心の治癒と魂の覚醒

        

うつという「最高の修行」

 私のうつとの闘いは続いている。今はインターネットという、情報を集めるには本当に便利なツールがあり、助かっている。むかしは情報を集める手段といえば、主に新聞や雑誌や本、テレビやラジオなどのマスコミだけであった。しかし、マスコミの情報は営利が絡んでいるために正確でないことも多い。たとえば新聞や雑誌などの多くが広告収入で成り立っているので、広告主の会社の不祥事を知ったとしても、それを記事にすることはまずないだろう。その点インターネットは、政治や営利とは関係なく、さまざまな裏情報も入手できる。もちろんそれらのすべてが真実というわけではなく、根拠のないものや嘘もかなりあるだろうが、それでも真実がそこにあったりする。そのぶん、私たちは「情報過多」となり、どれが本当の情報なのか迷うことになる。そのため、本物と偽物とを見極める判断力が今まで以上に求められることになる。だが、それは口で言うほど簡単ではない。

 私も、インターネットでいろいろ調べて、「うつが治ります」と言葉巧みに書かれている、ある治療院のホームページを読み、それを信じて片道3時間かけてその治療院に行き、気功とマッサージと簡単なカウンセリングを受けたが、まったく効果はなかった。少なからぬ交通費と治療代と時間が無駄になった。あるいは、「うつの原因のほとんどは脳への血流不足である。脳への血流を多くすれば、どんなに重いうつでも三ヶ月で治る」という情報商材を見つけた。価格は2万円。宣伝文句を信じて購入し、そこに書かれているストレッチやツボ刺激などをしているが、それほど劇的な効果は今のところない。「どんなに重いうつでも三ヶ月で治る」という宣伝文句の最後に小さな文字で「効果には個人差があり、うつが必ず治ることを保障するものではありません」などと書いてある。これも不発に終わった試みのひとつだ。脳への血流不足がうつの原因のひとつであることはたぶん本当だと思うが、宣伝文句が誇大すぎる。
 他に漢方薬やハーブ、脳内物質ギャバのサプリなどを試したが、あまり自覚できるような効果はなかった。
 このように、いろいろ試していると、それなりにお金がどんどん使われることになる。最初から効果がないとわかればいいのだが、実際には試してみないとわからないことが多い。なので、以上のような試行錯誤的な試みは、たとえそれが期待はずれの結果に終わったとしても、仕方がないことなのだ。それも成功に至るための「必要経費」であり、「授業料」だと考えることだ。何かに挑戦するには、数多くの失敗を経るのが普通だ。エジソンは電球の発明に際して一万回も失敗したというが、彼はそれについてこう語っている。「失敗はしていない。うまくいかない方法を一万回発見したのだ」。エジソンのこの言葉を胸に刻んでおきたい。

 一方、自覚するレベルで効果があったのは、デトックスである。具体的には、スーパー銭湯に定期的に行って、遠赤外線の「岩盤浴」で大量の汗をかくことである。遠赤外線による発汗は、普通のサウナによる外の温度によるものではなく、共鳴現象によって皮膚の深い層にまで熱を生みだして発汗させるもので、深部に蓄積された毒素が汗と共に排出されていく。また、細胞賦活作用や免疫力の向上、自律神経の調整といった効果もある。
 また、腸内環境を整えるのも効果があった。具体的には野菜(特に繊維の多い根菜類)や発酵食品(納豆や味噌、ヨーグルトなど)を摂取し、白砂糖などを極力控えるという食生活をすることである。
 その他、なるべく散歩や軽いジョギングなどの運動をするようにし、ヨガも行い、また入浴のときは最後に水のシャワーを浴びたりした。急激に水で冷やすことにより、副腎皮質ホルモンの分泌を活性化させ、免疫力を高める効果があるらしい。
 こうした生活をすることで、精神安定剤の減薬が思った以上に進んだ。今は1.5錠~2錠(適量は1.5錠)にまで減薬することに成功した。だが、それ以上の減薬は、なかなか思うようにいかず、足踏み状態が続いている。

 さらに、減薬による禁断症状なのか、それとも、薬によって抑えられていたもともとのうつの症状が出てきたのか、この点ははっきりしないが、気分的な落ち込みは、ある意味で前よりも強くなっていった。健康的な生活をしているので、全体としては改善に向かっているはずなのだが、この気分の落ち込みは実に辛い。特に朝起きたときの気分は最悪で、「もう勘弁してくれ!」と叫びたくなる。あらためて、うつの人が自殺に走ってしまう気持ちがよくわかった。
 しかし、先日、精神科医のもとに行くと、新しい薬を試してみないかと言われた。
 それは、エビリファイ(アリピプラゾール)という薬で、もともとは統合失調症の薬として2006年に開発されたものであるが、2013年にうつ病(特に従来の抗鬱薬が効かないケース)にも効果があることが確かめられた。この薬のユニークな点は、セロトニンやドーパミンといった脳内物質を、従来の薬が抑制するか増強するか、どちらかの作用しかなかったのに対し、このエビリファイという薬は、脳内物質が不足している場合(うつがこれに当てはまる)は増強させ、過剰分泌されている場合(統合失調症がこれに当てはまる)は抑制するように働く。要するに、適量を分泌するように調整する作用があるという(この薬は世界的に大ヒットし、賞をもらい、開発した大塚製薬はこの薬だけで大幅に利益を伸ばし、大手製薬メーカーの仲間入りをした)。
 私は、薬はあまり飲みたくなかったので迷ったが、副作用や依存傾向は非常に少ないというので、とりあえず試してみることにした。
 その結果、意外にも、「もう勘弁してくれ!」というほど最悪の気分がほとんどなくなった。
 もちろん、まだまだ問題が解決されたわけではないが、とりあえず、あの耐え難い苦しみが緩和されただけでも、本当にありがたいことであった。
 そこで考えたのだが、とりあえず副作用や依存性の弱いエビリファイの力を借りて気分を安定させることで、副作用や依存性の強いベンゾジアゼピン系の精神安定薬を完全に断つという作戦で進んでみることにした。
 世間には、「向精神薬は絶対にダメだ」と全面否定している人がいるが、私はそれは極端であると思う。確かに、軽いうつに対してやたらに向精神薬を投与するのは間違っていると思うが、重度のうつの場合や、減薬のための補助的な使い方をする場合などは、それなりに有効であると思う。どうであれ、極端な考え方というのは間違っていることが多い。

 インターネットで、「うつになってよかったこと」という記事が目にとまり、読んでみた。すると、うつに苦しんで回復した人が「うつになってよかったこと」の筆頭にあげたのは、「人に対して優しくできるようになった」ということだった。
 うつに限らず、苦しい経験というのは、がいして人を優しくするものだ。苦しんでいる人の気持ちがわかり、共感できるからである。とりわけ病気の苦しみはその傾向が強いと思う。古代インドの聖典『ウパニシャッド』には、「病気はあらゆる苦行のなかでも最高の苦行である」と書かれている。病気、そのなかでもうつ病は、人を優しく、また強くさせる「最高の苦行」ではないかと思う。
 うつの経験者、また抗うつ薬や精神安定薬の服用者ならよくわかっていただけると思うが、そのような状態のときは頭がよく回らない。記憶力も判断力も低下し、単純な作業ができなくなったり、ミスを多発させてしまう。また意欲が乏しくなり、疲れやすく、何をしても長時間よいペースを保つことができなくなる。
 私はそのために、私と関係した人々から、ひどいことを言われたり、冷たくされたり、意地の悪いことをされたりした。そのためにうつが悪化したことは確かである。けれども、私はその人たちのことを恨んではいない。ほとんどの人は、私がうつであることも、大量の精神安定薬を服用していたことも知らなかったからである。たぶん私は、不器用な人間、やる気のない人間に見えたのだろう。仕方がないことである。以前の私だったら、同じことをしていたかもしれない。
 しかし、うつを経験した今の私は、たとえ不器用な人、やる気がない(ように見える)人に対して、ひどいことを言ったり、冷たくしたり、意地の悪いことをしたりすることは決してないだろう。なぜなら、どのような理由がそこに隠されているか、わからないからである。
 私は、うつの経験を通して、そういう貴重なことを学び、それを血肉とすることができた。地上という場所が「魂の修行の場」であるとするなら、私はうつという最高の授業、最高の修行をさせていただいたことになる。一時は自分の不運を嘆いたが、今は本当に「幸運」であったことがわかる。
 愛を語る人は多い。だが、その人に本当に愛があるかどうかは、当然のことながら、その行動で決まる。

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免疫力を高める

 私のうつ病は、昨年8月に会社を辞めてひと月かふた月くらい休んでいれば治ると思っていた。長くても年内には治ると思っていたが、その考えは甘かった。全体的には改善の方向に進んでいるように思われるが、その歩みは遅々としている。
 私は、再発を繰り返し、抗うつ剤も効かず、医師から「治らない可能性が高い難治性うつ」と言われた自分のうつを治すことで、このブログを読んでくれている、やはりうつに苦しむ人に希望を与えたいと願って、こうして闘病記録のようなものを書いているが、こうも治りが遅く、とりわけ具合が悪いときなどは、ついそんな気持ちも萎えて絶望的になってしまうこともある。
 むかし、「うつ病はあらゆる病気のなかで一番苦しい」と言っている外国人医師の書いた本を読んだことがある。そのときは、「少し大袈裟かな」と思った。たとえば、モルヒネも効かなくなった末期がん患者の苦しみの方が、たぶん苦しいと思う。しかし、そのような苦しみは長くは続かない。せいぜい数時間、長くても数日であろう。しかし(重度の)うつの苦しみは、毎日毎日休みなく、数ヶ月も数年も続く。それを考えると、確かにうつはあらゆる病気のなかで一番苦しいというのは真実かもしれない。

 けれども、末期がんの場合は治る可能性はきわめて低いが、うつの場合は、あきらめさえしなければ、必ず治る、少なくとも大幅に改善されると思っている。医師は「治らない」というが、それは彼らが学んだ方法では「治せない」という意味であって、「治らない」というのは正しい表現ではない。実際、今日の精神医学の手法だけでは、難治性うつは治らないと思う。
 しかし、私がインターネットを通して、ありとあらゆるうつの治し方を調べていった結果、現代精神医学の範疇を超えた、うつへのさまざまな対処法があることを知った。そして、実際、難治性うつを克服した人の体験談なども読むことができた。
 だから、もしあなたがうつ病で、医師から「治らない」と言われたとしても、それは「彼らには治せない」というに過ぎず、「治らない」わけではないということを、しっかりと覚えておいていただきたいと思う。さもないと、医師から「治らない」などと言われると、それで絶望的になってしまう。そうしてずっと薬づけにされ、うつが悪化あるいは慢性化して、実際、治らないものとなってしまう。過激な表現かもしれないが、うつを治らなくさせているのは精神科医たちではないだろうか(すべての精神科医がそうだとは言わないが)。

 過去のブログで述べたように、うつ病を治すには、まずは向精神薬(抗鬱薬、精神安定剤)を止めることが最初の第一歩となると思う。もちろん、それは段階的に徐々に減薬していかなければならない。さもないと離脱症状の苦しみに襲われて、かえって悪化させてしまう危険もある。絶対に無理はいけない。とはいえ、我慢できる程度の多少の苦しみは覚悟しなければならない。
 今のところ、私の減薬はうまくいっている。ピーク時には、1mgの錠剤を一日に8錠から10錠も飲んでいた(規定量は1.5mg)。今は、一日に2.5錠から3錠で平気になった。それでも規定量の2倍くらいになっているが、一ヶ月もしないうちにここまで減薬できるとは思わなかった。しかし、ここからの減薬が難しそうである。
 減薬を始めてから、離脱症状なのか、それとも、もともとのうつの症状が現れたのかははっきりしないが、薬を大量に飲んでいるときよりも気分が重く、悲しみや絶望感、意欲減退が強く感じられた。とにかく何もする気が起きない。何かしても1時間もすると具合が悪くなって横にならなければならない。
 また、肉体的にも調子が悪い。軽作業でも1時間も続けられない。また、手が微妙に震えるようになり、文字を書くと歪んでしまう。そして何よりも、免疫力が低下したように思われる。先月に「胃腸風邪」を患ったのも、ウィルスや細菌に対する抵抗力が落ちているためであることは間違いない。また、皮膚に湿疹ができたりしているが、これも免疫力の低下によるものだろう。寒さに非常に弱くなり、今年は暖冬だというのに、外に出ると骨にまで冷たさが浸透してくるようで、手足が冷たくなる。

 そこで、私は減薬と同時に、免疫力を高めることも実行することにした。インターネットで調べると、免疫力を高めるためのいろいろな方法が紹介されている。
 まず大切なのは、デトックス(解毒)である。体内に蓄積された薬を排除しなければならない。実際、向精神薬に限らず、およそ薬というものは免疫力を低下させてしまうという。なので、やたらに薬を飲むことは、なるべく控えた方がいい。長期的には健康を害してしまう怖れがある。免疫力の低下は、感染症やがん、その他あらゆる病気の原因になることは言うまでもない。
 体内の毒素は、主に尿や汗から排出される。そこで私は、汗をかくことから始めた。本来は運動によって汗をかいた方がいいのだが、まだそこまでの意欲がないので、近所にあるスーパー銭湯に通って、岩盤浴やサウナに入って汗をかくようにした。そのとき、デトックスによいと言われる「水素水」というものが売られているので、まずそれをコップに一杯飲んでから汗をかくようにした。そして汗をかいた後は、水風呂につかってからだを冷やす。一説によると、急にからだを冷やすと、脳が「緊急事態」と感じてからだの免疫力が強化されるのだそうだ。また、自律神経(これは免疫力と密接な関係があり、うつの人は自律神経の働きが低下している)を正常化させる効果もある。実際、うつの治療のひとつとして冷たい水を浴びるという方法がある。
 今まで二日ほど以上のことを実行してみたが、けっこう調子がいい。薬をそれほど飲まなくてもすむようになり、薬の量が減った。また、心身が軽くなった感覚がある。
 また、デトックスで重要となるのは、腸の状態をよくすることだといわれている。具体的には善玉菌を増やし悪玉菌を減らすことで、そのためには何を食べるかが決め手となる。ヨーグルトなど善玉菌を積極的に入れるようにする他、善玉菌を活性化させる食べ物というものがある。それもインターネットで調べると知ることができる。基本的には野菜、それもだいこんやごぼうやれんこんなどの根菜類が有効らしい。今後は、そういう食品を中心に食べて行こうと思う。
 こうして、私はじりじりと歩んでいる。人生というものは、なにごとも、あきらめなかった者が最後には勝つのだ。そのように自分に言い聞かせながら・・・。

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減薬を決意する

 先日、「胃腸風邪」というものに罹りました。ウイルスや細菌が胃腸に入り込むことで、吐き気、嘔吐、下痢、腹痛に見舞われる症状が現れます。夜、突然ひどい寒気がしたかと思うと、吐き気と何回も繰り返す下痢に見舞われました。嘔吐や腹痛はありませんでしたが、吐き気がひどく、ベッドに横になっていられません。そのため、夜中じゅう、椅子に座っていました。結局、二日間、一睡もできず、何も食べられず、砂糖水をちびちび飲んで耐えていました。ネットで調べると、大人の場合、たいていは二日程度で治ると書いてあり、実際、二日でほとんど治りました。でも、二日間、さすがにきつかったです。
 嘔吐や下痢に見舞われるのは、体内に入った毒を排出しようとするからだの治癒力の働きです。そこで私が迷ったのは、これまで飲み続けていた精神安定剤を飲むかどうかです。あれはある種の毒であるから、もし精神安定剤を飲んで吐き気や下痢がひどくなったらどうしようという恐怖心があり、飲まずに我慢していました。
 しかし、まもなく禁断症状が現れて、吐き気の他に、何ともいえない胸苦しさ、不安パニックのような症状に見舞われました。それがもう耐えきれないほどになったので、おそるおそる、1錠(1mg)を4分の1に割って、それを服用しました。そうしたら、禁断症状がスーッと消えていきました。
 これまでは、いっぺんに1錠とか2錠くらい飲んで、それでもあまり効かないことがあったのですが、このようなからだが敏感になっている状態のときというのは、たった4分の1の小さなかけらでも効くことに驚きました。言い方を変えれば、本当はいかにこの薬の毒性が強いものであるかということの証だと思います。私はこの薬を、多いときで一日に8錠から10錠も服用していました(規定量は一日1.5mg すなわち、1.5錠です)。
 しかし、4分の1錠を飲んで楽になっても、30分もするとまた禁断症状が現れ苦しくなります。私は禁断症状が現れ苦しくなっても、30分は我慢してから飲むことにしました。そうして、禁断症状に対して脳を慣れさせるためです。私は真剣に減薬に取り組まなければならないと痛感しました。薬をやめない限り、うつは治らないと確信しました。
 ネットなどを見ると、急に薬をやめて、その後三日間は地獄の苦しみを味わったといったことが書いてあったりします。しかし急に薬を止めることは危険だと思います。血液中に薬が入った状態に順応してしまった脳が、薬なしの状態に順応するまでには、それ相当の時間がかかります。地獄のような苦しみを味わって脳に負担をかけたり、その体験がトラウマになって、状態を悪化させることも考えられます。なので、薬は急にやめてはならず、長い時間をかけて徐々に減らしていかなければなりません。
 私はとりあえず、1年後を目標に、少しずつ薬を減らしていく計画を立てました。ただし、決めるのは「上限」だけで、無理に飲むことはしないことにしました。そして禁断症状が現れても、30分は我慢することにしました。30分くらいの我慢は何とかできます。
 すると、最初は6錠から二週間おきに半錠ずつ減らしていく計画でしたが、この「30分は我慢する」ようにしたところ、一日3、4錠くらいで平気になりました。それでも規定量の2倍以上を服用していることになりますが、思っていたほど減ったので嬉しく感じます。
 ただ、やはり離脱症状のためか、気分的には以前よりひどく落ち込むようになった気がします。特に朝の落ち込みはどうしようもなくひどいです。
 ところが、それでも何となく、表現は難しいのですが、「調子がいい」感じもするのです。何か、自分の生命力がよみがえっていくような、そんな感じがするのです。
 離脱症状は、「病気の症状」ではありません。からだが本来の健康な状態に戻ろうと闘っている苦しみであり、基本的にはよいことなのです。つまり、「症状は悪化しているが、病状は改善している」ように感じられるのです。
 胃腸風邪になったときは、うつの苦しみの他にこんな苦しみまでやってきて、私はどこまで苦しめられるのかと、思わず神を恨みたくなりましたが、この胃腸風邪がきっかけで、減薬を決意し、改善に向かって方向転換がなされたことは間違いありません。
 そう考えると、胃腸風邪になったことは神の助けなのかもしれず、苦しみが解決のためのきっかけになることがあるとも考えられます。いわゆる「災い転じて福となす」というものですね。これは病気に限らず、人生の苦しみにもいえるのではないかと思います。不運だと思っていたことが、実は幸福へのチャンスだったりするわけです。なので、不運や苦しみが訪れても、あせらず希望をもってしばらくの間じっと心静かに耐えているという姿勢が大切なように思われます。

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ウツになってよかったこと

 本文に入る前に、ちょっとひとこと述べさせてください。
 本日、名前も住所も書かれていない読者の方から、あるものが届きました。「ブログには書かないでほしい」というご希望でしたので、詳しくは書けませんが、どうしても御礼の一言を言わないではいられないので、ちょっとだけ触れさせていただきます。
 本当に、本当に、ありがとうございます。お手紙に書かれてあったことは、いつか必ずそうさせていただきます。

 さて、私がかつて病院のカウンセラーをしていた頃、40才のガン患者さんが入院していました。余命は一ヶ月か二ヶ月くらいだったと思います。奥様とまだ小さい二人の子供がいました。親も健在でした。そんな家族を残して死んでいくことを諦めきれず、最初は代替療法をはじめ、いろいろな治療法を探していました。あるとき、病状が急に悪化して意識不明となり、2、3日くらいして目が覚めたのですが、そのとき彼はこう言ったのです。
「人生のうちで、今ほど幸せな時はありません!」
 私は最初、意味がわかりませんでした。まだ40才の若さで、仕事面でも家庭面でもこれからもっとも活躍されるであろうこの歳で、しかも家族を残してもうすぐ死んでしまう状態にあるというのに、「今が一番幸せ」とはどういうことなのか?
 理由を尋ねると、彼はこう答えました。
「今ほど、家族の愛、友人の愛、病院のスタッフの皆さんや、人々の愛を感じたことはなかったからです」
 その後、彼は治療法を探すことはやめて、まもなく安らかに息を引き取りました。
 私は彼の言葉を聞いて、そのときは、頭では「なるほど」と思いました。
 しかし、いま自分がウツ病となり、それに対してこのブログの読者をはじめ、友人や知人などから、たくさんの励ましの言葉をいただくようになりました。なかにはけっこう高価と思われる健康器具のようなものを送ってくださったり、「自分も時間給で働いている身ですが、どうしてもお金に困ったら連絡をください」とまで言ってくれた方、高額な国民健康保険の請求が来て役場に行ってもどうにもならなかったことについて「議員に頼めば何とかなるかもしれませんよ。何だったら私がかけあいましょうか?」といってくださった方・・・、このように、お会いしたことも本名さえも知らない読者の方から、これほど身に余るありがたい言葉を頂戴し、思わず涙が溢れてきました。また、励ましの言葉をくださらなくても、影ながら私の健康を祈ってくださっている方もいらっしゃるかと思います。そのような方にも心から御礼申し上げたいと思います。

 思えば、私のこれまでの55年の人生のなかで、今ほどあたたかい言葉をかけてもらえたこと、あたたかい支援をしてもらえたことはありませんでした。私は言葉では言い尽くせないほど、皆さんには感謝しています。もし私が死んだら、皆さんひとりひとりの守護霊となって恩返しがしたいとさえ思っています。
 私はこのような経験をこの地上人生において経験できたことを、とても幸運なことだと思っています。これもいわばウツのおかげであると言えるかと思います。私は今になって、あの男性患者さんの言葉が、頭ではなく、心というか、もっと深いレベルで理解できたように思います。人生で本当に大切なことは、病気が治るとか、お金持ちになるとか(もちろんそういうことも大切ではありますが)、もっと大切なことは「愛を知ること」ではないかと思うのです。
 私はこれまで数え切れないほど「神様、助けてください」と祈りましたが、いっこうに苦しみから解放されることがないので、神に対して不信感を抱くようになっていました。しかし、神の目から見れば、ウツが治ることが「救い」なのではなく、こうして人々のあたたかい心、愛を体験することこそが、本当の意味で「救い」ではないのかと思えるようになりました。人生において、愛し愛される体験をすることこそが、人間にとっての真の救いであり、幸福ではないのかと思うのです。

 実は、私は神に対する不信だけでなく、人間に対する不信にも陥りそうになっていました。表の顔と裏の顔の違い、偽善性といったことも目にし、人間というものに対して失望の気持ちが強くなっていきました。そういうことで、私のウツが重くなっていったひとつの原因となったことは確かだと思います。
 しかし、すばらしい人とも出会いました。その中のひとりは、まだ若く、謙虚でおとなしく目立たない感じの人でしたが、私はその人が秘めている霊性の高さをうすうす感じていました。私の推測は正しく、私が会社を辞めるときにウツに効く代替医療の薬と励ましの言葉をもらいました。そうしたあたたかい言葉をかけてくれたのは彼一人だけでした。また、会社を辞めてからも、私を心配して励ましの電話をくれました。こういう人こそが、本当に霊性が高い人だと私は思うのです。

 私のこれまでの人生を振り返るとき、一般の人と比べると、けっこう極端な体験をしてきたなと思います。あるときは「先生」などと呼ばれてVIPのように扱われたかと思うと、あるときは人を人とも思わないようなひどい状況のなかに身をおいて過酷で屈辱的な扱いを受けたことも数多くあります。尊敬に値するすばらしい人や、いわゆるセレブという方々と交流させていただいたかと思うと、(こういう言い方をしては何ですが)人間として最低最悪の腐りきった人と一緒に「同じ釜の飯」を食べたこともありました。聖者のような献身的で謙虚な人に会ったかと思うと、ドラマにでも出てくるような「金の亡者」にも会ったりしました。大企業から数億円をだました「一流の詐欺師」にも会ったことがあります。また、世の中から尊敬されている人の「裏の顔」を見て失望したことも少なからずあります。
 こうしたことは、非常に不愉快で辛いときもありましたが、今振り返れば、どれも貴重な「すばらしい」体験であったと思っています。たぶん、そういう極端な経験をするように、私の魂が計画していたのか、あるいは神様が経験させてくれたのだと思っています。
 今は、私にひどいことをした人を恨んではいません。まあ、思い出すと正直少し腹が立つ思いはしますが、恨んではいません。私も人を不愉快にさせたり傷つけたりしたこともあったと思いますので、そうしたことはお互いさまということで、許すことが大切だと思っています。地上世界には完全な人などいないのですから。しかし今回ウツになったことで、私は神と人間不信から解放されました。これも皆様のおかげです。
 霊性が高いか低いかは、すぐにわかります。どれほどスピリチュアルな知識があるとか、霊能力があるとかは関係ありません。真に霊性が高い人というのは、その愛と謙虚さがどれだけあるかで決まります。なぜなら、霊性とは結局は「愛」であり、愛があれば自然に謙虚になるからです。こういう人は、特別な使命を持った人は別として、たいていは目立ちません。なので、「人を押しのけてまで自分の利益を考える」人ほど成功しやすい今の社会構造では、いわゆる「平凡」な人が多いのです。ときには社会的に虐げられていたりします。「自分は霊性が高い」と思っているような人は、逆に霊性が低いと思って間違いありません。霊性が高い人は、自分を偉いとも、偉くないとも思っていないでしょう。偉いとか、偉くないとか、そういう比較や差別の意識を超えているからです。

 最後に、今現在の私のウツの状態ですが、全体としては本当に「薄皮を剥ぐような」感じではありますが、少しづつよくなっているような気がします。本などもだんだん長く集中して読めるようになってきました。しかし、無理がきかず、少し無理するとたちまち状態が悪化します。比較的夕方から夜は調子がいいのですが、朝から昼過ぎまでの気分は最悪で、ウツという病気の怖ろしさを身に染みて感じます。拷問のようです。医者からは、遠回しな言い方でしたが、私のウツは治らないと言われました。
 しかし、たとえ完治はしなくても、ウツで苦しみながらであっても、いつか社会に貢献できるような活動、世の中を少しでもよくしたり、人々に喜んでもらえるような活動がしたいと思っています。そうすることが、皆さんのあたたかいご支援に対する恩返しであると思っています。今は休ませていただいておりますが、将来はそうしたいという強い願望があります。
 もちろん、どうなるかはわかりません。すべて神様にゆだねたいと思います。万が一、そんな活動ができずに私の人生が終わってしまったら、そのときはどうかゆるしてください。

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聖人・覚者の抱える苦しみ

 私のウツの調子は、少しずつですが、快方に向かっているような気がします。今までは何もする気がなく、ただ横になってぐったりとしているだけでしたが、今では本やインターネットを読むことができるようになりました。といっても長時間はまだ無理で、すぐに疲れてしまい、その後は気分が落ち込みます。夕方から夜にかけては、「ウツは治ったのではないか」と思えるくらい調子がよかったりするときもあるのですが、朝起きたときからお昼過ぎまでの気分が最悪です。
 辛さに耐えるということは、いわば押してくる壁に対して必死でそれを押し返しているような感じで、とてもエネルギーがいります。何もせずじっと寝ているというだけでも、内面の苦しみに耐えるということには膨大なエネルギーが必要になるのです。
 私は正直、そんな状態を毎日毎日かれこれ3年くらい続けてきました。さすがに最近はもう疲れてきてしまいました。最初、その疲れはからだと心(脳)の疲れのような感じでしたが、最近の疲れは、何かずごく深い疲労感、いうなれば「魂の疲労感」といった感覚で、非常に根深く、生きることそのものが疲れてしまっている・・・といった感じになっています。たぶんこれは、脳の疲れというより、私が今までため込んできたトラウマ的なものが湧き上がっているような気がいたします。普通の人ならそれほど気にならない事柄であっても、私はそれに対して過敏に反応し、強い不安感や寂しさの気持ちが湧いてきていたたまれなくなります。これはおそらく、何らかの出来事によって過去の心のトラウマが連想され、それがよみがえってくるからではないかと思われます。
 たとえば今日も、奇妙な夢を見ました。私が中学生時代、初恋の女の子とバスの中で会う夢です。彼女とは同じ歳ですから、もう相当なおばさんになっているはずですが、夢に見た彼女は当時の少女のまま、可愛くて優しく、微笑んでくれました。私はとても幸せな気持ちになりましたが、その直後に目が覚めました。すると、彼女との苦い記憶がよみがえってきました。というのは、私は彼女のことが大好きだったのですが、勇気がないために「好きだ」と告白できず、そのまま卒業して別れてしまったのです。私はそのことが哀しく、残念で、その思いを数年くらい引きずりました(もっとも「好きだ」と告白したとしてもふられて結果的には哀しい思いはしていたでしょうが)。今までそんな40年も前のことなど思い出すこともなく過ごしてきたのに、今日の夢でその当時の苦しみがよみがえったのです。
 これだけでなく、ウツになると、ちょっとしたことでも悲観的になり、不安になり、悲しみと寂しさに襲われます。無意識的にそれと似たような過去のトラウマの経験が浮上してくるからであるように思われます。こうしたウツは治りにくいようです。
 他にも私は、「この人はすばらしい人に違いない」という人とたくさんの出会いを経験しましたが、しばらくすると、その人の裏の顔が見えて、つまり醜いところが見えて、その偽善性に失望するといったトラウマをずいぶん詰め込んできました。こういうことも、今の私のウツの原因なんだなあと考えています。そんなことがあるたびに、私は「人間嫌い」というより、「地上世界嫌い」になっていきました。人間は恨んではいません。なぜなら、人間は完全ではないし、欠点もあるし、間違いも犯すし、その点で私も人のことを責める資格はないからです。ただ、そのような不条理な「地上世界」を創造した「神」については、ちょっと文句を言ってやりたくなる気持ちは持っています(笑)。

 ところで、このような苦しみをなぜ味わわなければならないのか、以前はよく考えました。カルマの法則によれば、これだけ苦しい思いをするからには、過去によほどひどいことをしたに違いありません。しかし、少なくとも現世ではそんなにひどいことはしていないつもりなので、たぶん、過去生でひどいことをしたのかもしれません。しかし、過去生での記憶はないので、仮にひどいことをしたとしても、いったい何をどのように反省すればいいのかわかりません。そんなところが、「カルマの法則」で説明する限界というか、欠陥なのではないかと思っています。
 最近は、なぜこんなに苦しまなければならないのかという原因を探ることはやめました。いくら考えてもわかるものでもないし、そんなことを考えるエネルギーがなくなってしまったからです。今はただ、与えられた苦しみをじっと静かに受け入れるという、その姿勢で毎日を過ごしています。ある種の「無抵抗主義」です。

 では、聖人や覚者と呼ばれるような人は、苦しむことはないのでしょうか?
 彼らほど高い霊性を持っているならば、カルマ的な因果関係を超えているはずです。けれども、過去の聖人・覚者を調べると、覚醒したはずの彼らも、それなりに苦しみを背負って生きていたことが多いことがわかります。
 たとえば、古代ギリシアの哲人プロティノスは、彼の著述から覚醒したか、少なくとも覚醒に近い境地に達していたと思われますが、晩年は原因不明の奇病に襲われて苦しみながら死んでいきました。
 マザーテレサについては、このブログでも過去に取り上げたように、内面の暗黒と神への不信に苦しみ続けました。私はそれなりの個人的な理由を述べさせていただきましたが、それでも彼女ほど人類に献身している人に、そんな苦しみを与えなくてもいいではないかという気持ちは残ります。
 クリシュナムルティも覚者として知られていますが、彼は「プロセス」と呼ばれる苦しみをずっと味わい続けました。ほとんど毎日のように、ある時間がくると、1時間くらいだったかと思いますが、非常な苦しみが襲ってくるのです。彼の側近だった人は、クリシュナムルティの自室から苦しみのうめき声が響いてくるのを何回も聴いています(一節によれば、この苦しみはクンダリニーが上昇して不浄なものを浄化していることによるものといわれています)。
 釈迦でさえも、解脱を果たした後は順風満帆だったわけではありません。解脱をしたということは、カルマの温床を完全に根絶やしにしたことになります。ということは、過去の悪しきカルマが原因による悪い運命は起きないことになります。しかし、彼のことを嫉妬する僧侶の団体から嫌がらせを受けたり、言い伝えによれば、そのために軽い怪我もしていたようです。そして死ぬときは、毒キノコが入った料理を食べて(肉体的には)苦しんで死んでいきました。そのような原因はどこから来たのでしょうか? 何しろ覚者(仏陀)というのは過去のカルマの温床を完全に断ちきった人であるのですから。
 イエス・キリストに至っては、今更いうまでもありませんが、「自分も救えないくせに人類を救うなんて笑わせるな!」といった暴言を吐かれながら、十字架を背負って屈辱と苦痛に耐えてゴルゴダの丘に登り、ついには十字架にはりつけにされてしまいました。この点を「カルマの法則」から解釈したならば、これほどの苦しみを味わうということは、イエスは過去に相当悪いことをしたことになってしまいます。しかし、どうもそのようには考えられません(ちなみに、後のキリスト教会は、イエスは人類の罪を自ら引き受けて十字架にはりつけにされたと解釈するようになりました。だからイエスを信じる者だけが罪から解放されて天国に行けるという教義が生まれたのですが、私はその考えには異論があります。イエス自身もそんなことは言っていません。ただこの問題を論じると長くなるので、いつか別の機会でお話したいと思っています)。
 一方、日本人でまだ比較的若く、本も出していて「覚者」と見なされていた人がいました。しかしその人は結局、ガス自殺をしてしまいました。動機はわかりませんが、小さいときから地上で生きることに嫌悪感を抱いていたようです。覚者(もし本当に彼が覚者だとしたならばの話ですが)も自殺をするのでしょうか? スピリチュアルな考え方によれば、自殺した人は長い間暗い世界に幽閉されて苦しむと言われていますが、覚者もそうなるのでしょうか? それとも、覚者は別なのでしょうか? また、これは余談かもしれませんが、「ガス自殺」という、一歩間違えれば大爆発を起こして他の人を負傷させる危ない死に方を選択したという点も、私は気になります。覚者になってしまえば、そうしたことはどうでもよくなってしまうのでしょうか?

 いずれにしろ、聖人や覚者と呼ばれるような人でも、この地上に生きている間は、それぞれに苦しみがつきまとっていることがわかります。もちろん、言うまでもないことですが、私は聖人でも覚者でもないので、決して彼らと比較する意味で紹介したわけではありません。ただ私が言いたいのは、聖人であろうと覚者であろうと、まして凡人であろうと、カルマの法則とかそのようなことに関係なく、苦しみが訪れるときは訪れる、ということを言いたかったのです。実際、最初の方で紹介したプロティノスは、「苦しみは人間には知り得ない理由により、どんな人にも訪れる。たとえいくら偉い人であろうとそうでなかろうと関係なく」といった意味のことを言っています。釈迦はもっと単刀直入に「人生は苦なり」と言いました。
 ユダヤ教はこうした問題についてはかなり深く論議されていて、しかも正直です。ある賢者が天使を見かけたとき、その賢者は天使に向かってこう叫んだというエピソードが残されています。「君たち天国にいる者はいいよな(天使は地上で生きた経験を持っていない霊的存在とされている)。俺たち地上で生きる者の苦しみなんて、君たちには決してわからないだろうよ!」

 人間の本性は苦しいときに現れる。どんなに苦しくても人間らしく生きられるか、どんなに苦しくても他者への愛を忘れることはないか、周囲がいかに不条理で腐っていても、自分だけは正義を貫き、まっとうな生き方ができるかどうか、苦しみから霊性を高めていけるか、死後、霊的世界で大きな仕事ができる人間であるかどうか・・・、こういったことが試されているに違いない。
 その試され方は、しばしば生半可ではない。極限までしごかれることもある。それだけ、霊界を含めたこの世界というものは甘くはないということだ。希望を失わず、自分を信じ神を信じ、何度くじけようと最後まで粘り強くあきらめなかった人が、テストに合格し、道を開いていく。全力を尽くすことなく、くだらないことで人生という貴重で限られた時間を無駄に過ごし、自分を成長させることに真剣に向き合わなかった人、人生を本気で真剣に生きなかった人は、死後、人生は失敗だったことがわかり後悔する。

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