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心の治癒と魂の覚醒

        

 ヨーガ哲学による解脱(覚醒)の理論

 何事を行う場合にも言えることですが、修行を続けていくには、「この修行は何のためにやっているのか、どのような意義があるのか」ということをはっきりさせる必要があります。さもないと、人間は辛いことをしていると「こんなことに何の意味があるのか?」という疑問が生じてきて、ついには止めてしまったりするからです。
 そこで、解脱(覚醒)の理論をご紹介することで、修行の意義について理解を深めていきたいと思うのです。ここで紹介するのは、ヨーガの哲学理論です。

 さて、ヨーガの哲学によれば、根源の世界には「魂(生命)の固まり」が存在していました。要するに「神」のことです。神は、ひとりで至福と平和の境地に安住していました。一方、プラクリティ(自性)と呼ばれる「物質の固まり」も存在していました。つまりヨーガの哲学は二元論ということになります。
 あるとき、神とプラクリティが偶然に出会いました(偶然ではないのかもしれませんが)。そのときプラクリティの心に「おせっかい」な気持ちが生じたというのです。
 それは、至福と平和しか経験したことのない神という「お坊ちゃん」に、一度自分が誰なのかわからなくさせ、人生の酸いも甘いもさんざん経験させた末に、自分が誰なのか知ってもらおうという気持ちです。
 そうして、プラクリティは神の前に立って、ある種の巨大な鏡のような存在になったのです。その結果、神は、鏡に映った自分の姿を本当の自分だと錯覚するようになりました。
 ところで、プラクリティには三つの運動原理があります。それは以前、このブログでも紹介した「三つのグナ」のことです。
 タマス・グナ=暗く鈍重な働きをする運動原理
 ラジャス・グナ=せわしなく動く働きをする運動原理
 サットヴァ・グナ=ものを明るく照らし出す運動原理
 この三つのグナが入れ替わり立ち替わり常に変化しているのが、プラクリティの特徴です。そのため、このプラクリティという鏡に映っている神も、この三つのグナの通りに変化する存在に見えてしまうのです。しかもこの鏡は、表面に無数のひび割れがあるため、神の姿はたくさんの姿に分裂して見えてしまいます。
 これはまったくの錯覚であり、神自身は何の変化もないのですが、鏡のなかの自分が本当の自分だと思いこんでいるため、神は自分自身が無常な物質世界に閉じこめられ、たくさんの魂に分裂し、それゆえに争ったり妬んだり怒ったり欲望におどらされたりなど、さんざんな苦しみを味わっているのです。これが私たちの今の状況です。

 たとえるなら、映画館に入ってホラー映画を見ているようなものです。よくできた映画を見ていると、それが単なるスクリーン上に映し出された虚像ではなく、リアルな実在に思えてきて、映画の世界に入ったような感覚になってしまいます。とくに最近はやりの3D映画などでは、ますますリアルに感じられます。その結果、単に俳優がグロテスクなメーキャップをして怪物の演技をしているだけなのに、そんなことは一切忘れ、本物の怪物に襲われているように思えて恐怖におののいてしまっているわけです。
 このように、この世界というものは、プラクリティによって作り出された「幻影」であり、ある種の「ワナ」だというのが、ヨーガ哲学の考え方です。そして、この世界が幻影であることを見抜き、自分は何も変わらない至福と平和の神であることを思い出すことが、解脱であり覚醒ということになるわけです。

 それでは、どのようにしたら、この世界が幻影であり、自分は至福と平和に満ちた神であることを思い出すことができるでしょうか?
 この場合も、ホラー映画のたとえが適用できます。ホラー映画に夢中になって怖れ苦しんでいるとき、その苦しみから解放されるには、これは単なる映画であり、自分はスクリーンに映し出された虚像を見ているだけなのだと気づけばいいわけです。
 では、どうすれば、映画であることに気づくことができるでしょうか?
 いろいろな方法があるかと思いますが、一番簡単で効果的なのは、目を閉じることです。そうすれば、目の前から怖ろしい怪物はいなくなります。そうして落ち着きを取り戻せば、自分は今映画館で映画を見ているのだということに気づくようになるでしょう。
 同じように、自分は「地上世界」という映画を見ているのだと気づくには、目を閉じればいいのです。つまり、意識を内面に向ければいいのです。要するに瞑想するのです。
 瞑想をして意識を内面に向けることで、落ち着きを取り戻してくると、自分が本当は誰なのか、しだいに思い出されてきます。理屈ではなく、直感的に「自分は映画を見ていたのだ」とわかるわけです。
 このことを、ヨーガでは「直感的な智慧」と呼んでいます。短くして「直智」といってもいいでしょう。論理や理屈や思考による推論ではなく、真実をダイレクトに認識する働き、それが「直智」です。この直智が、解脱をもたらすとされているのです。ですから、いくら本を読んだり考えたりしてもダメなのです。瞑想して直智能力を獲得するしか、解脱する道はありません。

 ところで、いくら映画だと気づいても、映画を楽しみたいという欲望が私たちの心にはしぶとく残っています。ホラー映画であっても、やはりそれを見るとどこか楽しいから見るわけです。その欲望が残っていると、席を立って映画館から立ち去ろうという気にはなれないでしょう。
 同じように、完全な解脱を果たすには、直智だけでは足りないのです。映画そのものに対する欲望を完全に捨てなければなりません。つまり「離欲」ということが最終的に求められるわけです。そうしたとき人は、「映画館」から立ち去り、もう二度と「映画館」に戻ってくることはなくなります。
 まとめるなら、解脱(覚醒)に必要なことは、次の二つの意識を獲得することです。
1.プラクリティ(物質性、地上世界、肉体)と本当の自分とは別であり、本当の自分は神なのだと認識する「直智」。
2.プラクリティに対する完全なる「離欲」。
 この直知と離欲の獲得こそが、覚醒修行をする目的であり、意義なのです。
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