人はなぜ覚醒をめざすのか? 22010-12-25 Sat 14:19
賢者や偉人、哲人たちは、人生の実体をありのままに見つめ、苦しみというものの根本的な解決策を模索してきたわけです。それが哲学や宗教という形で伝えられているわけです。もっとも、ニーチェのように「永遠の苦しみの中にあってもたくましく生きる超人になれ!」などと、(私から言わせれば)何の解決策も打ち出していない哲学を説く人もいます。「超人」になれれば誰も苦労しないわけで、もしそう説くなら、どうやってその「超人」になれるのか、その道筋をあきらかにしなければ無責任だと思うわけです。
かといって、「神様に祈っていれば天国に行って永遠に救われます」と説く宗教がありますが、いくら信じることが宗教だからといっても、正直、本当にそうなのかと私は疑ってしまうのです。多少なりとも、それが本当であることを証明するような何かがあればともかく、ただそう言われているという理由で「はい、そうですか」と素直に受け入れることは、少なくても私にはできません。 そうして、結局、私がたどりついたのがヨーガだったのです。ヨーガには、苦しみを根本的に解決するための哲学理論とその実践法が明記されており、しかも、その通りに行って苦しみを根本的に解決したと思われる人物が多数輩出しているからです。 とはいっても、私は「ヨギ(ヨーガ行者)」ではありません。つまり、ヨーガを行じるのが目的ではなく、あくまでも苦しみを根絶することが目的なので、手段はどうでもいいのです。ですから、ヨーガ以外の教えで役に立つものがあれば、どんどん取り入れるようにしています。 結局、苦しみを根源から絶ちきるには、地上にだけ向けられている意識の焦点を、本来の人間の姿である霊的な領域へとシフトすることであるらしい、ということがわかりました。それがいわゆる「覚醒」です。わかりやすく言えば、この地上での人生は「夢」だというのがヨーガの教えであり、その他、主な神秘思想の教えです。私たちは悪夢を見てうなされているというわけです。私たちの本質は肉体という物質ではなく、意識エネルギーなのです。 意識エネルギーに死滅はなく、時空を超えた完全な自由を持ち、この地上のあらゆる幸せをすべて足し合わせたよりもはるかにすばらしい、想像を絶する幸せを享受する存在と言われています。 その状態がどれほどすばらしいものかがわかれば、おそらく地上のあらゆる喜びを投げ打ってでも覚醒を求めて修行するようになるのでしょうが、そのすばらしさがわからないので、ほとんどの人が、覚醒などに興味を示さず、興味を示したとしても、修行にかける熱意に不足してしまうのです。よくわからない天上の幸せよりも、身近には欲望を刺激する数々の魅惑的なものが溢れています。そのため、どうしても、霊的な修行よりも、物質的な物事に眼が移ってしまい、その獲得に心が奪われてしまうわけです。それが、現在の人類の大多数であるわけです。 しかし、そんななかで、人生の無常や、生に付随する数々の苦悩や不自由さを、骨身に染みて味わった人だけが(過去生も含む)、人生に真の幸せを求めることに絶望を覚え、人生の苦しみを根本的に解決するための道を模索するようになるわけです。 ところが、「人生の苦しみから救われるために修行をする」などというと、「弱虫」で意気地なし、ネクラな人の単なる逃避だと思われてしまうところがあるようです。 私が若い頃、自分の目的は人生の苦しみから解脱することだ、だから宗教や哲学の研究をしているのだと母に言ったところ、母はこう言いました。 「意気地なし! 男なら、人生の荒波や苦しみなんかに負けずにたくましく生きたらどうなの!」 こう思う人は、たくさんいるのかもしれません。しかし、こうした動機で宗教や哲学の道を歩んでいる人が「意気地なし」というのなら、まず何よりも釈迦は意気地なしということになります。そのときは、両親はほとんど無宗教でしたが、その後、仏教を信じるようになりました。両親は「意気地なし」が説いた教えを信仰していたことになります。もっとも両親の信仰は「仏様に祈れば救われる」といった他力的なもので、修行などしませんでした。しかしご存じのように、釈迦は「仏に祈れば救われる」などと説いてはいません。「ひたすら修行せよ」と説いたのです。仏に祈って救われるのなら、修行なんて、そんなしちめんどくさいことは説かなかったはずです。「仏に祈れ」と説いたはずです。しかし、そんなことでは救われないから「修行せよ」と説いたのです。もちろん、仏に祈ることは大切です。しかしそれは「修行が成就できますように」と祈るべきであって、修行も努力もせず、おんぶにだっこで「助けて下さい」と祈ることではないのです。そんなものは仏教とはいえません。 結局、覚醒をめざすというのは、苦しみから解脱するという目的だけではないのです。覚醒をすることが、すべての人類の霊的な進化そのものだから、覚醒をめざすのです。苦しみからの解脱というのは、そのきっかけにすぎません。たとえば病院に入院した人の目的は「早く病気を治して退院すること」ではないでしょうか。病気とは異常な状態だということです。人類も同じです。今の人類は、本来の人類の姿ではなく、まさに異常な状態、病気の状態なのです。その病気の状態から健康になろうと願うのは当然ではないでしょうか? それなのに、「病気を治すためにがんばって療養したい」と言う患者に対して、「意気地なし! 病気の苦しみなんかに負けず、たくましく生きたらどうなの!」なんて言う人がいるでしょうか? 覚醒とは、弱者の逃避ではありません。それは真の意味で健康になることであり、立派な人間になることであり、進化するということなのです。そして、そのような道を歩むためには、克己的な努力が求められます。世の中に「克己(自分に勝つ)」ほど偉大なものがあるでしょうか? すなわち、それは真のたくましさ、冷静な知性、情熱的な行動力が要求される、まさに「勇者」が歩む道なのです。 スポンサーサイト
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コメント
おはようございます、斉藤先生。今朝方すごい体験をしました。
布団の中でまどろんでいると、突然、嵐のような音に包まれました。大風か、あるいは地震かもしれないと思い、びっくりしていると、尻のあたりから青白い光が背骨に沿って上昇してきました。 一瞬、脳裏に「クンダリニーか?」という言葉が閃き、ついで恐怖に襲われました。そこで、「覚醒するのか?覚醒して何がしたいのか?」という疑問符を投げかけて、心の中で拒絶してしまいました。 すると、私の心中を察した何者かが、すでに頭頂部まで達していたその光を背後からすっとなでつけました。そのとたんに光は消え、背筋にじんじんする感覚を残して消えてしまいました。 痛みのたぐいは全然なくて、クンダリニーではないかもしれませんが、初めての霊的経験に、今すごく興奮しています。 問題点ははっきりしました。私は覚醒することに恐怖しているらしいのです。覚醒して誰を救いたいのか自問自答しなければなりません。 ・・・すこし冷静になりました。でも寝ぼけていたわけではなく、確かにリアルな神秘体験でした。あれは一体なんだったのでしょうか? 2010-12-28 Tue 06:21 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメントありがとうございました。
すごい体験をされましたね! これは、クンダリニーが目覚めたのだと思います。ただ、クンダリニーの目覚め=クンダリニーそのものの上昇ではなく、たとえるなら、クンダリニーのオーラのようなものが上昇した現象らしいのです。 いずれにしろ、この現象はクンダリニーが目覚めたというメッセージといわれています。今後は、いかに安全かつ健全にクンダリニーそのものを上昇させるかが課題となります。 そこで、以下の2点を実行していただきたいと思います。 まず、何者かがなでつけたとのことですが、その何者かがワタナベさんの指導霊だと思いますので、その方に「安全に覚醒できますように導きたまえ」と、日夜祈りを捧げて下さい。恐怖するのは自然なことです。守護霊の導きにより、恐怖心を少しずつ無くしていって下さい。 次に、今まで以上に、心身の浄化には注意して下さい。クンダリニーが目覚めていなければ、多少体に不浄なものを食べたり悪い想念を出しても害はありませんが、一度クンダリニーが目覚めると、そういうことがけっこう大きなダメージになるようですから。 あとは、決してあせってはいけません。少しずつ少しずつ、石橋をたたいて渡るような感じがよろしいと思います。 それにしても、こういう体験をされる方が私のブログを読んで下さっているというのは、嬉しいものです。 この調子でがんばっていただきたいと思います。 2010-12-28 Tue 09:49 | URL | [ 編集 ]
ご指導ありがとうございます。実は数年前から、尾てい骨のあたりが軽くチリチリと疼く状態が続いていて、もしかしたらクンダリニーが目覚め始めているのではないか、と心配していました。神秘修行を始めるとどうなってしまうのだろう、と恐れて、以前「対応してくれる病院はないのでは?」と質問したわけです。
今朝は比較的落ち着いています。変化といえば早起きになったぐらいでしょうか。今後もより真剣に修行に励みます。 2010-12-29 Wed 05:52 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
私は、ワタナベさんのような神秘体験はないです。
超人覚醒法を読んで13年、ある日ひらめきました。 私は、「経験」というプログラムに縛られた機械である。 プログラムから解放されるのが、覚醒なのだ。 これに気づくのに、13年もかかるなんて。 同時に恐怖が襲ってきました。 覚醒=生まれてきた意味を思い出すこと。 生まれてきた意味を悟ったら、生きる意味を失うのではないか。 人生が終わってしまうのではないか、という恐怖が襲ってきました。 実は、4分瞑想法もずっとサボってしまいました。 昨日は、4分瞑想法をやりました。 きょうは、10分瞑想します。 徐々に時間を長くして、瞑想を続けます。 今は、とりあえず短い時間でも瞑想を続けます。 しかし、修行のための修行ではいけないのですね。 先ず、できる範囲で頑張ります。 2010-12-29 Wed 08:04 | URL | 両さん [ 編集 ]
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