心の治癒と魂の覚醒

        

後悔のない生き方をするために

 人生というものは、さまざまな苦しみがあり、また誘惑がある。苦しみに負けることもあり、誘惑に負けることもある。「負ける」という意味は、言い換えれば「後悔する」ということだ。後悔とは要するに「あれをしなければよかった(すればよかった)」ということである。
 だれも後悔する人生を送りたいとは思わないであろう。したがって、人生で一番大切なことは、「後悔しない人生を送る」ことであると言ってもいいと思う。
 ただ、まったく後悔しない人生を送ることは現実として不可能であるから、「なるべく後悔しない」と表現した方がいいかもしれない。
 では、どうしたら、なるべく後悔しない人生を送ることができるだろうか?
 それには、「何が後悔すること」か、あるいは「何が後悔しないこと」かを、まえもって明らかにしておくことだ。そして、それを肝に銘じて生きることである。そうすれば、いざとなったとき、迷うこともブレることもなく、後悔しない選択(行動)をして、後悔しない人生を送れる可能性が高くなるはずだ。
 では、いったい何が後悔すること(あるいは、しないこと)であろうか?
 それは、人によってさまざまであろう。
 また、あるときは後悔することと思っても、後になって後悔しないことだと思うこともあれば、逆に、後悔しないと思っても、後になって後悔することだと思うこともある。
 したがって、何が後悔すること(あるいは、しないこと)かを決めるときには、慎重にならなければならない。また、必要に応じて修正していくことも大切になってくる。
 ここでは、あなたがそれを決めるときの参考にしていただくための、ひとつの問いを投げかけてみたい。それはとても根本的なことなので、この点をよくおさえておけば、おそらく人生で、そう大きな後悔というものはなくなるのではないかと思っている。
 その問いとはこうだ。
 「ここに二つの生き方がある。ひとつは、傲慢で利己的でずる賢く、自分の幸せのためなら人や世の中などどうでもよい、場合によっては害を及ぼすようなことも平気でする。要するに、恵まれているが低劣な人間として生きる人生だ。もうひとつは、世のため人のためになり、たとえそれが認められず、そればかりか、そのために苦労や困難を味わうこともあるような人生。要するに、恵まれないが高潔な人間として生きる人生である。そのどちらかを選ばなければならないとしたら、あなたはどちらを選ぶ方が後悔しないか?」
 もちろん、これは究極の選択であって、現実にはこれほど極端な選択を迫られることはないだろうし、これほど極端な生き方をする人も少ないだろう。ほとんどの人は、多少は世のため人のためになるが、多少は害をもたらすこともし、低劣でも高潔でもない人間として生きることになるだろう。
 けれども、人生において尋常ではない事態(たとえば災害や運命的打撃、抗しがたい誘惑といったこと)に遭遇したとき、まえもってこの「究極の選択」を決めていた人は、後悔のない生き方ができるに違いない。もちろん、軽い気持ちで決めていたのではなく、心の底から、しっかりと、強く、覚悟をもって決断していた場合だ。さもなければ、いざというときに迷ってしまい、結局、どっちつかずの選択(行動)をして後悔することになる。
 この決断さえしっかりとできたなら、おそらく、後悔するようなことはない。
 では、いったいどちらの選択が後悔しないだろうか?
 それは、誰にも決められない。決めるのは自分だけだ。ただ、決めた以上は、それを貫くことだ。もし前者の人生を選択したのなら、人を踏み倒しても自分の利益や幸せを追い求めることだ。もし後者の人生を選択したのなら、自分の利益や幸せをあとにしても、人や世の中のために生きることだ。
 というより、断固として覚悟をもって決断したのであれば、自然とそうするだろう。そのとき迷うのは、しっかりと決断していなかった証拠である。
 とはいえ、そこまでしっかりと決断することは、なかなか難しい。やはりどうしても、いざというときは迷いが出てしまう。
 けれども、むかしの侍はその決断ができていた。侍(武士)は、誇りを重んじて、恥じる生き方をしなければならないときには、切腹をして死ぬ覚悟を持っていた。そのために、戦のためと自害のための二本の刀を腰にさしていた。
 私は、このような侍、いわゆる「武士道」の生き方を全面的に肯定するつもりはないにしても、学ぶべきことは多いと思っている。死を覚悟してまで決意したのであれば、それはいかなる事態に遭遇しても揺るぎないものとなるだろう。
 あえて私個人のことを言えば、正直、ここまで強い決意を持てる自信はないが、どちらの生き方が後悔しないかについては、その解答は明らかだと思っている。
 それは後者だ。なぜなら、どんなに人格を低劣にしてまで自分の利益や幸せを追求したとしても、それは得られないからだ。一時的には得られても、最終的には幸せは得られない。どこまでもどこまでも飽くなき追求はやまず、渇きが癒されることはない。それは地上の物質的な「幸せ」というものは、本質的に依存性のある快楽だからである。すなわち、基本的には麻薬やアルコールと同じレベルなのだ。
 一方、後者のように、いくら世のため人のために生きたとしても、幸せになれるとは限らない。むしろ、確率的に言えば、苦労や困難が多くなるであろう。
 つまり、どちらを選択したとしても、この地上世界では幸せは得られないのである。
 ならば、どうせ幸せを得られないのなら、高潔に生きた方が少しはマシではないだろうか?
 たとえ、高潔に生きたとしても、誰からも称賛されず、何の得もなかったとしても、高潔な人格で生きるならば、少なくとも低劣な人格で生きるよりも、自分を愛せるようになるだろうし、そんな自分に誇りを持てるようになるに違いない(これはナルシシズムや傲慢さではない。ナルシシズムは利己的であり、傲慢さは他者に対してひけらかすことによって成り立つが、真の自己愛は利己的ではなく、真の誇りは他者からの称賛を必要としないからである)。
 もしこの地上に幸せというものが存在するとしたら、高潔な人格を貫いて生きることによって得られる自分自身に対する愛と誇り、これではないだろうか。
 そして、そんな愛と誇りを得られる人生であったならば、その人生はおそらく、後悔することはないであろう。



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効率的に「自分の頭で考える」ためのヒント②

 何かを考えるということは、考えることによって何かを解決したいからであろう。この「解決したい」という欲求の次に私たちの頭が行うプロセスは、「どうすればいいか?」と考えることである。つまり、問題や課題を解決するための方法を考えようとする。人類をはじめ、ある程度高等な動物たちは、この「どうすればいいか?」という方法を考えることによって進歩してきたといえるだろう。
 しかしながら、私たちは意外なほど「どうすればいいのか?」と考えていない。たとえ考えてもすぐにやめてしまったりする。
 これは、国民性や伝統、これまでの生育環境などが原因と思われるが、問題や困難や不愉快な状況に遭遇すると「もうだめだ」とあきらめてしまい、我慢してそれを受け入れるという習性ができあがっているのだ。「困難に遭遇したら思考停止する」という、ある種のプログラムが脳にインプットされていると表現してもいいかもしれない。そのために私たちの大半は、不本意な境遇や運命に甘んじて生きてしまっている。
 そこで、自分の頭で考えるためには、解決すべき何らかの問題や困難や不愉快な出来事に遭遇したら、「では、どうすればいいか?」と考える習性を身につけることが重要になってくる。そうして粘り強く、解決のための方法を考えるのだ。
 このようにして「どうすればいいか?」とひたすら考え続けることにより、脳はフル回転するようになり、ついには問題解決のための方法を考え出してしまうものである。たとえ完全には解決できないとしても、現状より改善する方法くらいは考え出せてしまう。

 このことを、「あたりまえではないか」と思わないで欲しい。ためしに、注意深く自分の思考を観察してみて欲しい。そうすれば、問題や困難や不愉快な出来事に遭遇したとき、「では、どうすればいいか?」と真剣に考えることをせず、ほとんど無意識的にそれを我慢して受け入れていることが多いことに気づくはずである。その結果、いつまでもかわりばえしない生活、不本意な生活、不便な生活、不愉快な生活を続けることになってしまう。
 繰り返すが、その原因は「困難に遭遇したら思考停止する(考えるのをやめる」とプログラムされているからだ。それが習性となっているのである。
 そこで、こうした習性(プログラム)を書き換えなければならない。
 習性を変えるのは簡単ではない。意識的に粘り強く挑んでいく必要がある。そのために、次の言葉を、頭のなかで念仏のように常に唱えているとよい。
「では、いったいどうすればいいか?」
 そうすれば、何か解決すべき出来事や状況に遭遇したとき、反射的にこの言葉が浮かんでくる。そして、解決のための方法をひたすら考え抜いていくのだ。どんな小さな不愉快なことも見逃してはならない。不愉快なことは、ことごとく解決していく姿勢が大切だ。
「では、どうすればいいか? では、どうすればいいか? では、どうすればいいか?・・・」
 もちろん、すぐに解決策が見つかるとは限らない。しかしあきらめてはいけない。忍耐強く、考えて考えて考えて、考え抜くのだ。
 そうすると、さらに解決しなければならないことが見つかる場合も少なくない。そのため「やっぱり無理だ」と思ってしまうかもしれない。だが、それでも喰らいついていくのだ。「では、どうすればいいか?」と繰り返しながら。
 人生というものは、こうしてひたすら「では、どうすればいいか?」と、どこまでもどこまでも考え抜き、そして行動していった者が、ついには勝つのだと思う。才能だとか、恵まれた境遇といったものは、勝利を手にするにおいては二次的な要素にすぎない。なによりも忍耐強く自分の頭で考え、行動していった者が最後には勝つのだ。
-続く-

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効率的に「自分の頭で考える」ためのヒント①

 当然のことであるが、考えるという行為には目的がある。ときと場合によっては、その目的が弱くあいまいであったり、強く明確であったりするし、意識的な場合もあれば、無意識的な場合もある。しかしいずれにしろ、私たちは何らかの目的があって考えるという行為をする。たとえば、何か問題や困ったことがあるとか、叶えたい夢があるといった場合、どうしたら問題や困ったことを解決できるか、どうすれば夢を叶えることができるか、と考えるのだ。
 さて、効率的に自分の頭で考えるには、まず何よりも、その目的を明確にしなければならない。しかも、その目的を達成しようという強い意志や情熱がそこに伴っていることが大切である。
 私たちの脳は、そうした目的を持ったとき、みちがえるように活性化し、フル回転するようになる。
 頭の良し悪しの違いは、遺伝や生育環境といった要素が関係していることは確かだが、それ以上に決定的なことは、「明確で強い目的を持っているかどうか」によるところが大きい。
 いわゆる一流大学を出ても、社会では頭のよくない無能な人もいれば、小学校しか出ていなくても、社会では頭がよく有能な人もいる。その違いは強く明確な目的を持っているかどうかで大部分は決まると私は考えている(禅の道元なども似たようなことを言っていた)。前者は、「一流大学に合格する」という強く明確な目的を持って努力(勉強)したからそうなったのだが、合格してその目的が果たされ、次なる目的を持たないで過ごしたために、頭が悪く無能になってしまったと考えられる(もちろんそれだけが要因のすべてではないだろうが)。
 すでに述べたように、私たちの脳は、強く明確な目的を持つと、その目的を実現するために、フル回転する。それは潜在意識の層にまで及ぶ。そのため、直感的にすばらしいアイデアが閃いたりといったこともよく起こるようになる。また、一見すると不思議な現象とも思えるようなことが起きたりする。たとえば、たまたま読んだ本のなかに、その目的を達成するための情報が書いてあったりとか、その目的を達成するための協力者に偶然出会うといったことだ。
 こうして、ある目的を達成するために、脳は非常に活発に働くようになり、その目的に関することにおいては、非常に冴えた頭になる。いわゆる天才と呼ばれる人たちは、遺伝的な要素に加えて、こうして強く明確な目的を持って粘り強く努力を続けた人たちであると思われる。
 もっとも、そうした天才と呼ばれる人たちは、それ以外のことでは案外平凡であったり、「ぬけて」いたりすることがある。自分の専門分野に関しては驚くほど頭がいいのに、それ以外の、たとえば何かを買っておつりの計算がうまくできないとか、経済観念が著しく欠如しているとか、服装のセンスがないとか、単純な詐欺にだまされたりとか、怪しい宗教にはまったりといったことがあったりする。
 そうしたことは、社会生活で深刻なトラブルさえ起こさないのであれば、問題はないだろう。この世に万能な人間などいないのだから。ただ、自分の専門分野とは違う領域に置かれてしまった場合は、けっこう辛い思いをするかもしれない。
 それでも、一般的に言えば、ひとつの領域において高度な頭のよさを身につけた場合は、それ以外の分野でも、ある程度の応用は効くことも多い。それはおそらく、「興味があるかどうか」によるのだと思う。お笑いタレントでありながら文学の才能を発揮する人もいるし、学者でありながら起業や投資で成功しお金をもうける人もいる。これらは興味があるかどうかだろう。つまり、ある分野で高度な脳力を発揮できた人は、興味さえあれば、他の分野でも脳力を発揮できる可能性が高いということだ。

 このように、効率的に自分の頭で考えられるようになるには、まず何よりも目的を持つことが土台となる。それも強くて明確な目的でなければならない。こうした目的を持たなければ、他にいかなる手段をもってしても、効率的に自分の頭で考えられるようにはならないだろう。
 さて、この目的には4つの種類というか、段階がある。それは「究極の目的」、「長期的な目的」、「中期的な目的」、「短期的な目的」だ。この4つの目的を同時に頭の中に入れておく必要があるのだ。
 最初の「究極的な目的」とは、いってみれば「人生の目的」、「人生のテーマ」とでも言うものである。「自分はこの人生で何をやり遂げたいのか」ということだ。このブログを読んでいる人の多くは「覚醒すること」であったり「地球を卒業すること」、「霊性を高めること」ではないかと思うが、「世のため人のために貢献すること」といった目的を持つ人もいるかもしれない。
 この究極的な目的は、大きな心境の変化がない限り、基本的には変わらない。それに対して、長期、中期、、短期の目的は、状況や段階に応じて変わる。仮に、「世のため人のために貢献する」という究極の目的を持った場合、それを達成させるには何をするべきかを考えて、それを長期の目的にする。たとえば、「医者になって」、世のため人のために貢献するということであれば、長期的な目的は「医者になること」となるだろう。もし何らかの事情で医者になることができなくなった場合は、何かほかの手段で「世のため人のために貢献する」ということになり、その手段が新たな長期の目的に変わる。
 そして、その長期的な目的を達成するには何をするべきか考えて、それを中期の目的にする。今の例でいえば、「大学の医学部に合格する」となるだろう。そして、医学部の医学部に合格したら、次には「国家試験に合格する」となり、次には「インターンになる」といったように変わっていくだろう。
 そして、医学部に合格するという中期的な目的を達成するには何をするべきか考えて、それを短期の目的にする。今の例でいえば、「予備校の入学試験に合格する」となるかもしれないし、「全国模擬テストで偏差値65以上をとる」といったようになるかもしれない。
 ここで大切なことは、常に究極の目的、長期、中期、短期の目的を同時に意識することだ。なぜなら、たとえば短期の目的だけに集中していると、視野が狭くなり、究極の目的からそれてしまうことがあるからだ。もし医学部に入るために「予備校の入学試験に合格する」ということだけしか頭にないと、勉強ばかりして、そのために勉強ははかどるかもしれないが、医者になるには体力や精神力、高い倫理性なども求められる。そうしたものは勉強だけでは身に付かない。したがって、常に4つの目的を同時に頭に入れておかなければ方向がそれてしまうのだ。4つの目的を同時に意識していれば、勉強ばかりやっているといった偏った生活をすることなく、体を鍛えることもするだろうし、精神力や倫理性を養うために、たとえば幅広い交際をしたり、ボランティア活動といったこともするようになるかもしれない。
 また、ときには無駄と思われることも自分にゆるすという、ゆとりある姿勢でいることも大切だ。あまりがんじがらめに目的やそのためのスケジュールに縛られるべきではない。言い換えれば、極端に効率性や合理性を追求しすぎるのはよくない。というのも、潜在意識は、一見すると無駄に思えるような行為や体験であっても、後になって、実はそれが目的を達成するために役立つものであったと気づくことが少なくないからである。脳というものは、しばしば非合理的な行動や体験に私たちを導くことがある。だが、それは「非合理的」に思われるだけであって、実は「合理的」である場合が少なくないのだ。だから、一見すると「無駄なこと」あるいは「失敗と感じること」を体験したとしても、落ち込むことは不要である。しっかりと目的を持ってさえいれば、そういうこともまた、目的達成のためのステップであるかもしれないのだ。
 いずれにしろ、あくまでもめざすところは、「究極の目的」である。長期、中期、短期の目的は、そのための手段でしかない。あたかも、船が羅針盤を使ってめざす陸地に向けて進みながらも、その過程では、岩礁や急流をさけて右や左に舵をとるようなものである。
 このように、4つの目的を同時に抱くことにより、脳は非常によく働くようになり、無駄がなくなり、効率的に自分の頭で考えることができるようになる。
 あなたは、究極の目的、長期的な目的、中期的な目的、短期的な目的は何かと尋ねられたら、すぐに答えられるだろうか?
 -続く-

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自分の頭で考える

 私のうつの方は、新薬エビリファイの服用をきっかけに、少しずつ回復に向けて進んでいる。まず、精神安定薬の減薬であるが、一日1錠以内にほぼおさまっている。その使用の大半は睡眠薬代わりで、かつてのように落ち込みや不安を解消するという目的にはあまり使われていない。いわゆる離脱反応のようなものもほとんどなく、何となく気休め程度に服用しているところがあり、もう飲まなくても平気ではないかと感じている。一方、何かに長い間集中して活動することはまだできないが、それでも少しずつその時間は伸びている。不眠の問題はまだあるが、知人から龍眼肉(りゅうがんろう)という漢方薬が不眠に効果があると勧められ、これから試してみるところである。
 このように、症状的にはよい状態に向かっているのであるが、気になるのは、この調子よさがエビリファイによって維持されているのかどうかということだ。つまり、もしエビリファイの服用を止めたら、もとに戻るというのであれば、本当に回復しているとはいえない。
 そこで、今後の作戦としては、とりあえずエビリファイの服用を続けて十分にうつ症状が改善された後に、今度はエビリファイを少しずつやめていくことにした。
 以上が私の現状で、うつに関して読者の皆様の参考にしていただけることはあまりない。そこで、今後、そのような変化があったときにのみ紹介することにして、このところずっと私の闘病生活ばかりを書いてきたこともあり、少し違う話題について書いていきたいと思う。
 今回のうつの体験から、私はいろいろなことを学んだ。とりわけ、人生において、生きるうえで、もっとも大切なものは何かについて、多くの発見があった。それをひとつひとつ書いていきたいと思う。

 さて、最初に何よりも一番、皆さんに訴えたいことはこれである。
 「自分の頭で考える」。
 うつになり始めたとき、私は専門家に任せていれば治してもらえると、何となく思っていた。専門家というのは高度な知識と技術を身につけており、権威があり、われわれ素人があれこれ口をはさむ余地はないのだと。
 だが、それは間違いだった。これまで3人の精神科医のもとに行ったが、どの先生も述べていることが微妙に違い、投薬のやり方に関してはかなり違っていた。精神科医の一人は、他の精神科医について「あの先生はまったくデタラメな薬の処方をしている。それで悪化した患者さんが自分のもとに来ている」などと批判しているくらいなのだ。
 ネットなどでいろいろ調べても、精神科領域は、かなりデタラメなことが行われているのが現状のようだ。もちろん、すべての医師がそうだとは思わないが、もともと「精神」という、目に見えない、あいまいなものを対象にしている世界であるから、そこから導き出される理論や治療法も、どうしてもあいまいなものになってしまうのだろう。たとえば、抗鬱薬がなぜ効くのか、そのメカニズムは実証されていないということをご存じだっただろうか(仮説があるだけ)。しかも、基本的には症状を抑えることが目的の「対症療法」に過ぎず、(純粋に脳の生理異常が原因でない限り)本当にうつを治すものではないのだ。風邪薬と同じである(風邪薬は風邪を治す薬ではなく、症状を抑えるだけ)。
 精神科領域に限らず、基本的に現代医学は対症療法が中心である。私はそうした対症療法を必ずしも否定するものではないが、本当の治療(根本治療)ではないことは確かであり、本当に病気を治そうと思ったら、根本治療をめざさなければならない。
 そのためには、病気となった根本原因を知り、その原因にアプローチすることが原則であろう。
 しかし、基本的に対症療法に主眼をおく現代医学の医師は、そこまでやってはくれない。そこまでの知識を持たない医師も多いようだし、持っていたとしても、そのようなアプローチは手間暇がかかり、多くの患者が押し寄せてくる現状では、物理的に不可能である。また、そんなことをしていたらお金にならない。さらに患者にも問題がある。患者の多くは根本的な原因をさぐってそこから治していくといっためんどうなことをするよりも、「とにかく早くこの苦痛を何とかして欲しい」と願う。それはあながち無理もないことではあるが、それではなかなか治らない。たとえば、喫煙が原因となっている病気に対して「たばこはやめたくない。でも病気は治したい」というのでは、病気が治るわけがない。
 そういうわけで、私は自分のうつを治すには、自主的に自分の頭で考え、自主的に計画を練って行動にうつしていかなければダメだとわかった。そして、何とかここまでこぎつけることができた。医師という「権威」を盲信し、ただ服従している姿勢では、病気はなかなか治らない。もちろん、権威者の意見に耳を傾けることは大切である。だが、盲従はいけない。必ず自分の頭で考えなければいけない。自分の頭で考え、自分の判断で行動していかなければならない。

 病気治療に限らず、人生のあらゆることも、「自分の頭で考える」ということが大切だ。国(政治家)がこう言っているから、権威がある人がこう言っているから、新聞やテレビでこう報道されているから、たくさんの人がこう信じているから、伝統ある宗教がこう説いているから、社会の常識がこうだから・・・、こんな理由で盲信してはいけない。政治家も、権威があり専門家とされる人も、間違ったことを言うことはいくらでもあるし、新聞やテレビなどは基本的に営利目的なので、間違った情報や偏った情報を流すことは日常茶飯事であり、たくさんの人が信じていても、伝統ある宗教が説いていたとしても、間違っていることもたくさんあり、社会の常識なども当てにならない。
 だからといって、それらを頭から否定するべきだと言っているのではなく、まず自分の頭で一生懸命に考えて、それから、それを受け入れるか受け入れないかを決めるべきだと思うのだ(もちろん、このことは私のブログにも当てはまる。皆さんは私のブログに書かれていることを頭から信じてはいけない。だれの意見も頭から信じたり、頭から否定してはいけない)。
 とにかく、どんなことも、まずは自分の頭で考えるのだ。納得がいくまで、忍耐強く考え抜く習慣を養うことだ。

 とはいえ、それは口でいうほど簡単なことではない。
 まず、的確な判断をするには正しい知識を入手しなければならず、そのためには、優良な情報を入手しなければならない。
 幸い、現代はインターネットという、情報を入手するには非常に便利なツールがある。けれども、その情報は玉石混淆であり、間違った情報も少なくなく、膨大な量の情報のなかから、真に正しく優良な情報だけを選ばなければならない。それはかなり難しい。どうしても「治したい」という欲があり、欲があると、その欲をくすぐるような言葉にだまされやすくなる。たとえば「努力もせず簡単に病気が治ります」といった宣伝文句に、ついだまされてしまったりする。
 だが、それでもなお、私は「自分で考える」ことを勧めたい。権威にも、欲望にもとらわれることなく、ひたすらどこまでも考えて考えて考え抜きながら、自己責任において、自分の歩む道を決めていくべきなのだ。
 最初は、そのような生き方をすれば、いろいろ失敗もすれば、だまされたりすることもあるだろうが、そうした痛い経験を通してこそ、真に血肉となる教訓を学ぶことができ、その結果として、しだいに賢くなっていき、だんだんと自分の考え方や判断力が磨かれてきて、やがては正しい選択と行動ができるようになっていく。これは人間として成長してきたことの証であり、霊性という観点からも、進化向上してきた証であると思う。

 いわゆる「権威者」や「支配者」にとって、各自が「自分の頭で考える」ことほど怖れるものはない。なぜなら、各自が自分の頭で考え行動するようになると、自分の立場が脅かされるからである。そのため、過去の歴史を読めばわかるように、権威者や支配者と呼ばれる人々や組織や国家は、一般人(彼らから言わせれば服従者)が自分の頭で考えないようにするために、あらゆる手段をとってきたことがわかる。たとえば戦時中など、戦争反対を叫ぶ者は「非国民」というレッテルを貼って迫害してきたし、戦争に負けた国は、勝った国から国民が「自分の頭で考えない」という洗脳的政策を施してきた(日本はその犠牲者だ)。
 また宗教団体なども、信者が自分の頭で考えないように暗に強制しているし、宗教的な色合いが強い企業などもそうだ。さもなければ組織としてまとめることはできず、自分の地位が危なくなるからだ。最たるものはテロリストで、自分の頭で考えようとする人間は、同士であろうとそうでなかろうと抹殺してしまう。独裁国家は拷問や死刑にし、企業の場合は解雇や左遷に追い込んでいく。
 だが、そのようなことをしている限り、世の中はよくならない。平和はいつまでたってもやってこない。人類の進歩は妨げられる一方だ。私たちは、キリスト教界から迫害されてもなお「それでも地球は動く」とつぶやいたガリレオを、また、「見えない服」を着て街を歩いている王様に向かって、ただひとり「王様は裸だ!」と叫んだ子供を見習わなければならない。

 次回は、なるべく効率的に「自分の頭で考える」ためのヒントを紹介してみたい。

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静寂

 現代人は常に何かに取り憑かれている。仕事に取り憑かれ、遅くまで残業して疲れきって帰宅し、食べて寝るだけである。そんな生活を毎日毎日繰り返している人がいる。家事や子育てに追われる人もいる。電車に乗れば、スマホのゲームに取り憑かれている人をたくさん見かけるようになった。
 このように、常に五感を通して何らかの刺激を与え続けている。まるで、そうしていなければいられないかのように。
 けれども、そのような外的刺激に反応して行動し続けることは、人間が本来的に持っている人格(これを魂と呼ぶことにしよう)ではなく、これまでの環境で人工的に作られた偽りの自己の人格(これをエゴと呼ぶことにしよう)で生きていることになる。
 エゴはある種のロボットであり、機械的な刺激に対してただ反応するだけである。スマホに夢中になることはそれに拍車をかけるものではないかと思われるが、とにかく現代人の多くがこういう生活を送っている。
 だが、これでは本当に生きているとはいえない。
 自分を見つめる静寂な時間をもたなければ。
 これは想像だが、スマホや携帯はもちろん、インターネットもテレビもないおおむかしの時代では、昼間の仕事が終わり、夜の静寂のなか、庵を囲んで家族と談話したり、静かに自分を振り返っていたのではないだろうか。
 そうした静寂の中でこそ、魂というものは目覚めていき、本当に自分が求めているもの、欲している人生といったものがわかってくるのではないだろうか。静寂のうちに、沈思黙考、内省、瞑想、あるいは哲学や自己啓発的な本をじっくりと読んだりすることは、魂にとっては栄養ではないだろうか。
 人によっては難しいのかもしれないが、なるべく誰にも邪魔されないひとり静寂の時間を持つようにしよう。そして、「自分は本当にこれでいいのか?」「今の生活は自分が本当に望んでいたことなのか?」「真に価値ある生き方とはどういうものなのか?」といったことを考えてみるとよい。
 そうすればおそらく、多くの人が、今まで多くの時間を無駄に費やしてきたことがわかるに違いない(その無駄な時間も広い視野で見れば何らかの教訓を学ぶという意味において無駄ではなかったのかもしれないが)。本当に、魂が望むような人生を生きてこなかったことに、唖然とするかもしれない。そうしたら、人生の舵を大きく変えるきっかけとなるだろう。
 そのようなことに気づくことができるときというのは、静寂のときだけである。
 静寂のときは、決して退屈なときでもなければ無為なときでもない。そう思うのは刺激の中毒にさらされて何かに追われるように生きているからだ。
 静寂のときは大切である。静寂のときは必要である。

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