心の治癒と魂の覚醒

        

師匠や教団に入信することについて①

 今日、多くの人が「覚者」や「霊的教師」と名乗り、教団を組織して大々的な活動をしていたり、あるいは比較的こじんまりとした形で弟子や信者を指導したり講演をしたりしている。この文章を読んでいるあなたも、そうした指導者や教団に属して指導を受けているかもしれないし、あるいは、気になる指導者や教団があって入信しようかどうか迷っているかもしれない。実際、「この人に師事しようかどうか、この教団に入ろうかどうか、迷っているのですが、斉藤さんはどう思われますか?」と尋ねられることもある。
 今回は、この「師匠や教団に入信すること」について、私の見解を述べてみたいと思う。

 ここで問題となるのは、果たしてその指導者が本物かどうか、その教団が真の教えを説いているかどうか、ということであろう。言うまでもないが、なかには明らかに怪しいと思われるものもあり、悪質で身の破滅につながりかねない教団もあるだろう。その最たるものがオウム真理教であったわけだが、あそこまで凶悪でなくても、大金をまきあげられたとか、心にトラウマを負ったといった被害などは、しばしば耳にする。
 奇妙なことだが、このようにだれが見てもおかしく、詐欺であることが明白であるのに、そういう指導者や教団にだまされる人が世の中には必ずいるということだ。これはおそらく、ある一定の割合で、異常なものに惹きつけられる病的な精神傾向を持った人がいることによるものと思われる。
 それはともかく、たいていの場合は、本物であるかそうでないか、とても微妙だ。そのために迷ってしまう。
 たとえば、教祖の書いた本にはいいことが書いてある。「人を愛しなさい。善い行いをしなさい」といったように。そして、「私は覚者である、キリストの生まれ変わりである、救世主である・・・」といったことを言う。
 立派なことを語るくらいだから、教祖は本当に覚者であり、キリストの生まれ変わりであり、救世主かもしれないと思われてくる。最初は多少、半信半疑かもしれないが、一度入信して繰り返し教えを耳にするうち、いよいよこれは本物に間違いないと思われてくる。
 私も若い頃は、いろいろな宗教を遍歴した。仏教、キリスト教、ユダヤ教、ジャイナ教、ヨーガ、神道、神智学、心霊学、いくつかの新興宗教団体に属したこともあった。
 そして面白いことに、ある教えを集中的に学んでいるときは、その教えこそ本物に違いないと思われたということだ。仏教を学んでいるときは仏教こそ最高の教えだと思われたし、キリスト教を学んでいるときはキリスト教こそ最高の教えだと思われた。新興宗教に関しても、やはりそこに属していたときは、「この教祖、この教団こそ本物で最高だ」と思われた。
 しかし、このようにいろいろな教えをかじって時間が経過すると(言い換えれば、頭が冷めると)、かつては「これこそ本物で最高の教えだ」と思っていたものが、実はそうではなく、欠点や弱点や汚点や問題点もあるということに気づくようになった。
 今の私は、世の中に完全無欠の教えなど存在しないと考えており、完全な指導者もいないと考えている。仮に本当にその人が覚者であり、あるいはキリストの生まれ変わりであり、あるいは救世主であるとしても、この不完全な地上世界に存在している以上、完全ではないと思っている。
 ところが、ある特定の教えにすっかり埋没している教団関係者は、かつての私のように「この教えこそ本物で最高だ」と思い込んでいる。これは単なる視野狭窄、あるいは洗脳に過ぎないと思われるのだが、とにかく教団の幹部や信者たちはそう思い込んでいるので、当然のことながら、「自分たちの教え、自分たちの教祖こそ唯一本物であり最高だ」と主張し宣伝し布教するようになる。
 そして、彼らの話を聞いていると、しだいにその通りではないかと思われてしまう。
 なぜそう思ってしまうかというと、一言でいえば、どの教団も自分に都合のよい部分しか見ていないからだ。
 たとえば、わかりやすく説明するために、非常におおざっぱな分け方をすると、キリスト教は愛の宗教であり、(原始)仏教は知恵の宗教とされている。
 キリスト教では、救われるためには愛を最高のものと考える。そしてイエスや聖書の教えを見ると、盛んに愛が説かれている。それに対して仏教は、あまり愛(仏教で愛に相当する言葉は「慈悲」)ということを語っていない。つまり、キリスト教の信者からすれば、救いに必要な愛をあまり説いていないがゆえに、仏教はキリスト教よりも劣った宗教ということになる。
 反対に、仏教徒は知恵こそ救われるために必要なものと考え、釈迦や(原始)仏典などを見ると、その大切な知恵についてたくさん説かれている。ところが、キリスト教では、知恵の重要性についてあまり説かれていない。そのため、仏教徒からすれば、救いに必要な知恵をあまり説いていないがゆえに、キリスト教は仏教よりも劣った宗教ということになる。
 では、いったいどちらの宗教が正しいのだろうか?
 私個人の見解では、どちらも一面では正しいが、一面だけでは真の救いを得ることはできないと考える。
 つまり、救われるには、愛と知恵の両方が必要なのだ。キリスト教を学ぶことも必要であり、仏教を学ぶことも必要なのである。その他にも、できる限り多くの宗教を学ぶことが必要であると思う。そうしていくうちに、真理というものの全体像が何となくわかってくるからだ。あたかも、ジグソーパズルをひとつずつはめ込んでいくうちに、しだいに全体の絵がわかってくるのに似ている。

 したがって、「これは」と思う教祖や教団を見つけたら、どんどん飛び込んでみたらどうかというのが、私の基本的な考えだ。もちろん、そのまま洗脳されてずっとその教団から抜け出せないというリスク、大金を巻き上げられたり、心のトラウマを受けるといったリスクもある。そのようなリスクがあることは、一応覚悟しておいた方がよい。
 ただ、人生の教訓というものは、実際に体験してみないと得られないものである。人生というのは冒険のようなものだ。冒険とは未知の領域へ挑むことである。未知の領域には当然、危険が待ち受けている可能性がある。しかし危険を怖れていたら、何も得られない。だから、飛び込んでみることだ。そして教訓を学んでいくことだ
 もちろん、あきらかにいかがわしい教団、インチキ教祖だとわかっていて飛び込むことはない。しかし、何回も熟慮した末に「この教祖、この教団は本物かもしれない」と気になって仕方がないのであれば、後はもう飛び込んでみるしかないのだ。
 たとえその結果、そこがインチキだとわかったとしても、それはそれで何かを学ぶことができるだろう。もっとも、そのための「授業料」は高くついてしまうかもしれないが、それは仕方がない。すでに述べたように、人生は冒険なのだから。

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愛して後悔することはない

 皆様、いつもブログをご高覧くださり、ありがとうございます。本文に入る前に、少し申し上げたいことがあります。ときどきコメントをいただいており、それに対して極力ご返事のコメントを書こうと思っているのですが、このブログのシステムの問題か、それとも私の操作が間違っているのかわかりませんが、まれにコメントが反映されないとか、書けない場合があるようなのです。そういう場合はどうかおゆるしください。なお、「管理者だけが閲覧できる」という場合は、システム上、ご返事ができませんので、ご了承ください。

 次に、現在の私のうつの状態について簡単にご報告させていただきます。
 少し前までは、かなり回復して気分の強い落ち込みはほとんどなくなりました。ただ、心身を使う何らかの活動については長続きせずすぐに疲れてしまう状態でした。そのため、体力を鍛えようと、庭の手入れをしたり家の片付けをしたり、散歩をしたり、軽くジョギングをしたり、ヨガをしたりして、少しずつ体力をつけようとしました。けれども、思ったような成果が出ません。少し無理すると翌日に具合が悪くなります。これは体力というより自律神経が弱っているせいかと思われます。それでも、休んでいる限りは回復しないと思ったので、ちょっと具合が悪くても毎日のように鍛えました。ところが、やはり文字通り「無理」は「無理」で、少しこじらせてしまった状態になりました。気分も落ち込み意欲が減退し、からだも重くて、ここ最近はまた横になっていることが多くなってしまいました。症状的には2、3歩後退してしまった感じです。精神安定薬は一日1錠以内でおさめていますが、新薬エビリファイは微量ですが毎日服用しています。なお、この不調の原因は、時期にも関係しているように思います。というのは、毎年きまって梅雨の時期に調子が悪くなっているからです。
 それでも、全体的にはずっとよくなっているので、今の不調も一時的なものと考えています。何事もそうだと思いますが、ものごとというものは直線的によくなっていくのではなく、小さな波を描いてよくなったり悪くなったりを繰り返しながら全体的にはよくなっているという経過をたどるものと思います。いずれにしろ、ここまでよくなることができたのも、皆様方が物心ともに支えてくださったおかげに他なりません。心から感謝しています。
 ということで、しばらく休んだら、また無理のない範囲で少しずつ鍛えていこうと思っています。今はちょっと小休止です。あまり目先のアップダウンにはとらわれないようにしようと思っています。もし皆さんのなかにも病気やその他の悩みで苦しんでおられる方がいたら、小さな波を描きながら全体的にはよくなっていくのだということを認識されるとよろしいと思います。

 さて、では本文に入ります。
 前回の「後悔しない生き方」と関連がありますが、私が今まで半世紀以上生きてきて、「おそらくこういう生き方は後悔しないだろう」と思われるものは、「弱い者いじめはしない」ということです。
 子供などは、まだ他者の気持ちに共感できる能力が欠如しているため、面白がって弱い者いじめをするということがあります。限度を超さなければ、ある意味、それは仕方がないことです。私も中学生までは、友達をいじめたり、またいじめられたりしました。自分がいじめられてはじめて、いじめられる人の痛みがわかるようになり、それからはいじめることはしなくなりました。高校生以後は、気づかないうちにいじめてしまったことはあったかもしれませんが、少なくとも意図的に弱い者いじめをしたことはないと思います。
 しかし、いくら子供のときとはいえ、友達をいじめた経験というのは、この歳になっても辛い気持ちで思い出されます。後悔しています。いじめられた経験も不愉快ですが、後悔はありません。しかし、いじめた経験は後悔の念が伴います。それは辛いものです。

 私は、人間は男女を問わず「美学」というものを持って生きるべきだと思っています。倫理や道徳ではなく、美学の見地から「これはしない、これはする」という、いわば生きざまの指針のようなものです。ただし、「これはしてはいけない、これはしなければいけない」というものがたくさんあると、それに縛られ、自由に生き生きと生きることはできないので、あまりたくさんは持たない方がいいと思います。1つか2つ、多くても3つくらいでいいでしょう。
 美学を持って生きると、後悔しない人生を送れる可能性が高まります。
 その美学のうち、もっとも大切だと思うのが、「弱い者いじめはしない」というものです。弱い者は決していじめない。できれば助けてあげる、こういう生き方を美学として持つとよいのではないかと思います。
 残念なことに、弱い者いじめは、子供の世界だけでなく、大人の世界にもはびこっています。もしかしたら子供の世界より大人の世界の方がずっと数が多く、かつ陰湿かもしれません。子供の場合、たいてい腕力が強い子が腕力の弱い子をいじめるという単純なケースが多いですが、大人の場合は腕力というより、権力や地位や財力といったもので人を差別して弱い者いじめをします。典型的なのが、地位を利用して上司が部下をいじめるという、いわゆる「パワハラ」でしょう。
 子供はまだ他者の痛みに共感する能力が育っていないという点で仕方がないと思いますが、いい歳をした大人が自分より立場的に弱い人間をいじめたり、いばったり、暴言を吐くというのは、もっとも低劣な行為であると私は思っています。もっとも恥ずべき行為、醜い行為です。美しくありません。美学を持っていないから、弱い者いじめを平気でできるのです。
 いうまでもありませんが、弱い者いじめをするような人間に霊性が高い人はいません。いくら瞑想したり何千回お経やマントラを唱えたり、聖書を暗記するくらい読んだり、祈ったりしても、弱い者いじめをする限り、霊性が向上することはないと思っています。
 そしていつか、弱い者いじめをしたことを深く後悔するときがやってくるでしょう。その後悔には激しい自己嫌悪が伴うでしょう。

 ですから、霊性を向上する道を歩むなら、ぜひ「弱い者いじめはしない、できれば助けてあげる」という美学を持つようにしてください。他にもたくさんの美学があると思いますし、あとは自由に決めればよいと思いますが、すでに述べたように、あまりたくさん持つと不自由になるし、またひとつひとつの美学が散漫になるので、せいぜい3つ以内でいいと思います。「弱い者いじめはしない、できれば助けてあげる」という、これだけの美学でも、あとは少しくらい欠点があろうと悪いことをしようと、死んだときに天国の門は開いていると思います。人間というものは、あまりにも「これはしてはダメ、これはしなければダメ」というように自分を縛ってしまうと、器が小さくなってしまいます。「小さな善人」にはなれますが、大物にはなれません。別に大物になる必要はないのですが、器が小さいと人を許容することが難しくなりますし、それでは霊性を高める上での障害となりますので、やはり器は大きい方がよいです。要するに、人間はあまり小さなことにコセコセしない方がよいです。多少欠点があっても、多くの人を受け入れることができる器の大きい人、懐の深い人をめざすべきだと思うのです。
 ちなみに私は2つの美学を持っています。ひとつはいま申し上げている「弱い者いじめはしない、できれば助けてあげる」で、もうひとつは「誰にも媚びない、誰にも威張らない」です。私は人間の本質とは関係のない地位だの権力だの名声だの財力だのルックスだの職業だの、あるいはその他のことで、下心を持って誰かに媚びたり、あるいは自分より下だと思えば見下して威張るような人間が大嫌いです。それは非常に醜い。私はそんな醜い人間には絶対になりたくありません。
 ちょっとカッコつけすぎかと思われるかもしれませんが、男なら(女もそうですが)、人間らしく生きるためには「カッコよさ」を身につけることは大切なことだと思うのです。それが美学というものです。

 弱い者いじめはしない、できれば助けてあげる、ということは、愛のひとつのあらわれであると思います。すなわち、「弱い者いじめをしなければ後悔しない」というのは、「愛すれば後悔しない」ということだと言えるでしょう。
 私の半世紀以上の人生を振り返っても、愛さないで後悔したことはたくさんありますが、愛して後悔したことはひとつもありません。
 ただし、愛することは必ずしも楽しいものとは限りません。むしろ、愛することには傷つくというリスクが伴います。「愛することは傷つくことだ」と言い切ってもいいかもしれません。自分が愛しても、愛で応えてくれるとは限りません。感謝もされず、それどころか恩を仇で返されるようなこともあるかもしれません。なので、傷つきます。とても辛いです。
 傷つくのは、まだ条件がある証拠であり、真の愛ではないからです。とはいえ、人情としては、なかなかそこまでの高みに至ることは難しい。だから、愛するのであれば、傷つくことは覚悟することです。しかし、そのような勇気を持つことで、人は真の愛へと至る道を踏み出すことになると思うのです。
 いずれにしろ、愛して後悔することはありません。「絶対にない」、と言ってもいいと思います。
 愛さないで後悔することはあります。しかし、愛して後悔することは絶対にありません。
 それが、私が今までの人生で学んだ教訓のひとつです。

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後悔のない生き方をするために

 人生というものは、さまざまな苦しみがあり、また誘惑がある。苦しみに負けることもあり、誘惑に負けることもある。「負ける」という意味は、言い換えれば「後悔する」ということだ。後悔とは要するに「あれをしなければよかった(すればよかった)」ということである。
 だれも後悔する人生を送りたいとは思わないであろう。したがって、人生で一番大切なことは、「後悔しない人生を送る」ことであると言ってもいいと思う。
 ただ、まったく後悔しない人生を送ることは現実として不可能であるから、「なるべく後悔しない」と表現した方がいいかもしれない。
 では、どうしたら、なるべく後悔しない人生を送ることができるだろうか?
 それには、「何が後悔すること」か、あるいは「何が後悔しないこと」かを、まえもって明らかにしておくことだ。そして、それを肝に銘じて生きることである。そうすれば、いざとなったとき、迷うこともブレることもなく、後悔しない選択(行動)をして、後悔しない人生を送れる可能性が高くなるはずだ。
 では、いったい何が後悔すること(あるいは、しないこと)であろうか?
 それは、人によってさまざまであろう。
 また、あるときは後悔することと思っても、後になって後悔しないことだと思うこともあれば、逆に、後悔しないと思っても、後になって後悔することだと思うこともある。
 したがって、何が後悔すること(あるいは、しないこと)かを決めるときには、慎重にならなければならない。また、必要に応じて修正していくことも大切になってくる。
 ここでは、あなたがそれを決めるときの参考にしていただくための、ひとつの問いを投げかけてみたい。それはとても根本的なことなので、この点をよくおさえておけば、おそらく人生で、そう大きな後悔というものはなくなるのではないかと思っている。
 その問いとはこうだ。
 「ここに二つの生き方がある。ひとつは、傲慢で利己的でずる賢く、自分の幸せのためなら人や世の中などどうでもよい、場合によっては害を及ぼすようなことも平気でする。要するに、恵まれているが低劣な人間として生きる人生だ。もうひとつは、世のため人のためになり、たとえそれが認められず、そればかりか、そのために苦労や困難を味わうこともあるような人生。要するに、恵まれないが高潔な人間として生きる人生である。そのどちらかを選ばなければならないとしたら、あなたはどちらを選ぶ方が後悔しないか?」
 もちろん、これは究極の選択であって、現実にはこれほど極端な選択を迫られることはないだろうし、これほど極端な生き方をする人も少ないだろう。ほとんどの人は、多少は世のため人のためになるが、多少は害をもたらすこともし、低劣でも高潔でもない人間として生きることになるだろう。
 けれども、人生において尋常ではない事態(たとえば災害や運命的打撃、抗しがたい誘惑といったこと)に遭遇したとき、まえもってこの「究極の選択」を決めていた人は、後悔のない生き方ができるに違いない。もちろん、軽い気持ちで決めていたのではなく、心の底から、しっかりと、強く、覚悟をもって決断していた場合だ。さもなければ、いざというときに迷ってしまい、結局、どっちつかずの選択(行動)をして後悔することになる。
 この決断さえしっかりとできたなら、おそらく、後悔するようなことはない。
 では、いったいどちらの選択が後悔しないだろうか?
 それは、誰にも決められない。決めるのは自分だけだ。ただ、決めた以上は、それを貫くことだ。もし前者の人生を選択したのなら、人を踏み倒しても自分の利益や幸せを追い求めることだ。もし後者の人生を選択したのなら、自分の利益や幸せをあとにしても、人や世の中のために生きることだ。
 というより、断固として覚悟をもって決断したのであれば、自然とそうするだろう。そのとき迷うのは、しっかりと決断していなかった証拠である。
 とはいえ、そこまでしっかりと決断することは、なかなか難しい。やはりどうしても、いざというときは迷いが出てしまう。
 けれども、むかしの侍はその決断ができていた。侍(武士)は、誇りを重んじて、恥じる生き方をしなければならないときには、切腹をして死ぬ覚悟を持っていた。そのために、戦のためと自害のための二本の刀を腰にさしていた。
 私は、このような侍、いわゆる「武士道」の生き方を全面的に肯定するつもりはないにしても、学ぶべきことは多いと思っている。死を覚悟してまで決意したのであれば、それはいかなる事態に遭遇しても揺るぎないものとなるだろう。
 あえて私個人のことを言えば、正直、ここまで強い決意を持てる自信はないが、どちらの生き方が後悔しないかについては、その解答は明らかだと思っている。
 それは後者だ。なぜなら、どんなに人格を低劣にしてまで自分の利益や幸せを追求したとしても、それは得られないからだ。一時的には得られても、最終的には幸せは得られない。どこまでもどこまでも飽くなき追求はやまず、渇きが癒されることはない。それは地上の物質的な「幸せ」というものは、本質的に依存性のある快楽だからである。すなわち、基本的には麻薬やアルコールと同じレベルなのだ。
 一方、後者のように、いくら世のため人のために生きたとしても、幸せになれるとは限らない。むしろ、確率的に言えば、苦労や困難が多くなるであろう。
 つまり、どちらを選択したとしても、この地上世界では幸せは得られないのである。
 ならば、どうせ幸せを得られないのなら、高潔に生きた方が少しはマシではないだろうか?
 たとえ、高潔に生きたとしても、誰からも称賛されず、何の得もなかったとしても、高潔な人格で生きるならば、少なくとも低劣な人格で生きるよりも、自分を愛せるようになるだろうし、そんな自分に誇りを持てるようになるに違いない(これはナルシシズムや傲慢さではない。ナルシシズムは利己的であり、傲慢さは他者に対してひけらかすことによって成り立つが、真の自己愛は利己的ではなく、真の誇りは他者からの称賛を必要としないからである)。
 もしこの地上に幸せというものが存在するとしたら、高潔な人格を貫いて生きることによって得られる自分自身に対する愛と誇り、これではないだろうか。
 そして、そんな愛と誇りを得られる人生であったならば、その人生はおそらく、後悔することはないであろう。



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効率的に「自分の頭で考える」ためのヒント②

 何かを考えるということは、考えることによって何かを解決したいからであろう。この「解決したい」という欲求の次に私たちの頭が行うプロセスは、「どうすればいいか?」と考えることである。つまり、問題や課題を解決するための方法を考えようとする。人類をはじめ、ある程度高等な動物たちは、この「どうすればいいか?」という方法を考えることによって進歩してきたといえるだろう。
 しかしながら、私たちは意外なほど「どうすればいいのか?」と考えていない。たとえ考えてもすぐにやめてしまったりする。
 これは、国民性や伝統、これまでの生育環境などが原因と思われるが、問題や困難や不愉快な状況に遭遇すると「もうだめだ」とあきらめてしまい、我慢してそれを受け入れるという習性ができあがっているのだ。「困難に遭遇したら思考停止する」という、ある種のプログラムが脳にインプットされていると表現してもいいかもしれない。そのために私たちの大半は、不本意な境遇や運命に甘んじて生きてしまっている。
 そこで、自分の頭で考えるためには、解決すべき何らかの問題や困難や不愉快な出来事に遭遇したら、「では、どうすればいいか?」と考える習性を身につけることが重要になってくる。そうして粘り強く、解決のための方法を考えるのだ。
 このようにして「どうすればいいか?」とひたすら考え続けることにより、脳はフル回転するようになり、ついには問題解決のための方法を考え出してしまうものである。たとえ完全には解決できないとしても、現状より改善する方法くらいは考え出せてしまう。

 このことを、「あたりまえではないか」と思わないで欲しい。ためしに、注意深く自分の思考を観察してみて欲しい。そうすれば、問題や困難や不愉快な出来事に遭遇したとき、「では、どうすればいいか?」と真剣に考えることをせず、ほとんど無意識的にそれを我慢して受け入れていることが多いことに気づくはずである。その結果、いつまでもかわりばえしない生活、不本意な生活、不便な生活、不愉快な生活を続けることになってしまう。
 繰り返すが、その原因は「困難に遭遇したら思考停止する(考えるのをやめる」とプログラムされているからだ。それが習性となっているのである。
 そこで、こうした習性(プログラム)を書き換えなければならない。
 習性を変えるのは簡単ではない。意識的に粘り強く挑んでいく必要がある。そのために、次の言葉を、頭のなかで念仏のように常に唱えているとよい。
「では、いったいどうすればいいか?」
 そうすれば、何か解決すべき出来事や状況に遭遇したとき、反射的にこの言葉が浮かんでくる。そして、解決のための方法をひたすら考え抜いていくのだ。どんな小さな不愉快なことも見逃してはならない。不愉快なことは、ことごとく解決していく姿勢が大切だ。
「では、どうすればいいか? では、どうすればいいか? では、どうすればいいか?・・・」
 もちろん、すぐに解決策が見つかるとは限らない。しかしあきらめてはいけない。忍耐強く、考えて考えて考えて、考え抜くのだ。
 そうすると、さらに解決しなければならないことが見つかる場合も少なくない。そのため「やっぱり無理だ」と思ってしまうかもしれない。だが、それでも喰らいついていくのだ。「では、どうすればいいか?」と繰り返しながら。
 人生というものは、こうしてひたすら「では、どうすればいいか?」と、どこまでもどこまでも考え抜き、そして行動していった者が、ついには勝つのだと思う。才能だとか、恵まれた境遇といったものは、勝利を手にするにおいては二次的な要素にすぎない。なによりも忍耐強く自分の頭で考え、行動していった者が最後には勝つのだ。
-続く-

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効率的に「自分の頭で考える」ためのヒント①

 当然のことであるが、考えるという行為には目的がある。ときと場合によっては、その目的が弱くあいまいであったり、強く明確であったりするし、意識的な場合もあれば、無意識的な場合もある。しかしいずれにしろ、私たちは何らかの目的があって考えるという行為をする。たとえば、何か問題や困ったことがあるとか、叶えたい夢があるといった場合、どうしたら問題や困ったことを解決できるか、どうすれば夢を叶えることができるか、と考えるのだ。
 さて、効率的に自分の頭で考えるには、まず何よりも、その目的を明確にしなければならない。しかも、その目的を達成しようという強い意志や情熱がそこに伴っていることが大切である。
 私たちの脳は、そうした目的を持ったとき、みちがえるように活性化し、フル回転するようになる。
 頭の良し悪しの違いは、遺伝や生育環境といった要素が関係していることは確かだが、それ以上に決定的なことは、「明確で強い目的を持っているかどうか」によるところが大きい。
 いわゆる一流大学を出ても、社会では頭のよくない無能な人もいれば、小学校しか出ていなくても、社会では頭がよく有能な人もいる。その違いは強く明確な目的を持っているかどうかで大部分は決まると私は考えている(禅の道元なども似たようなことを言っていた)。前者は、「一流大学に合格する」という強く明確な目的を持って努力(勉強)したからそうなったのだが、合格してその目的が果たされ、次なる目的を持たないで過ごしたために、頭が悪く無能になってしまったと考えられる(もちろんそれだけが要因のすべてではないだろうが)。
 すでに述べたように、私たちの脳は、強く明確な目的を持つと、その目的を実現するために、フル回転する。それは潜在意識の層にまで及ぶ。そのため、直感的にすばらしいアイデアが閃いたりといったこともよく起こるようになる。また、一見すると不思議な現象とも思えるようなことが起きたりする。たとえば、たまたま読んだ本のなかに、その目的を達成するための情報が書いてあったりとか、その目的を達成するための協力者に偶然出会うといったことだ。
 こうして、ある目的を達成するために、脳は非常に活発に働くようになり、その目的に関することにおいては、非常に冴えた頭になる。いわゆる天才と呼ばれる人たちは、遺伝的な要素に加えて、こうして強く明確な目的を持って粘り強く努力を続けた人たちであると思われる。
 もっとも、そうした天才と呼ばれる人たちは、それ以外のことでは案外平凡であったり、「ぬけて」いたりすることがある。自分の専門分野に関しては驚くほど頭がいいのに、それ以外の、たとえば何かを買っておつりの計算がうまくできないとか、経済観念が著しく欠如しているとか、服装のセンスがないとか、単純な詐欺にだまされたりとか、怪しい宗教にはまったりといったことがあったりする。
 そうしたことは、社会生活で深刻なトラブルさえ起こさないのであれば、問題はないだろう。この世に万能な人間などいないのだから。ただ、自分の専門分野とは違う領域に置かれてしまった場合は、けっこう辛い思いをするかもしれない。
 それでも、一般的に言えば、ひとつの領域において高度な頭のよさを身につけた場合は、それ以外の分野でも、ある程度の応用は効くことも多い。それはおそらく、「興味があるかどうか」によるのだと思う。お笑いタレントでありながら文学の才能を発揮する人もいるし、学者でありながら起業や投資で成功しお金をもうける人もいる。これらは興味があるかどうかだろう。つまり、ある分野で高度な脳力を発揮できた人は、興味さえあれば、他の分野でも脳力を発揮できる可能性が高いということだ。

 このように、効率的に自分の頭で考えられるようになるには、まず何よりも目的を持つことが土台となる。それも強くて明確な目的でなければならない。こうした目的を持たなければ、他にいかなる手段をもってしても、効率的に自分の頭で考えられるようにはならないだろう。
 さて、この目的には4つの種類というか、段階がある。それは「究極の目的」、「長期的な目的」、「中期的な目的」、「短期的な目的」だ。この4つの目的を同時に頭の中に入れておく必要があるのだ。
 最初の「究極的な目的」とは、いってみれば「人生の目的」、「人生のテーマ」とでも言うものである。「自分はこの人生で何をやり遂げたいのか」ということだ。このブログを読んでいる人の多くは「覚醒すること」であったり「地球を卒業すること」、「霊性を高めること」ではないかと思うが、「世のため人のために貢献すること」といった目的を持つ人もいるかもしれない。
 この究極的な目的は、大きな心境の変化がない限り、基本的には変わらない。それに対して、長期、中期、、短期の目的は、状況や段階に応じて変わる。仮に、「世のため人のために貢献する」という究極の目的を持った場合、それを達成させるには何をするべきかを考えて、それを長期の目的にする。たとえば、「医者になって」、世のため人のために貢献するということであれば、長期的な目的は「医者になること」となるだろう。もし何らかの事情で医者になることができなくなった場合は、何かほかの手段で「世のため人のために貢献する」ということになり、その手段が新たな長期の目的に変わる。
 そして、その長期的な目的を達成するには何をするべきか考えて、それを中期の目的にする。今の例でいえば、「大学の医学部に合格する」となるだろう。そして、医学部の医学部に合格したら、次には「国家試験に合格する」となり、次には「インターンになる」といったように変わっていくだろう。
 そして、医学部に合格するという中期的な目的を達成するには何をするべきか考えて、それを短期の目的にする。今の例でいえば、「予備校の入学試験に合格する」となるかもしれないし、「全国模擬テストで偏差値65以上をとる」といったようになるかもしれない。
 ここで大切なことは、常に究極の目的、長期、中期、短期の目的を同時に意識することだ。なぜなら、たとえば短期の目的だけに集中していると、視野が狭くなり、究極の目的からそれてしまうことがあるからだ。もし医学部に入るために「予備校の入学試験に合格する」ということだけしか頭にないと、勉強ばかりして、そのために勉強ははかどるかもしれないが、医者になるには体力や精神力、高い倫理性なども求められる。そうしたものは勉強だけでは身に付かない。したがって、常に4つの目的を同時に頭に入れておかなければ方向がそれてしまうのだ。4つの目的を同時に意識していれば、勉強ばかりやっているといった偏った生活をすることなく、体を鍛えることもするだろうし、精神力や倫理性を養うために、たとえば幅広い交際をしたり、ボランティア活動といったこともするようになるかもしれない。
 また、ときには無駄と思われることも自分にゆるすという、ゆとりある姿勢でいることも大切だ。あまりがんじがらめに目的やそのためのスケジュールに縛られるべきではない。言い換えれば、極端に効率性や合理性を追求しすぎるのはよくない。というのも、潜在意識は、一見すると無駄に思えるような行為や体験であっても、後になって、実はそれが目的を達成するために役立つものであったと気づくことが少なくないからである。脳というものは、しばしば非合理的な行動や体験に私たちを導くことがある。だが、それは「非合理的」に思われるだけであって、実は「合理的」である場合が少なくないのだ。だから、一見すると「無駄なこと」あるいは「失敗と感じること」を体験したとしても、落ち込むことは不要である。しっかりと目的を持ってさえいれば、そういうこともまた、目的達成のためのステップであるかもしれないのだ。
 いずれにしろ、あくまでもめざすところは、「究極の目的」である。長期、中期、短期の目的は、そのための手段でしかない。あたかも、船が羅針盤を使ってめざす陸地に向けて進みながらも、その過程では、岩礁や急流をさけて右や左に舵をとるようなものである。
 このように、4つの目的を同時に抱くことにより、脳は非常によく働くようになり、無駄がなくなり、効率的に自分の頭で考えることができるようになる。
 あなたは、究極の目的、長期的な目的、中期的な目的、短期的な目的は何かと尋ねられたら、すぐに答えられるだろうか?
 -続く-

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