心の治癒と魂の覚醒

        

読者の方のご意見

 読者の方から、以下のようなメールをいただきましたので、ご紹介させていただきます。
 このFC2ブログへのコメントは、ある一定数以上の文字数を書くと、不正な投稿とされてしまうようです。もし皆さんのなかで、そのために投稿ができなかった方がおられたら、どうもすみませんでした。
 今回、投稿できずに私にその内容をメールで直接に送って下さったわけですが、ぜひ、皆さんと共有したいと思いましたので、ご本人に許可を得て、以下に掲載させていただきます。
 私は、カルマの法則があるとか、ないとかを、主張しようとしているのではなく、私自身の疑問を投げかけて、こうして皆さんのご意見を聞きながら、探求していくのが目的です。
 なので、どうぞ、ご遠慮なく、ご意見をお寄せいただければ嬉しいです。
 よろしくお願い致します。


「斉藤先生はじめまして。ハンドルネームkuboと申します。
何故か不正な投稿と判断され、ブログにコメントできなかったので、メールさせていただきました。突然すみません。

仏教ではカルマは動機によって決まるようです。
師匠は指示をして殺させたので、殺生のカルマ、その妻はそこまで予想していないものの、破滅的な状況を願っていたわけだから重い嘘のカルマ、アングリマーラは自分の解脱のために殺しをしたのだから殺生のカルマとなりそうです。
悪いことをしたくなくても自然としてしまうから輪廻にとらわれているわけで、その法則をつかさどっているのは神ではなく、ただの法則そのものがあるだけです。だから、その法則は六道輪廻図では神どころか恐ろしい魔物として描かれています。
動物は自然のままに生きていますが、だからいいというわけではなく、そこから無意識に悪行を積んでしまうので、悪趣をさまよいそこから長い間抜け出せなくなるわけです。地獄に落ちれば苦しみから憎しみが生まれる続けるように、悪いカルマがもっと悪いカルマを呼ぶので、カルパ単位で苦しむことになるわけです。
非常に理不尽で、全てが苦ということになります。

このような話を上から目線で言い放てば、それはとんでもない脅しとなり、僕は鼻で笑って興味は持たなかったと思います。


しかし、全ての衆生が無明にとらわれている被害者であり同胞であるということから、悪人や自分を傷つける人に対しても慈悲の気持ちを持ち、大乗の菩薩に至っては、その全ての苦を消滅させるまで解脱をしないというほどの決意を持っているので、非常に優しい宗教であるといえます。
カルマの法則は、理不尽な現実であるが、敵であってもそういう事態に陥らないように全力で助けたいという態度は、信じる信じないは別として、筋は通っていると思われます。聖者の悪口の話も、戒律を破って地獄に落ちてザマアみろと思っている人は一人もおらず、それどころか自分のことのように感じて悲しんでいるはずです。実際はそうじゃない人もいるでしょうが…
障害者に対して前世のカルマだと考えても、そこで自業自得と言い放てばすでに仏教徒ではないのと同じことです。

あくまでも仏教からの立場で、それこそ信仰の問題になってしまいます。趣旨である、総合的、理論的なアプローチではありません。
斉藤先生は仏教を知らないわけでなく、あえて違う立場から解説されたことと思います。
しかし、無神論の宗教である仏典の話を考える時には、愛に溢れた神を持ち出してもしかたがないと思うのです。愛に溢れた神を想定して仏典をみれば、本当に全てが理不尽で馬鹿馬鹿しい脅しとしか見られなくなります。」

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カルマの法則への疑問 ②

 さて、前回、アングリマーラのお話をご紹介しましたが、彼はいったいなぜ、このような悪いカルマを行うようになってしまったのでしょうか?
 まず、彼が師匠の命令をそのまま受け入れたことにあると言えるでしょう。私から言わせれば、「盲信」してしまったのです。いかに盲信が危険であるか、この話からもわかると思います。オウム真理教の信者たちも、結局は麻原を絶対的な存在として盲信した結果、あのようなむごい事件を起こすことになったわけです。
 ただ、当時のインドの宗教事情を考えますと、グルというのは絶対的な存在であり、絶対に正しく、それゆえグルの命令は絶対に服従するというのが、解脱をめざす弟子として必要不可欠なことであり、あるべき姿であるという風潮が、根深くあったようです。
 その意味では、アングリマーラは、ただ真面目であったということなのかもしれません。もっとも、妻が嘘を言ったのも見抜けないような、そもそも、あのような恥ずべき行いをするような女を妻にめとる、ふぬけた人物を師匠に選んだ彼にも責任があると言えなくもありませんが、いずれにしろ、彼は人殺しをしたくてしたわけではないことは確かでしょう。

 もともと、アングリマーラがあのような悪しきカルマを積むようになったのは、師匠の妻があのような卑劣な嘘を言ったからです。そこから始まったのです。妻があのようなことをしなければ、アングリマーラもあのような行為をしなかったのです。その点では、もっとも悪いのは妻だと言えるかもしれません。
 しかし、妻はまさか、人殺しにまで発展するとは思わなかったでしょう。そうなるとわかっていたら、たぶん、あのような嘘もつかなかったと思います。
 一方、人を殺せと命令したのは師匠ですから、その点では師匠こそがもっとも悪いと言えるかもしれません。しかし、その師匠もだまされたから、そのように言ったわけです。人間である以上、だまされることもあるのは仕方がないことですから、そう考えると、師匠にも情状酌量の余地はあることになります。

 以上のように考えると、アングリマーラ、師匠、妻の3人は、決して人殺しを望んだわけではなく、それぞれ意図しないまま、結果的に人殺しという出来事を生みだしてしまったと言えるでしょう。
 ならば、アングリマーラだけが、悪しきカルマを積んだとして、責められることになるのでしょうか? 師匠にも妻にも、殺人の責任があるのではないでしょうか?
 だとすると、アングリマーラだけではなく、師匠や妻も、殺人という悪しきカルマに対する報いを分配されて受けなければならないでしょう。
 しかし、いったいどのようにして、公正にカルマの結果を分配するのでしょうか?
 事情は非常に複雑です。全員が悪いとも言えるし、全員が悪くないとも言えるなかで、いったい誰がどのくらいカルマの報いを引き受けるのか? その分量をどのようにして公正に配分することができるのか? また、その配分は機械的な法則によって自動的に決められるのか、それとも、そのような配分を決める人格的な存在がいて、その裁量によって決められるのか? だとすると、どのような基準に従ってそれを行うのか?

 アングリマーラの話は、国の命令で戦争に行き、敵の人間を殺す兵士にも、そのまま当てはまるのではないでしょうか?
 その場合、ろくでもない師匠の命令にしたがったアングリマーラに責任があるとするなら、戦争をするろくでもない政府にしたがった国民に責任があると言えるわけで、そうなると、兵士たちはみんな、敵(人)を殺して悪しきカルマを積むことになります。
 しかし兵士たちは、仕事でそれを行っているわけであり、上からの命令で仕事(殺人)を行っただけなのに、悪いカルマを積んだことになるというのは、理不尽ではないでしょうか。
 もちろん、仕事と言えども、それは自分の生活費を稼ぐという利己的な目的もあるわけですから、その意味では、自分のために人を殺したと言えなくもないかもしれません。
 ならば、徴兵制度により、無理矢理に兵士にさせられ、戦場に連れて行かれ、人を殺さなければならない状況におかれることも、世の中にはあるわけですから、その場合でも、悪しきカルマを積んだことになり、いつかカルマの報いを受けなければならなくなるのでしょうか?
 そうだとすると、これはあまりにも理不尽であり、納得のいくものとは思えないのですが、いかがでしょうか?

 反社会性人格障害という精神疾患があります。これは、犯罪などの反社会的な行いをしてしまう病気です。遺伝や脳の異常、生育環境などにより、こういう精神の病気になってしまう人が、男性の場合、人口の2%くらい存在すると言われています。
 このように、精神の病気が原因で、たとえば人を殺してしまった場合、やはり悪いカルマを積んだことになり、悪い報いを受けなければならないのでしょうか?
 つまり、私が言いたいのは、人間とは、たとえ悪いことをしたくなくても、悪いことをしてしまう存在ではないのか、ということです。もしそのように造られているというのに、報いだけは責任を取らされて苦しまなければならないのなら、あまりにも理不尽だと思うわけです。

 それとも、動機が問題なのでしょうか? 人を傷つける動機で行った場合は悪いカルマとなり、そういう動機がなくて人を傷つけてしまった場合は、悪いカルマにならないのでしょうか?
 だとすると、「世界をよくしよう」という純粋な動機で(仮に本当にそのような純粋な動機だとして)、そのために仕方なく爆弾を飛行機にしかけて人を殺すテロリストたちは、悪いカルマを積んでいないことになりますが、動機さえ善いものなら、結果的にいくら人を殺しても悪いカルマにならないのでしょうか? もしヒトラーが純粋な動機でユダヤ人を殺していたとしたら、彼は悪いカルマを積んでいないことになりますが、どうなのでしょうか?

それとも、やはりあくまでも、結果なのでしょうか?
 殺すつもりはない、間違って殺してしまった場合でも、殺人という行為に対する報いは受けなければならないのでしょうか? だとすると、医療過誤で患者さんを死なせてしまった医師などは、悪いカルマを積んだことになるでしょう。そうなると、悪いカルマを積まないように、医者にはならないようにしなければなりません。しかしそうして医師がいなくなったら、たくさんの人たちが、助かる命も助からないということになるでしょう。

 このようにあれこれ考えると、果たしてカルマの法則は、どのようにして明確に善悪の判定をし、どのように公平に報いを与えているのか、まったく検討もつかなくなってしまうのです。
 そもそも、公正に善悪を判定し、厳密にそれに応じた報いをもたらすということなど、果たして可能なのでしょうか?
「神様は万能だから、可能なのです」
 と言われれば、それまでです。それはもう信仰の問題、つまり信じるか信じないかの問題となり、議論の余地はありません。
 けれども、それは、「グルは絶対に正しいから、グルの言うことはすべて正しいのです」という発想と、何ら変わらないと思います。
 つまり、最初から正しいと決めて批判する姿勢を捨てる姿勢は、盲信と紙一重の姿勢なのです。アングリマーラの悲劇は、そうして起こったのです。
 カルマの法則に対する盲信(があればの話ですが)を排除しようと考察しているのが、このブログの目的なのです。

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 カルマの法則への疑問 ①

 「盲信からの解脱」のカテゴリーの続きとして、今度は「カルマの法則」について疑問に思うことを述べたいと思います。
 その前に、カルマの法則とは何かについて、一般に思われている見解を説明しておきましょう。これはおそらく、インド哲学から発生したものではないかと思いますが、ヨーガや仏教、ジャイナ教といった宗教の教えの柱となっているものです。
 カルマとはもともと「業」、つまり「行い」を意味する言葉で、善いカルマと悪いカルマとがあるわけですが、一般に「カルマ」と言った場合、悪いカルマ、あるいは悪いカルマに対する報い、また、その報いをもたらす「種」、のような意味合いで使われることが多いようです。
 そして、カルマの法則と言った場合、それは「善い行いに対しては善い報いが、悪い行いには悪い報いが訪れる」ということになります。いわゆる「因果応報」です。
 それは、ちょうど物理学の作用・反作用のように、厳密に善悪が査定され、同等の報いが公平に訪れると信じられています。わかりやすい例をあげると、壁に向かって10の力でボールを投げると、同じ10の力でこちらに跳ね返ってくるようなものです(この例では摩擦や抵抗は考えない)。その報いは現世で結実する場合もあれば、来世で結実する場合もあります。視点を変えれば、今日の不運の原因は、過去、あるいは過去生で悪いことをした報いということになります。
 カルマの法則は、お金にたとえられることもあります。すなわち、悪いことをすると、それは借金をするようなもので、その借金ぶんの金額を後で払わなければならなくなる、というわけです。具体的には、不運や苦しみを通して、あるいは何らかの償いの行為を通して払わされるのです。逆に、善いことをすれば、それは天国に貯金をするようなもので、いつかその貯金がおろされて善いこと(幸運)がやってくる、ということになります。
 以上が、一般的に信じられているカルマの法則であるといえると思います。
 そして、唯物論者でない限り、スピリチュアルな方面に関心がある人はもちろん、それほど関心がない人でも、こうしたカルマの法則を信じている人は少なくないようです。

 しかし、本当に、以上のようなカルマの法則というのは、存在するのでしょうか?
 確かに、この考え方は、一見すると非常にすっきりとして合理的に思えます。心情的にも、悪いことをしてそのままですむはずがない、いや、すんではならない、その報いは必ず受けるべきだ、という、ある種の勧善懲悪への欲求を満たしてくれる点で、納得がいくものです。そうして、ほとんどの人が、このカルマの法則を批判的に見ることなく、素直にそのまま受け入れているように思います。
 しかし、本当に、このカルマの法則を、そのまま受け入れていいものなのでしょうか?

 私がカルマの法則に関して疑問に思う点はいくつかあるのですが、まずもっとも疑問なのは、「善悪をどのように判定しているのか?」ということです。
 物理学の作用・反作用の法則は単純です。そこには善悪の区別はありません。しかし、善や悪という概念は、単純ではありません。何をもって善というか、何をもって悪というか、それがはっきりと決められないことも、世の中には少なくないわけです。
 たとえば、親が子供を悪の道から救うために、子供に体罰を与えたとします。子供からすれば、憎しみ以外の何ものでもないと感じ、ますます悪の道に進んでいったとします。この親は、善いことをしたのでしょうか? それとも、悪いことをしたのでしょうか?
 あるいは、行為そのものではなく、「動機」が重要なのでしょうか? つまり、善いことをしようという動機はあったが、結果的にそれが人を不幸にしてしまったとしても、悪い行為にはならない(それゆえに悪い報いは訪れない)ということなのでしょうか?

 以上のような疑問を考えるための、ひとつの「たたきだい」として、仏典に伝わる「アングリマーラ」の話を紹介したいと思います。有名な話なのでご存じの方もいらっしゃるかもしれません。とりあえず、その話を紹介させていただき、それについて私が考えることは、次回にまわしたいと思います。
 まずは、アングリマーラの話を読んでみて下さい。

 かつて、アヒンサという男が、師匠のもとで熱心に宗教的修行を行っていました。
 ある日、師匠が外に出て留守だったとき、師の妻がアヒンサに恋慕し誘惑しました。しかしアヒンサはこれに応じず断りました。するとその妻は、そのことを逆恨みし、自ら衣を破り裂き、帰ってきた師匠に、「アヒンサに乱暴された」と訴えました。
 それを聞いた師は怒り、アヒンサに「100人の人々を殺してその指を切り取って、鬘(首飾り)にすれば、お前の修行は完成する」と命じました。アヒンサは悩んだ末に、街に出て師の命令どおり人々を殺してその指を切り取っていきました。これによりアングリマーラ(指鬘)と呼ばれるようになり、人々から恐れられるようになりました。
 そんなあるとき、アヒンサ、すなわちアングリマーラは、たまたま釈迦と出会いました。アングリマーラは釈迦を殺して指を切り取ろうとしましたが、そんな彼にまったく動じない釈迦に感銘を受け、殺人を止めて釈迦の弟子になったのです。
 すると、今度は、家族や身内を殺された人々がアングリマーラに石を投げたり暴力を振るって、怨念を晴らすようになりました。血だらけになったアングリマーラに「このような仕打ちを受けるのも、おまえが以前に行った悪い行為の報いである。このような報いを受けて過去の悪いカルマが消えるまで、じっと耐えなければならない」といった意味のことを、釈迦は説いて聞かせました。


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 道元の潔癖主義-続き

 前回、道元の尋常ではないエピソードについてご紹介いたしました。今回はその続きになりますが、これから私が申し上げることは、何の根拠もない単なる勝手な憶測であることを、最初にお断りさせていただきます。
 さて、世間の名誉に欲がくらんだ(と道元が思った)弟子を追放し、その弟子の座っていた床をはぎ取り、さらにその下の地面を2メートルも掘ってその土を捨てたという道元の潔癖主義のエピソードですが、よく考えると、このエピソードは本当に起こったのか?という疑問を持っているのです。
 というのは、あまりにも「漫画チック」だからです。何となく、ここまで来ると、驚くとかあきれるとか、憤慨するというよりも、こっけいに感じてしまうわけです。
 当時、座禅は寺の禅堂で行われていたわけで、野外で地面に座って座禅していたわけではないでしょう。となると、弟子の座っていた床の板を切り取り、その下の土台なども取り去らなければなりません。さらにその地面を2メートル以上も掘るとなると、かなり大規模な「工事」になったと推測できます。一日や二日では終わらなかったと思います。
 そして、そこまでやって元に修復するのも、多大な労働と費用がかかったのではないかと思われます。貴重な文化財に対して、そんなことが平気でできるものなのでしょうか?
 もしこれが事実だとしたら、修復跡のようなものが残っているかと思うのですが、どうなのでしょう?(私は歴史には詳しくないので、そこのところはわかりません)。
 果たして、道元が、そこまでやるでしょうか? そこまでやるとなると、もう気が狂っているとしか思えないのですが、そこまで気が狂っている人が、「正法眼蔵」のような格調高く体系的に見事にまとめられた、あれだけの大著を著すことができるとは、とうてい思えないのです。

 こう考えるようになったのには、また他の理由もあります。
 皆さんは、道元の肖像画を見たことがあるでしょうか? 高校時代の社会の教科書などで、たぶん、目にしたことがあるかと思いますが、あの肖像画はかなり奇妙です。目や口の形や位置がかなりずれていて、まるでお正月に遊ぶ「ふくわらい」を見るかのようです。あの眼などは、とても人間のようには見えません。もし、道元が本当にあのような顔をしていたのだとしたら、たぶん、医学的には「奇形の障害」として見なされるものです。しかし、奇形が生まれる確率からいっても、彼がそんな奇形であったとは考えにくいのです。

 それとも、肖像画を描いた絵師がへたくそだったのでしょうか?
 しかし、顔以外のところはよく描けていて、決してへただったとは思えません。
 では、絵師はいたずらで、あのような絵を描いたのでしょうか? それも考えられません。天下に名だたる名僧の肖像画を、いたずらや冗談で描いたとしたら、それこそ幕府から切腹を命じられたことでしょう。
 では、絵師のいたずらではなく、また、道元があのような顔つきをしていなかったとしたら、なぜあのような肖像画が生まれたのでしょうか?

 これは私の推測に過ぎませんが、道元はわざと、絵師にあのような肖像画を描かせたのではないかと思うのです。この世の栄誉など軽蔑して嫌っていた道元は、偉そうに自分の肖像画を描かれることがイヤだったのではないか。しかし、どうしても、(おかみの命令などで)描いてもらわなければならないことになり、しかたなく、肖像画という俗世の虚栄をあざ笑うかのように、あのようにへんな顔に、わざと絵師に描かせたのではないかと思うのです。
 つまり、実は道元という人は、堅苦しく厳しいだけではなく、もの凄く面白いところがあったような気がするのです。ちょうど一休さんのような、風狂といいますか、トンチといいますか、ユーモアの精神があったのではないかと推測されるのです。
 そのため、同じような理由から、道元はおそらく、「不詳な弟子がいたから、その地面を7尺も掘った」などと、まことしやかに(実は冗談半分に)、在俗信者たちに話し、信者たちはその話を鵜呑みにして、それが、前回ご紹介したエピソードとして伝えられたのではないかと思うわけです。

 もちろん、真偽はわからないのですが、いずれにしろ、宗教や偉い人の教えだけでなく、それに伝わるエピソードというものも、私たちはつい、そのまま信じ込んでしまう傾向があるような気がします。それも正しくない気がするのです。
 どんなことも、しっかりとした客観的で公平な目で、見つめる必要があると思うのです。


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 道元の潔癖主義

 今回は道元について取り上げてみたいと思います。
 ご存じのように、道元は中国から日本に禅を持ち込んだ曹洞宗の開祖であり、彼の著作『正法眼蔵』は、仏教界の偉大な遺産ともいうべきもので、私も、道元はすばらしい高僧であると思っています。
 しかし、そんな道元に、次のようなエピソードがあるのです。

「道元は(師匠である如浄の)「国王大臣に近づくなかれ」という教えを守って鎌倉暮府には決して接近せず出家主義を貫いていたが、帰依者のたっての頼みに折れ、約半年、鎌倉で教化につとめたことがあった。が、北条時頼に寺を建てるから鎌倉に留まってほしいと懇願されるや、ただちに鎌倉を去り、越前の永平寺に戻った。
 ところがその後、弟子の玄明が喜びいさんで時頼からの越前の土地の寄付状をもち帰った。もちろんこれは時頼の好意である。弟子の玄明がそれを喜んで触れ回ったのも、師を思ってのことだったろう。
 しかし道元は烈火のごとく怒った。すぐさま玄明の法衣を剥ぎ取って寺から追放し、彼の坐禅の座席を取り去り、のみならずその床下の土を掘り捨てること7尺に及んだという」
『禅の本』(学研)より

 これについて、この記事を書いた著者は次のように感想を述べています。
「この道元の行動には、好悪があって当然だろう。これを、名利を嫌った道元の高潔さを示す逸話といいきることは、筆者にはできない。「その床下の土を掘捨てること7尺」という部分には、道元その人の中に潜む、底深い人間の澱のようなものを感じずにはおれない」

 私も、この著者の意見に同感です。
 これは、あきらかにやりすぎだと思います。何か病的なこだわりさえ感じられます。あらゆるこだわりを捨てるのが禅の理想の境地であるはずなのに、道元は、潔癖ということにこだわり過ぎていると思います。これでは、弟子の玄明があまりにもかわいそうです。師匠のためを思い、邪な心からではなく、純粋に喜んだだけであって、それだけのことで追放し、しかも、その弟子の座っていた床下を7尺も掘るというのは、いったいどういうことなのか、理解に苦しみます。弟子に対する慈悲のかけらも感じられません。
 つまり、道元は、仏教の本質である「とらわれのなさ」と「慈悲」について、ここでは完全に持ち合わせていなかったことがわかります。これを見ると、道元は本当に悟りを開いていたのかと、疑わしい気も生じてきます。それとも、悟りを開いた人であっても、このようなことをする、ということなのでしょうか?
 1尺は約30センチですから、2メートル10センチも深く掘ったことになります。ショベルカーなどない当時、これだけの深さの穴を掘るというのは、相当な労力と時間がかかったのではないかと思います。たぶん、弟子に掘らせたのだと思いますが、こんなことのために、穴を掘らされる弟子もかわいそうです。

 仮に、この出来事を好意的にみて、これはすべて弟子達に対する教えであるという解釈も、できなくはありません。つまり、道元自身は何とも思っていなかったのですが、「仏道を清く正しく歩む」ことを弟子たちに教えるために、わざとこうした「芝居」をしたのであると。
 しかし、2メートル以上も穴を掘る必要があったでしょうか? また、その「教え」のために追放された玄明はどうなるのでしょうか? 彼はまったく悪くはない。それなのに、他の弟子を教化するために追放させられたことになるわけで、これではあまりにも玄明が気の毒です。そこまでする必要が、果たしてあったのか?

 こう見てくると、いかに聖者であっても、そのすべての言動が正しいわけではなく、絶対的なものとして受け入れる(盲信する)ことは、正しくないことがわかると思います。少なくても、正しくない可能性があるという認識を持つべきではないでしょうか。もちろんだからといって、道元の業績すべてを否定するのも間違いです。両極端は避け、「正しいものは正しいとして受け入れ、正しくないものは正しくないとして拒絶する」という姿勢が大切だと思うのです。権威主義に脅えて、自分に嘘をついてはいけないと思うのです。もちろん、自分が間違っている可能性もありますから、そう思う自分自身を絶対的に正しいと思うことも間違っています。
「これは正しくないと、私は思う。正しいとは思えないのだから、それが正しいと思えるようにならない限り、自分に正直になって、そのことを正しいと見なすのはやめよう。しかしいつでも、自分の方が間違っていたら、それを改める気持ちを持ち続けよう」
 こういう姿勢こそ、本当の求道の姿勢だと思うのです。

 ただ、今回のこの道元について言えば、実は、私はちょっと別に思うことがあるのです。これについては、次回、ご紹介させていただきたいと思います。

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