであると同時に、言葉がその人を作るともいえるかもしれませんね。
正しい言葉がしっかりと口にできないということは、まだ自我の機械的な支配に屈しているといえると思います。
言葉を意識的に使うようにすることは、そのまま覚醒の修行であるといってもいいと思います。
2010-11-23 Tue 21:15 | URL | [ 編集 ]

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