心の治癒と魂の覚醒

        

脳は超能力を持っているか?

 アリゾナ大学意識研究センターの所長で麻酔科医でもあるスチュアート・ハメロフは、英国の著名な物理学者ロジャー・ペンローズとの共同研究によって、脳細胞にはマイクロ・チューブル(微細管)と呼ばれるものが存在し、そこで「量子もつれ」の現象が起こっていることを発見したといいます。
 まずは、「量子もつれ」とは何かについて簡単に説明します。
 電子、光子、クォークといった物質の最小単位のことを素粒子と呼びますが、この素粒子が量子です。
 量子には常識をくつがえすような不思議な特徴がいくつかあるのですが、そのなかでも、もっとも不思議なのは、「量子どうしはどんなに離れていても瞬時にして情報を伝達する」という性質です。これが「量子もつれ」です。たとえば、銀河系の両端ほど離れていても、量子は瞬時に情報を伝えるのです(実験的に証明されています)。
 さて、脳細胞の中で量子もつれが起きているとは、どういうことを示しているかというと、離れた脳細胞どうしが情報をダイレクトに伝達しているということです。
 つまり、今までの考え方だと、個々の脳細胞は互いに連結していて、情報は電気信号によってドミノ倒しのように他の脳細胞へと伝わっていくとされます。
 ところが、ハメロフの説では、情報は直接につながっていない細胞どうしの間でも伝達されているというのです。いわば、脳細胞の間でテレパシーのような現象が起きているというわけです。
 そしてハメロフによれば、こうした量子もつれは、個人の脳内だけで起きているのではなく、他者との間で、さらにはあらゆる物質との間にも起きていると主張しています。
 つまり、ある人の脳細胞の情報が、他の人の脳細胞へ情報を伝達しているというのです。これはつまりテレパシーということになります。量子そのものは個人も他者も区別がありませんから、理屈としては、こうしたことがあっても不思議ではありません。
 さらには物体へと情報が伝達するといいます。物体に脳細胞の情報、つまり意識情報が記録されるのです。そして、その記録された情報が別の人の脳細胞に情報を伝達する可能性があるということです。これはサイコメトリーということになります。
 
 以上のようなハメロフの主張は、まだ仮説の段階で、証明されたわけではありません(ただし脳細胞の中で量子が活動している現象が生じていることは、他の科学者の実験でも証明されています)。
 したがって、脳が超能力を持っていること、言い換えれば、超能力は脳の機能のひとつであることは、断言はできませんが、その可能性がありえるということになるのです。
 そうなると、魂だとか、霊といったものを持ち出さなくても、いわゆる霊的現象については説明できてしまいます。「超能力」と表現していますが、そのメカニズムが量子の働きによるものだとわかれば、「超」能力ではなく、当たり前の能力ということになります。

 もし脳がテレパシーやサイコメトリーといった超能力の機能を持っているとすれば、霊能者や臨死体験者が、誰も知らない事実を言い当てたりするのも説明がつきます。別に霊的なものを持ち出す必要はないのです。
 つまりこういうことです。
 脳というものは、何らかのイメージを通して情報を受け取る傾向があります。たとえば「お母さん」という言葉を耳にしたとき、自分が持っているお母さんのイメージを思い浮かべるはずです。「平和」といった抽象的な概念であっても、その言葉を聞いたとき、何らかのイメージが脳裏に湧きあがるはずです。脳というものは、とにかく何らかのイメージを常に描く習性を持っているわけです。完全にイメージなくして脳を機能させることは不可能ではないかと思います。
 そして、超能力によって何かの情報を感知する場合、もしも「自分にはそんな能力がない」と思い込んでいるとすると、「誰かから情報を教えてもらう」という考えになるはずです。そのとき、たとえば守護霊とか指導霊といったイメージを作り出し、そのイメージから情報を引き出すという形になるのではないかと考えられるわけです。
 たとえば、自分の超能力で危険を察知したのに、「守護霊のお告げ」というかたちになったりするわけです。
 チャネリングなどは、「高級霊」などが自分にメッセージを送ってきたとされますが、脳が高級霊というものをイメージして、その高級霊から情報を教えてもらうというかたちになっているのかもしれません。
 その「高級霊」は、誰も知らない事実を知らせたりするので、本当にそのような存在がいるものと錯覚してしまいますが、実際には脳の超能力が発揮されたに過ぎない可能性があるわけです。

 人間というものは、未知なるもの、理解不能なものに遭遇すると、すぐに神だとか霊といった超自然的な存在をイメージし、それが原因であると決めつけてしまう癖があるようです。
 たとえば今でも未開の住民はそうかもしれませんが、かつて雷は「神の怒り」などと考えられていました。疫病は「悪魔の仕業」で、統合失調症は「浮かばれない霊の憑依」といった具合です。
 しかし、科学が進歩し、雷は異なる空気どうしの摩擦で生じた電気であり、疫病はウイルスによるものであり、統合失調症は脳内分泌物のアンバランスによるものだということがわかってくるにつれ、そうしたものが神や悪魔の仕業などとは考えなくなりました。
 確かに、電気というものを知らなければ雷は不思議に思われたでしょうし、顕微鏡が発明されていない時代、疫病も不思議であり、統合失調症も不思議に思われたことでしょう。不思議に思うことは当然なことです。
 問題は、その不思議なものの真の正体を探求しようとせず、安易に神だとか霊の仕業などと解釈してしまったことにあります。同じあやまちを、宗教やスピリチュアルの信奉者も犯しています。理解不能な現象を、神や霊的なものが原因であると決めつけているのです。
 今後、量子力学や脳科学といったものが発展していけば、「霊」などというものを持ち出していた今の時代が、いかに原始的で幼稚で未開な状態であったか、将来、笑いながら振り返る日が来るかもしれません。
 あるいはもしかしたら、本当に神や霊といったものが原因であったと証明されるかもしれません。それはわからないのです。
 わからないものは、わからないとして、安易にその正体を決めつけたりせず、どこまでも探求していく姿勢こそが大切だと思うのです。
 そのために、今回、霊的現象は脳が作り出したものであり、魂とか霊といったものではない可能性がある、ということを紹介させていただいたわけです。

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臨死体験と超能力

 前回は、霊界は脳が作り出した幻想の可能性があるという説明をしました。
 ところが、脳の幻想では説明できないような現象があるのです。
 たとえば臨死体験などで、生まれつき目の見えない人が手術中に臨死状態になり、魂が肉体から離脱して天井あたりに浮遊し、その手術の様子を眺めていたという報告があります。後にその人から手術の様子を尋ねると、細部にわたって一致していたというのです。
 また、同じく臨死状態になったある患者は、魂になって窓から外に飛び出しました。そのとき病院のベランダに靴の片方が落ちているのを見ました。それはベランダを上から見なければわからない場所に落ちていたのです。その患者はもちろん、そのような高さからベランダを見たことがありません。そして実際、その患者が言った通り、片方の靴が見つかりました。
 さらに、こういう話もあります。臨死状態で魂が離脱し、遠くの友達のところに行って、その時間に友達が何をしていたのか目撃し、臨死状態から覚めた後で確かめたところ、まさにその友達は目撃した様子と同じことをしていたのでした。

 以上のような出来事は、単に脳の幻想では説明ができないように思われます。魂のようなものが肉体から飛び出したとしか考えられないように思われます。
 これについて、私はこう考えています。
 まず、人間にはテレパシーや透視などの超感覚能力(ESP)が備わっているということです。私は霊的な世界については懐疑的ですが、超能力の存在は肯定しています。なぜなら、数々の実験によって疑いようのない事実として証明されているからです。
 たとえば、この世界の先駆者であるJ・B・ライン博士は、厳密な実験を何回も繰り返し、テレパシーの存在を統計的に証明しました。
 今でも、プリンストン大学など、世界に名だたる大学のなかに超能力の研究室がたくさんあります。かつてソ連が大規模な国家予算を投入して超能力の研究をしていたことは有名です。
 私も一時期、超能力は本当に存在するのか集中的に研究したことがありますが、これは確かに存在します。間違いのない事実です。
 霊的な事柄を論じる上で、私が注目している超能力は、テレパシーと遠隔透視とサイコメトリーです。
 テレパシーはご存知のように、言葉を通さず思念だけで情報を伝達する能力です。遠隔透視(リモート・ビューイング)は、遠くで生じている出来事を、映画のように見ることができる能力です。
 サイコメトリーとは、過去に起こった出来事を読み取る能力のことです。ときどき「超能力捜査官」と呼ばれる人が、未解決の事件を解決するというテレビ番組が放映されていますが、彼らが持っている能力がサイコメトリーです。犯罪が行われた光景を、まるで映画を見ているかのように脳裏に映し出すことができるのです。そうして、犯人の人相だとか、どのように犯罪が行われたかといったことを言い当てるのです。
 もちろん、こうした能力は百%当たるわけではありません。はずれることも多いのですが、それでも驚くような結果を出しています。実際、今から30年以上前、有名なサイコメトリー能力者が日本のテレビ局の招きで来日し、行方不明になっていた女の子の場所を特定して見つけました(貯水池に死んで浮いていた)。当時、この番組は大きな話題となりました。人の生死にかかわることなので、やらせではないでしょう。
 このサイコメトリーが何を意味しているかというと、この世界で生じた出来事の情報は、消滅せずにどこかに記録されているということです。言い換えれば、過去の出来事はすべて記録されているのです。その記録された情報にアクセスするのがサイコメトリーということになります。このことは、霊的な事柄を検証する上で重要なことなので、頭の中に入れておいてください。

 さて、このように、人間には、テレパシー、遠隔透視、サイコメトリーといった超能力が備わっているのですが、冒頭で紹介した臨死体験も、これら超能力の働きとして説明できます。すなわち、目の不自由な人が手術の様子を見たのも、遠く離れた友達の様子を見たのも、ベランダの靴を見たのも、遠隔透視で説明ができます。
 また、その他、たとえば霊界で言葉の通じない外国人と会話を交わすという体験はテレパシーで説明できますし、霊界で過去の状態を知るのはサイコメトリーで説明ができます。
 問題は、そのような超能力は、いわゆる魂と呼ばれているものに備わっているのか、それとも、脳に備わっているのか、ということになります。
 もし魂に備わっているのだとすると、霊界は存在する可能性が高くなってきます。しかし、脳に備わっているとすると、霊界が存在する可能性は低くなってきます。霊界を持ち出す必要はなくなるからです。
 スピリチュアルを信じる人は、以上のような超能力的な現象があるから、霊的なものは存在するのだと主張します。私も長い間、そう考えていました。脳はコンピューターのような機械であり、物質であって、それゆえに時空を超えるような能力は備わっていない。時空を超えられるのは魂だけである。だから、霊的なものは存在するのだと。
 ところが、最近の科学研究により、脳そのものに超能力の機能が存在している可能性が出てきたのです。
 もしそうだとすると、霊界という場所は、脳が超能力によって知られざる情報を感知し、その情報を織り込んで幻想を作り出したものだと解釈できます。それが幽体離脱の正体ということになります。魂が肉体から離脱して遠く離れた友人の会話を見聞したという体験も、遠隔透視の超能力が作用しただけで、実際に魂が肉体から離脱したのではないのです。そのような幻想を見て、そこに感知した情報が織り込まれたということです。その情報が客観的な事実として一致しているので、あたかも魂が離脱して見聞してきたかのように思えますが、そうではないということです。
 では、本当に、脳には超能力の機能が備わっているのでしょうか?
 次回は、その点について説明したいと思います。

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霊界は存在するか?


 霊界の存在を否定している宗教は、おそらくないと思います。霊界が存在しないということは、この世界は物質的な地上世界だけであり、死後の魂が存在する場所がないことを意味します。ということは、魂も存在しないことになり、これでは宗教というものが成立しないでしょう。
 したがって、もし霊界の存在が否定されたとしたら、宗教やスピリチュアルというものを根幹から否定することになるかもしれません。
 では、実際のところ、霊界というものは、果たして存在するのでしょうか?
 私はきわめて疑わしいと考えているのです。
 次に、その理由を説明してみたいと思います。

 ほとんどの宗教は霊界の存在を説いています。比較的シンプルなのは、霊界には天国(極楽)と地獄があり、その中間があるといったものです。 「幽界・霊界・神界」といったように分類している人もいれば、神智学などでは、さらに多層的なものとして解説されています。
 もし霊界というものが存在するなら、なぜ人によって、このように見解が異なるのでしょうか?
 仮に、神智学でいうような多層的な構造をしているとしたら、なぜどの人も同じようにそれを見ないのでしょうか?
 これについては、霊界を観察した人の能力の限界があるという可能性もあります。たとえば、この地上でも、視力が弱ければあまりよく見えませんし、視力がよければ、詳しいことも見えます。
 それと同じように、霊的な能力も、人によって違いがあることは十分に考えられますから、それが理由なのかもしれません。
 もしも、能力に差がないとしたら、見る人によって霊界の構造が違うというのは、誰か一人だけが真実を説いているか、あるいは、すべて真実ではないかのいずれかになるでしょう。
 これについては、今の時点ではわからないので、とりあえず、霊的な能力の違いによって、霊界の構造に関して違う見解があるのだとしておきます。

 ところで、霊界をはじめ、生まれ変わりだとかカルマの法則といった、霊的な事柄に関する情報が送られてくるソースは、およそ次の4つあると言えると思います。
1.霊能者が幽体離脱して霊界の様子を見聞して報告された情報
2.チャネリングを通して霊界の住民から教えてもらった情報
3.臨死体験を通して得られた情報
4.退行催眠を通して得られた情報

 1の代表的な人物は、スウェーデンボルグ、出口王仁三郎、ロバート・モンローなどがあげられるでしょう。2は、『霊の書』『シルバーバーチの霊訓』といったものが古典として知られています。その他、最近のスピリチュアルを含めるとたくさんあります。3も4も、その種の本がたくさん出ています。
 こうした本を読みますと、ほぼ共通したことが言われています。ここではとりあえず、臨死体験をとりあげて話を進めてみます。

 臨死体験は、重篤な事故や病気などで、魂(幽体)が一時的に肉体から離脱し、天井付近に浮揚したり、その後、霊界に行ってその様子を見たりする体験です。そして、天国らしき美しい情景が目の前に広がり、そこに行こうとするのですが、「あなたはまだこちらに来る時期ではない」といった声が聞こえたりして、気がつくと肉体に戻っていた、といったパターンがたいてい共通しています。
 さて、ここで、目の前に天国のような美しい情景が広がり、そこへ行くためには、日本の場合、川が見えるという報告があります。いわゆる彼岸と此岸の間にある「三途の川」です。どうも、向こう側に行ってしまうと本当に死んで肉体には戻ってこれないようなのです。
 こうした霊界の光景を見た臨死体験者は、それがあまりにも生々しくリアリティがあったと語ります。夢のような、ぼや~としたものではなく、この地上世界と変わらないほどはっきりとした現実感があったというのです。ですから、体験者のほとんどは、霊界は存在すると確信するに至ります。

 しかし私は、それでも霊界は幻想で存在しない可能性が高いと考えます。
 それは以下の理由からです。
 霊界の様子は、その人が生きてきた文化を色濃く反映しています。日本人の臨死体験者は彼岸と此岸の間に川を見ることが多いのですが、西洋人の臨死体験者の報告には、川はほとんど出てきません。それはおそらく、私たち日本人は「三途の川」があると聞かされてきたからではないかと思います。
 また、霊界には建物が見える場合があるのですが、日本人の臨死体験者は日本的な家が建っているのが見え、西洋人の臨死体験者は、西洋的な家が建っているのが見えるのです。
 私は以前、実際に臨死体験をした人から直接、話を聞いたことがあります。その人は結婚して日本に長く住んでいる台湾人の女性でしたが、病気で死にかけて、霊界に行きました。そして、目の前には、巨大なチューリップが咲き乱れる美しい光景が見え、その前には川があり、橋がかけられていたといいます。
 私は「巨大なチューリップ」というのを初めて聞いたので詳しい説明を求めると、その女性が言うには、巨大なチューリップは「蓮の花」にも似ていたと言います。
 おそらく、彼女にとって「花」というとチューリップが思い浮かぶのだと思います。そして極楽には「蓮の花」があると、仏教が盛んな国では言われています。ですから、チューリップと蓮の花とが融合されて「巨大なチューリップ」というものを見たのではないかと思うのです。ちなみに、西洋人の臨死体験者で「蓮の花」を見た人は、私が調べた限りではいません。
 また、この台湾女性によれば、川にかけられた橋は赤い色をしており、竜の模様が刻まれていたとのことです。つまり、中国風のデザインがされてあったということです。
 その後、この女性は、背後から自分の名前を呼ぶ声が聞こえ、気づいたら病院のベッドで意識が戻ったということです。
 この女性も言っていましたが、この体験は夢のようなぼんやりしたものではなく、現実世界とまったく変わらないほどリアルであったということです。彼女は霊界は存在すると自信に満ちた調子で主張していました。

 さて、以上、お気づきになったと思いますが、臨死体験による霊界の様子は、その人が生きてきた文化の影響を受けているということです。このことは、彼らの見た霊界が、自分が作り出した幻影の可能性が高いことを示しています。
 なぜなら、もし、霊界という場所が客観的な世界だとすれば、東洋人だろうと西洋人だろうと、生まれ育った文化に関係なく、同じ光景を目にするはずだからです。
 しかし、そうではありません。その人の記憶にあったものが、外的な世界に投影されて現前しているのです。これは、どんなにそれが鮮明でも、基本的に夢と変わりません。
 ある世界が存在すると言えるには、その世界は他の人と共有されている必要があります。たとえば、私とあなたが同じ場所に行けば、同じデザインの建物や景色を見るはずです。もし見るものが違うとしたら、その世界は客観的に存在するとは言えません。
 さきほど紹介した台湾の女性に、フランス人の友達がいたとしたら、死後、そのフランス人と会うことはないはずです。なぜなら、そのフランス人は、巨大なチューリップや中華模様の赤い橋などは見ないだろうからです。おそらく、フランスにある建物のデザインをしたものを見るでしょうし、フランスの田園地帯に咲き誇る花を見るでしょう。

 ところが、死後、外国人の友達と会うという経験をしている臨死体験の報告もあるわけです。たとえば、日本的な家屋が建ち、日本的な田舎の光景のなかで、アメリカ人の友人と会ったりするわけです。
 しかし、アメリカ人は、アメリカ的な光景を見るはずです。
 つまり、どういうことかと言うと、そのアメリカ人も、結局は自分が作り出した幻影だということです。本当にそのアメリカ人と会ったわけではないのです。
 こう考えると、少なくとも臨死体験者が語る霊界は、存在していない可能性が高くなります。結局、それは脳の働きによる幻想だということになります。脳は、幻想を非常にリアルに感じられる機能を持っているようです。統合失調症の人は、非常にリアルな幻覚を見るようです。それがあまりにもリアルなので幻想だと気づかないのです。脳には、このように、幻想をリアルな感覚として見る働きが備わっているのです。
 そのために、臨死体験者は、自分の見た幻想を真実だと錯覚し、霊界は存在すると思い込んだのではないかと思います。このことは基本的に、霊能者が霊界の様子を見たということにも当てはまると思います。霊能者はただ幻想を見ただけなのです。退行催眠で霊界を見たという証言も、おそらく幻想です。
 まとめると、霊界という場所が客観的に存在するのであれば、すべての人が同じ光景を見るはずです。しかし、生まれ育った文化の違いで霊界の様子も異なるということは、霊界は客観的な存在ではないことになり、客観的な存在でなければ主観的な存在、つまり個人の意識が投影された幻想ということになるのです。
 そして、生まれ育った文化の記憶は脳に蓄えられているので、要するに霊界とは、脳が生み出した幻想の可能性が強くなってきます。

 ところが、次のようなケースがあります。
 ある人が、臨死体験の最中、霊界で幼い頃に行方不明になっていた人と会う経験をしました。その人も臨死体験か何かの原因で、生きていながら霊界に参入していたようです。時がたっていたので立派な大人に成長していました。その姿の特徴をはっきりと覚えていたといいます。その後、しばらくして、その人と地上で会うことができたのですが、その姿は、臨死体験(霊界)で目撃した姿そのままだったと言います。
 これが事実だとすると、霊界は脳が作り出した幻想だと片付けることはできないようにも思えてきます。
 しかし、それでもなお、霊界は幻想であり、実在していないと考えられるのです。
 次回は、この点について説明してみたいと思います。

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霊界や生まれ変わりは果たして存在するのか?


 これから、「霊界と生まれ変わりの真実」という新たなカテゴリーをもうけて、この問題について論じていきたいと思います。すなわち、霊界だとか生まれ変わり、また、カルマの法則というような、宗教やスピリチュアルの教えの屋台骨ともなっている考え方が、果たして真実なのかどうかを考えていきたいと思うのです。
 ただ、結論はもう出ています。
 それは、「わからない」です。霊界や生まれ変わりが存在するという主張もあれば、存在しないという主張もあります。私はそのどちらにも耳を傾けてきました。しかし、両者とも説得力がありません。確実に存在するという証拠も、存在しないという証拠もないからです。今後、そうしたものが存在する(あるいは存在しない)ことを、科学的な客観性と実証性をもって証明される日が来るかもしれませんが、それまでは「わからない」とするのが、もっとも妥当な見解ではないかと思います。

 では、いったい何のために、このようなテーマを論じていくのかという理由ですが、わからないものをわかっているかのように思い込んでしまう、人間心理の問題点を指摘したいためです。宗教やスピリチュアルを信奉する人は存在すると信じ込んでいます。そうしたものを存在しないと主張する人たち(科学者と呼ばれる人が多いですが)は、存在しないと信じています。両者とも「信じている」という点で問題があるのです。
 客観的でしっかりしたデータに基づいて論理的に思考した上で、何かの存在を認めたり認めなかったりするのが科学的な方法であり、科学者の役目だと思うのですが、霊的なことを否定する科学者たちは、ろくに研究もせず、自分たちの科学観に合わないという理由だけで頭から否定しています。これは科学的な態度ではありません。わからないものを肯定するのも否定するのも、ともに「盲信」です。盲信していたら、科学の進歩は望めません。
 たとえば、電波が発見されていなかった時代、電波で遠く離れた人どうしが会話できると主張した発明家を、周囲の人は頭がおかしいと言って精神病院に連れていこうとしたというエピソードがあります。あるいは、二十世紀初頭に発見された量子の存在は、これまでの物理学の常識を根底から覆すものでした。もし今までの考え方ではありえないから存在しないのだとしたならば、私たちは今日、携帯電話など持っていなかったでしょうし、量子物理学といった分野も生まれていなかったでしょう。「盲信」は、科学の発展を妨げるのです。
 もしかしたら、霊的な世界は存在するかもしれません。それが科学的に証明されたら、人類は新たな文明の進歩を踏み出すことになります。

 ところが、このように主張すると、科学者たちは、「存在するという証拠がなければ、存在しないと決めてよいのだ。存在しない証拠を見つける必要はない」と言ったりします。
 私はそうは思いません。たとえば、むかし、この空間には「エーテル」と呼ばれる未知の物質が充満していると考えられていました。光はそのエーテルを媒体として伝わると考えられていたのです。多くの科学者がエーテルを発見しようと必死にがんばっていました。ところが、マイケルソンとモーリーという二人の科学者が、エーテルは存在しないことを実験によって証明しました。そうして科学者たちは、エーテルという存在しないものを追いかける無駄な努力から解放されたのです。
 同じように、霊界だとか生まれ変わりといったものが、存在しない(とすればですが)ことが科学的に証明されていないから、つまり、あいまいでわからないままだから、そうしたことを信じている人がたくさんいるわけです。また、そうしたものを商売にしている人たちがたくさんいて、おかしな宗教やカルトが社会に害悪を撒き散らしているわけです。
 もしも科学的に存在しないと実証されれば、そうした弊害はなくなり、私たち人類は盲信からひとつ目覚めることができます。そうして、新たな可能性の段階に向けて進んでいけるわけです。ですから、「存在しないことを証明する」という試みは大切なのです。

 もちろん、ここでは、存在する証拠も、存在しない証拠も提示することはできません。ただ、霊的な事柄を盲信している人に対して、「そうしたものは存在しない可能性がありますよ」ということを伝えていきたいと思っています。否定ではなく、疑わしいと言いたいのです。
 そうして、そのようなあいまいなことに依存しない、新たな生き方を求めていくべきだと思っているのです。それこそが、おそらくは人類の意識進化の次の段階だと思うからです。
 けれども、こうした記事はあまり人気がないと思います。
 というのは、人間は結局、信じたいものを信じる、という特性があるからです。「わからないもの」は正直に「わからない」とするべきなのに、それを根拠なく信じたり、あるいは否定したりするのは、信じたいから信じるのであり、否定したいから否定しているに過ぎません。
 そのため、「肯定も否定もできないですよ」と主張することは、どちらの側にとっても、その人たちの「欲求」に水を差すことになります。だから、煙たがられたり、憎まれたり、あるいは無視されたりするのではないかと思います。たとえるなら、甘美な夢を見て眠っているのに、たたき起こすようなものだからです。
 キリスト教を信じている人は、キリスト教が真実だから信じているわけではなく、キリスト教を信じたいから信じているのです。仏教も、その他の宗教も同じです。何らかの面で自分の欲求を満たしてくれそうだと感じたから信じたのです。そして、その後で「この宗教は真実だ」などと、あれこれ理屈づけを考えていき、自分の信じる宗教は真実なのだと一生懸命に自分を説得しようとするのです。悪く言えば、自分で自分を洗脳しようとするのです。
 霊界も、生まれ変わりも、カルマの法則も同じです。そうしたものが存在したらいいという期待や欲求があるから、信じるようになったのです。信じると、ますます真実のように思えてきます。それは錯覚なのですが、錯覚とは気づかないのです。洗脳だからです。
 もちろん、これは私の考えです。私の考えが真実かどうかもまた、わかりません。

 人は自分の信じているものを否定されると怒ったり不安を覚えます。感情的に乱されます。それは自分の欲求が否定されたからです。それはアキレス腱(弱点)です。弱点を攻められるのは脅威なので、自分の教えを否定する人や疑う人を避けたり、あるいは攻撃したりするのです。
 そのように、避けたり攻撃したりするような状態では、とても意識レベルが高いとは言えないでしょう。人類に戦争がなくならない原因もそこにあるのだと思います。
 これが「信じること」の弱点であり弊害です。
 あえて、信じることの恩恵を言えば、精神安定剤を服用したときのように、一時的に不安を和らげてくれることです。それはそれでまったく意義がないとは言いませんが、それには依存性(それがないと苦しくなる)があり、副作用(不安を麻痺させるだけでなく、人生で大切なその他の感覚も麻痺させてしまうなど)があります。
 したがって、精神安定剤が「治療薬」ではないのと同じように、信じること、すなわち信仰は、根本的な救いにはならないのです。救われたような錯覚を起こさせるだけです。総合的に考えれば、依存性や副作用の弊害の方が大きいと思います。
しかし「わからないのだ」ということを受け入れることのできる意識であれば、怒りも不安も生じません。争いも起きません。もともと何にも依存していないので、依存性も生じなければ副作用も生じません。薬に依存している限り健康とは言えないように、信仰という精神安定剤の服用をやめない限り、私たちが真に健康になることはないと思います。松葉杖をついている限り、歩くことはできません。それどころか、ますます筋力が衰えて歩けなくなってしまいます。
 「良薬は口に苦し」と言いますが、いい気分にさせてくれる精神安定剤のような信仰よりも、苦味を与えてくれる考え方の方が、人を覚醒させ、本当の救いをもたらしてくれる可能性があると思っています。
 何ものにも依存しない意識こそが、これからの時代に向けてめざしていくべき方向だと思うのです。それが真の意味での「霊性の進化」ではないでしょうか。


*次回から、本題に入っていきます。まずは「霊界は妄想であり存在しない(可能性がある)」という点について、そう考える根拠を紹介しながら説明していきたいと思います。

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追悼 日野原重明先生

 本日、聖路加国際病院の現役医師として活躍してこられた日野原重明先生が、105歳でお亡くなりになりました。心よりご冥福をお祈りしたいと思います。
 日野原先生には、私の本『ブーバーに学ぶ』(日本教文社)の帯に推薦文を書いていただいたご縁で、一度お会いしたことがあります。
 推薦文を誰か有名人に頼む場合、普通は著者か出版社にコネがないと、なかなか難しいとされています。いきなり頼んでも無視されるか断られるかされることが多いようです。
 しかし私は、日野原先生がブーバーを尊敬されており、ときどき著書や講演などでブーバーに言及されておられたのを知っていたので、日本では知名度の低いこの偉大な哲学者を知っていただくには、日野原先生ほどの適任者はいないと思い、ダメでもともと、日野原先生に手紙を書きました。
 すると、すぐに、先生から快諾のご返事をいただいたのです。私も編集者もびっくりしました。私など、どこの馬の骨かわからないもの書きに過ぎず、日野原先生ほどの名声と知名度のある人から相手にされるような存在ではないのですが、先生はそのようなことにこだわらず、推薦文を書いてくださったのです(ちなみに、その推薦文に対して出版社が支払った報酬はたったの5万円でした。もちろん、先生はお金だとか、そういうことのために推薦文を書いてくださろうとしたわけではなく、尊敬するブーバーの本ということで書いてくださったのですが)。
 そこでさっそく、本のゲラを先生にお送りして推薦文を頼みました。
 普通、そのようにして有名人に推薦文を頼んでも、いつまでもダラダラと待たされることが多いようなのですが、日野原先生は、すぐに推薦文を書いて送ってくださったのです。これにはまたびっくりしました。
 そして、まもなくして、何と、私の携帯電話に、日野原先生から電話があったのです。そして次のようにおっしゃってくださったのです。
 「このたびはすばらしい本を執筆してくださり、ありがとうございました」
 私はびっくりするやら、恐縮するやら、有り難いやらで、胸がいっぱいになりました。何ていう細かい気遣いのある、そして謙虚な方なのかと思いました。
 私は今まで、何人かの一流の人と会ったことがあります。
 彼らのほとんどは例外なく、謙虚でした。謙虚というか、自然体なのです。偉ぶることもなく、虚栄といったものがありません。一方、そこそこ成功して有名な人という人は、けっこう傲慢な人が多いです。二流は傲慢、一流は謙虚です。中途半端な人は傲慢、本物は謙虚と言ってもいいでしょう。これは、おそらく真理です。
 そして、本ができたので、お礼と本を贈呈するために、編集者と一緒に聖路加国際病院の日野原先生の部屋に伺いました。机の上には、執筆中と思われる原稿やら資料などがたくさん置かれていました。
 先生は、私たちを快く迎えてくださいましたが、そのときも先生は自然体でした。すなわち、客をもてなすような過剰な慇懃さはなく、かといって、そっけなく対応するというのでもなく、まるでむかしから知っている間柄のような感じで、素朴な感じで迎えてくださったのです。
 そして、先生に本を差し上げました。こういう場合、たいてい社交儀礼的に(リップサービス的に)本を褒めてくれて、それでおしまいということが多いのですが、日野原先生は違っていました。「どうしたらこの本がたくさん売れるだろうね」と言って、その具体的な方法を提案してくださったのです。そうして、もっと表紙はこうした方がいいのではないか、といったアドバイスをしてくださいました。
 さらには「私が代表を務める学会の雑誌にこの本を推薦図書として紹介しておきます」と言ってくださいました。そしてその通り、後日、その学会の雑誌に私の本が推薦図書として掲載されました。またしてもびっくりです。
 日野原先生は、単なる口先だけではなく、本当にその人に必要な援助とは何かを考え、そうして親身になってアドバイスしてくださる方なのだと思い、今までそのような人は知らなかったので、びっくりしました。
 こういう感じで、日野原先生にはたくさんびっくりさせられましたが、その人間的な温かさ、誠実さ、そして実践的な知性には、深い感銘を受けました。

 日野原先生ご自身はキリスト教徒だったようですが、ユダヤ教の哲学者ブーバーを敬愛しておられました。普通は、いくら偉人であっても異教徒を尊敬するというのは抵抗があると思うのですが、日野原先生にはそのようなこだわりがなかったようです。しかしだからこそ、先生は真の宗教者でもあったのだと、私は思っています。
 先生は「人生に余生はない。死ぬまで現役だ」とおっしゃっておられました。そして、「自分は生かされているのだ。その生かされている命を、今度は恩返しとして人のために役立てたい」とおっしゃっていました。その言葉通り、生涯、現役で人々のために尽くされました。医師として、キリスト教徒(宗教者)として、そして何よりも人間として、私たちにお手本を示してくださいました。

 以上、私が経験した日野原先生のエピソードをご紹介させていただきました。
 私は、わずかな時間でしたが、日野原先生とお会いできたことを、大変な幸運であると思っています。なぜなら、数千万の本を読むよりも、たった一人のお手本となる人物と出会う方が、はるかにすばらしい影響を与えてくれるからです。
 私も日野原先生を見習って、人々のお手本となれるような人間になりたいと思いました。

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