心の治癒と魂の覚醒

        

 怠け心との戦い

 覚醒修行のための時間を作ることは容易ではありませんが、怠け心を克服することも、容易ではありません。いくら修行のための時間を作れても、怠けていては何の意味もありません。
 それでは、怠け心と戦っていくには、どうすればいいのでしょうか?
「三日坊主」という言葉がありますが、最初は意気込んで始めても、三日もするとモチベーションが落ちてやめてしまう、ということが多いわけです。しかし、どんなことも三日坊主かというと、そうではありません。仕事帰りに飲み屋に通う人は、それこそ毎日でもずっと通い続けられるでしょう。三日坊主ということはありません。なぜかというと、酒を飲んだり、同僚などと語り合うことに、快感を覚るからでしょう。快感という報酬があると、モチベーションは下がらないわけです。
 一方、ピアノの練習はどうでしょうか? 三日坊主でやめてしまう人も多いでしょうが、ずっと続ける人もいます。ずっと続ける人は、単に忍耐力があるだけではなく、音楽が好きなのだと思います。どんなにわずかでも、ピアノが弾けるようになると嬉しくて、練習が面白くなり、それが快感となって、モチベーションを維持できるようになるわけです。

 では、覚醒の修行はどうでしょうか?
 ヨーガのアーサナ(体操)はかったるいし、呼吸法は息苦しくなるし、瞑想は退屈で、面白くも何ともないのです。面白くないどころか、禁欲的で、どちらかというと苦痛です。
 もっとも、修行が進んで、内的なビジョンが見えたり、歓喜の心境などが現れてきたりすれば、楽しくなるのかもしれませんが、それまでは、ひたすら忍耐でやり続けるしかないといった感じです。せいぜい、修行が終わった後に訪れるすがすがしい感じを味わう程度です。こんなことをしているのなら、休んで疲れを癒したい、テレビでも見てくつろぎたいと思ってしまいます。しかも、何ヶ月も何年も修行しているのに、何の変化も見られないとなると、修行そのものが空しく感じられるようになり、人生を無駄にしているように思われてきて、しまいにはそんなことをしている自分がバカに思えてきたりします。

 こんな状況において、修行をひたすら続けていくということは、それこそ並大抵のことではありません。怠け心にうち勝ち、自分にうち勝たないと、難しいでしょう。
 こんなふうに書いてしまうと、何となく修行する意欲が萎えてしまい、覚醒ということが遠いことのように思われてしまうかもしれません。
 しかし、修行そのものは誰だってできる内容なのです。オリンピック選手のように、資質に恵まれた人でなければ実行できないような、過酷なものではありません。三日できるならば、三年でも三十年でもできるのです。ただ、怠け心が障害になっているだけです。
 ところで、たいていの人にとって、仕事も修行と同じように、退屈で辛いのではないかと思いますが、三日坊主ということはなく、ずっと続けているでしょう。
 どうして、続けることができるのでしょうか?
 一番大きな理由は、お金のためでしょう。言い変えれば、生活が成り立つようにするためです。仕事がなければ、生活できず、ホームレスになってしまいます。それがイヤなので仕事をするわけです。その場合、快感を得るというプラスのモチベーションではなく、恐怖や不安というマイナスのモチベーションに動かされているわけです。
 その他、仕事に対するモチベーションとしては、責任感や使命感、社会貢献によって得られる評価や感謝といったものもあると思います。

 覚醒の修行の場合、快感が得られることは(少なくても当分の間は)期待できないのですから、モチベーションとしては、仕事と同じ発想で続けていくしかないと思うのです。
 つまり、覚醒の修行を「仕事」と考えるのです。
 もちろん、覚醒の修行なんてしてもお金は入らないし、修行なんてしなくても生活は成り立ちます。お金や生活という点では、モチベーションとはなりにくいでしょう。
 しかし、すでに述べたように、仕事のモチベーションはお金だけではありません。責任感や使命感、社会貢献というモチベーションもあります。お金よりこちらの方が強力なモチベーションになっている人も、少なくないと思います。
「私がこの仕事をしなければ、多くの人が困ることになる」
「この仕事は世のため人のために必要であるから、やらなくてはならないのだ」
 こうした発想によって、仕事に打ち込んでいる立派な人も、少なくないのです。
 覚醒の修行も、同じではないでしょうか?
 私たちが覚醒をしたら、すばらしい影響を人々や世の中に放つようになることは間違いありません。たとえ完全でなくても、覚醒に近づくにつれ、そういう影響力が備わってきます。要するに、これは困っている人、苦しんでいる人を助けてあげる能力や資質が備わってくるということです。

 ここで問われるのは、苦しんでいる人を目の前にしたとき、その人をどれくらい助けてあげたいかという、「情熱」が湧いてくるかどうかです。誰でも、「かわいそうだな」くらいは思うでしょうが、「なにかしてあげられないだろうか?」とまで考えるでしょうか? たとえ考えても、「どうせダメだ」とすぐにあきらめてしまうでしょうか?
 もちろん、目の前で苦しんでいる人を、すぐに助けてあげることはできないかもしれません。しかし、そのように苦しむ人を世の中から少しでも減らしていくという長期的な視野に立って、何らかのことをすることは、誰にでもできるのではないでしょうか。
 たとえば、目の前に飢えて死にそうなホームレスがいたとします。その人のためにできることは、せいぜい多少のお金を差し上げることくらいかもしれません。しかし、そのようなホームレスが社会にいるということは、この社会制度に不備があるためであり、根源的には人々の思いやりの欠如から発しているわけです。社会制度の不備を直すには、よこしまな利権に屈しない強い正義感やタフな精神力が必要ですし、思いやりを持つこともすぐれた人格を構築させることが土台となります。
 目の前で死にそうなホームレスをすぐに助けることはできなくても、私たちが正義感やタフな精神力、思いやりを持つように努力すれば、そうしたホームレスは少しずついなくなるのです。つまり、ホームレスにならずにすむ社会に変わっていくわけです。
 世界にまで目を向けると、飢えと病気のために、一日2万人以上もの子供が死んでいるのです。約5秒に一人が死んでいる計算になります。このブログを読んでいる間だけで、60人から120人の子供が死んでいるわけです。ひとくちに飢えと病気で死ぬといっても、それは非常な苦しみを伴っていること、そして自分の子供が目の前で死んでいく親の苦しみも伴っていることを忘れてはならないと思います。ただスーッと眠るように死んでいるのではなく、長期にわたる壮絶な苦しみを味わいながら死んでいるのです。

 こうしたこともすべて、社会制度の不備や思いやりの欠如から来ているのだと思います。
 私たちは、ホームレスや子供たちや、その他、さまざまな苦しみを背負っている人が、同じ地上に生きているというのに、自分だけ「のほほん」と、楽しく過ごすことなどできるでしょうか?
 もし、そういう人を助けてあげられる可能性があるとしたら、助けてあげたいと思う責任感、使命感、情熱といったものが、湧いてこないでしょうか?
 自分が覚醒に近づくほど、そういうかわいそうな人たちが救われていくのだとしたら、少しくらい見たいテレビがあっても修行に励もうという気持ちにならないでしょうか? かったるいアーサナを少しでも実践し、息苦しい呼吸法を少しでも実践し、退屈な瞑想を少しでも実践しようと思わないでしょうか?
 苦しんでいる人を助けようとすることは、人間としての「仕事」ではないでしょうか?
 お金のためだけに仕事をするというのなら、エサのために芸をする動物と何ら変わりはありません。しかし人間であるからには、お金だとか物質的な報酬のためではなく、ただ苦しんでいる人を助けるということ、そのことのために、それを仕事と考え、責任を持って受けて立つ義務があると思うのです。
 そして、そのためには、具体的な社会奉仕活動のようなことをすることも、もちろん大切なのですが、何をするにしても、土台としてすぐれた人間性がなければ、うまく機能しないのです。
 そして、すぐれた人間性を構築するためのもっともすぐれた道が、覚醒の道であると思うのです。なぜなら、覚醒とは、あらゆる美徳の根源である魂の力を呼び覚ますことだからです。
 このように、覚醒の修行は、「仕事」なのです。
 めんどうくさいとか、今日はやる気が出ないとか、退屈だからとか、面白くないからといって仕事をさぼることは許されないのです。モチベーションがあろうとなかろうと、仕事はしなければならないのです。

 そう思って、修行の最大の敵である怠け心と戦っていこうではありませんか。
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コメント

斉藤先生ありがとう☆
再確認できました。
思いやりの欠如が今の世界に表れていますが、あたしは諦めません☆
自分のできることを貢献していきたいと改めて思いました。
1人でも続けていけば必ず連鎖は起こります。
いい連鎖の一部でいいからなりたいしなります☆
ありがとう☆
何千年後だろうがいつか必ず思いやりいっぱいの世界になります☆
世界の根源である個人次第。個人、一つ一つの命の集まりが社会ですもんね☆
だからあたしは諦めません♪
逆にワクワクします☆
ありがとう!
2010-12-02 Thu 23:21 | URL | ペピ [ 編集 ]
斉藤先生こんばんは。
今日のブログを読んで、とても共感いたします。
マザーテレサの心が、この世にあふれますようにと、祈ります。
日本の人は、幸せすぎて、覚醒どころか、もっともっと
上の自己満足を追っています。
普通に暮らせている人は、今ある衣食住にひとまず満足し、
幸を認め、衣食住すら満足にできない人や動物のために
何か助けてあげることができるはずです。
見返りを求めること無く、少しでも人の為になれることができたとしたら、
素晴らしいと思います。
自分のすべてのうち、少しだけでも、
人の為にここに存在すると気がつけば、日本人の幸福度が上がると思います!

2010-12-03 Fri 00:15 | URL | 匿名 [ 編集 ]
斉藤啓一です。以上、お二人の方のコメント、ありがとうございました。とても嬉しく拝見させていただきました。
他者への思いやりの情熱が、世の中をよくしていき、個人的には覚醒を促してくれるものと思うのです。
マザーテレサなど、最初はたったひとりで活動しました。へんぴなインドの地で、電話もなければ、もちろんEメールなどもありません。しかし、その活動はしだいに連鎖していき、ついには世界中に広まったのです。
やればできるのだと思います。コミュニケーション手段などの物理的な条件は、今の方がずっと恵まれています。また、こんな生き方をする人には、天も力を貸してくれるでしょう。
一番いけないのは、「どうせやってもダメだ」という気持ちだと思います。だから、世の中はよくならないのだと思うのです。
覚醒の道を歩む私たちは、このような「幻想」をうち破り、小さくても連鎖反応を生じさせる発信源になっていこうではありませんか。
そうすれば、世の中は必ず変わっていきます。
2010-12-03 Fri 09:34 | URL | [ 編集 ]

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