心の治癒と魂の覚醒

        

神は存在するか?

 東日本大震災が起こったとき、原発事故による放射能が私の住む関東地方にも微量ながら流れてきました。そのとき、地震が起こる直前に関東地方から九州に引っ越した知人がいて、その知人から次のようなメールを受け取りました。
「危ないところで助かりました。神様って本当にいるんですね」
 それを見て、神が存在するかどうかという考えは、個人の狭い主観に基づいているのだなあと感じました。彼は、彼の言う神のおかげで助かったのでしょうが、関東地方に住む私は、ましてや東北に住んで被災された方たちにとっては、神は存在しないことになります。
 神はいると信じる人もいれば、いないと信じる人もいます。神を信じている人は、人生が恵まれていたり、あるいは苦難に遭遇したときに助かったといった経験を持っているのでしょう。そのために、「人間を苦しみから助けてくれる神は存在する」という信念を持ったのだと思います。
 しかし、それはあくまでも自分だけの限られた経験での尺度から導かれたものに過ぎません。本当にこの世に神が存在するかどうかは、世界中の人々を広く見渡し、そのなかでも、もっとも悲惨な境遇に見舞われている人を尺度として考えなければならないと思うのです。なぜなら、そのような悲惨な出来事は現実に起こっていることであり、そのような悲惨さは、誰もが経験することになってもおかしくないからです。いくら神に祈っても苦しみから救われない人だっているわけです。震災で亡くなった人たちは、「神様、助けてください」と祈らなかったのでしょうか? そうは思えません。おそらく、たくさんの人がそう祈ったと思います。けれども、助かりませんでした。それが現実なのです。私たちは現実という尺度から神は存在するかどうかを考えていかなければならないのです。
 冒頭で紹介した知人は、もし九州に転居せず、それどころか東北地方に転居して家族全員を失うという悲惨な経験をしたとしたら、どうでしょうか。果たしてそれでも「神は存在する」という考えを持ち得たでしょうか?
 このように、神は存在するかどうかについては、個人の狭い経験からではなく、広く世界を見渡し、そのなかでも、もっとも悲惨な人の体験を尺度にして結論づけなければならないと思うのです。

 私は、先日シリアで起こった化学兵器の攻撃によって、たくさんの子供たちが残酷な苦しみの中で殺されていった事実などを見るにつれ、「ああ、この世に神はいないのだな」と感じます。
 正確に言うと、「私たちが期待するような神」はいないのだと思うわけです。
 すなわち、私たちが「神」というとき、それは私たちを苦しみから救ってくれるような存在をイメージしています。その証拠に、神社仏閣にはたくさんの人がいろいろなお願い事をしに参詣しています。それで願いが叶えば神は存在すると信じるでしょうが、実際には願いが叶えられるとは限りません。受験に合格しますようにと祈っても落第することがあります。受験くらいならともかく、人生の壮絶な苦しみにある人が、最後の希望として神に救いを求めて祈るような場合であっても、その願いが叶えられるとは限りません。
 そのような意味で、私は「私たちが期待するような神」は存在しないとしか考えられないのです。世界のあまりにひどい残酷で悲惨な状態が、かくも頻繁に起こり、何の罪もない子供たちが苦しみ悶えて死んでいくのを見て、神はなぜ私たちを救ってくださらないのでしょうか?

 では、どのような神であるかはともかく、神というものは存在するのでしょうか?
 たとえば、いわゆる因果関係というものが普遍的な真理であるとするなら、つまり、原因があって結果があるという道理が真理であるとするなら、「この世界」というものが存在しているという「結果」があるわけですから、その「結果」をもたらした「原因」があるはずです。要するに、この世界の創造主が存在すると考えられます。その創造主を「神」と定義するなら、神は確かに存在すると考えられます。
 しかし、その神は、キリスト教が言うような「愛」でもなければ、人格的なものではないと思われます。なぜなら、世界を創造したくらいの絶大な力を持っているわけですから、その気なら人を苦しみから救おうと思えば簡単にできるはずだからです。しかし、それをしないということは、「愛」ではあるとは思えません。なかには、「そのような苦しみを与えることも、最終的にはその人を真の幸せに導こうとする意図があるので、それも愛の現れなのだ」と考える人もいます。しかしそうだとすれば、この地上で起こるどんな悲惨なことも「愛」になってしまいます。変質者に我が子を殺されてしまうのも、爆弾で子供が肉片となって散らばってしまうのも、すべてが「愛の現れ」になってしまいます。私たちはそんなことまで「愛」だと認めることができるでしょうか? 明らかに、そんなことまで「愛」と呼ぶのには、無理があります。そうなると、もうなんでもありになってしまい、愛と愛でないものとの区別がなくなってしまいます。
 創造主である神とは、ある種の法則のようなものであり、私たち人間が苦しもうと意に介さないのです。広大な宇宙に比べれば、地球など破滅しても、たいしたことではないのです。
 しかし、人間は弱いもので、人生の苦しみを乗り越えていくには、支えを求めます。そのために「苦しみから救ってくれる神」だとか「仏」だとか「菩薩」といったものを勝手に作り出してきたのです。そうして一生懸命に信仰に励むのですが、そうしたものは、期待から作られた幻想に過ぎません。つまり、宗教と呼ばれるものは、幻想によって成り立っているのです。神も宗教も幻想の産物なのです。

 神は愛ではありません。人格を持たないからです。
 しかし、もし「神は愛ではないが、愛は神である」と言う人がいたら、私はそれに賛成です。
 神が愛なのではなく、愛こそが神なのです。神というのは、実は愛のことなのです。
 神というとき、自分の信じる宗教に汚染されたさまざまなイメージが伴います。そして、自分の宗教で説かれている神こそ真実で、他の神は偽物だ」などと主張して争っているわけです。愚かなことです。神は無形であり、私たちのイメージをはるかに超えた存在です。神に関するわずかなイメージ、印象、考え、定義といったものを持ってはならないのです。それらは人間が勝手に創り出した虚像にすぎないからです。「神」という言葉を使うことそれ自体が、そもそも間違っているのです。神は名前をつけられるような存在でさえありません。
 しかし、「愛」には、「神」ほど特定のイメージに汚染されていません。個人によって多少のイメージは付随していますが、かなり普遍的なものです。「自分たちの愛こそ本物で、それ以外の愛は偽物だ」などと争ったりはしません。
 そして、私たちを救ってくれるものは、こうした「愛」なのです。
 もちろん、愛があればすべて救われるとは限りません。しかし、愛があるときは、おおいなる救いが得られることは確かです。全世界の人が愛を表せば、化学兵器で子供たちが死んでいくなどということは起こらないのです。天災ばかりはどうしようもありませんが、それでも被災した人をすみやかに救うことはできます。
 神に助けを祈ることは無意味です。せいぜい一時的な慰めになったり、苦しい気持ちを麻痺させる効果があるだけで、いわば麻薬や精神安定剤と本質的には同じものです。助けを求めても助かるとは限らないのが現実だからです。私たちは現実をしっかりと見つめなければなりません。
 おそらく、あと数百年後か、あるいは数千年後になるかもしれませんが、人類はいつか宗教という幻想から目覚め、地上に宗教というものが消えてなくなると思います。そして、その宗教に代わるのが「愛」です。
 私たちは、「神様、助けてください」と祈ることはやめ、「愛に目覚めることができますように」と祈るでしょう。「愛が地上に現れますように」と祈ると思います。
 そうして、愛が地上に顕現されたとき、私たちは真に神を見出すのです。しかし、そのときには誰もそれを「神」とは呼ばないと思います。神と呼んだ瞬間に、神ではなくなってしまうからです。

盲信からの解脱 | コメント:8 | トラックバック:0 |

幸せをつかむための二つの生き方


 前回は、幸せについて話しました。自分が幸せであるかどうかを査定することにはあまり意味がないこと、また、幸せを直接求めても得られず、副産物として得られるのではないかということを話しました。
 幸せというものが、それ以外の何かを求めた副産物の結果として得られるとすれば、私たちはいったい何を求めて生きていけばよいのでしょうか?
 それはいろいろあるでしょうが、私なりの意見を述べさせていただこうと思います。それは二つあります。

 まずひとつは、「自分らしく生きる」ということではないかと思います。
 花は花らしく、鳥は鳥らしく、魚は魚らしく生きているように、私たちも、自分らしく生きるべきであり、そうしたとき、もっとも幸せであるように思われるのです。
 ただ、「自分らしさ」とは何かが、よくわからない人もいます。実際、自分の好きなこと、自分はこういう仕事や生き方がしたいんだと、若いときからすでに自覚している人は珍しいかもしれません。たいてい、自分が何をしたいのか、どんなことに向いているのか、どんな生き方をしたいのかよくわからないまま就職し、そのまま人生の大半を過ごすことが多いかもしれません。
 自分が何をしたいのか、何が好きで、どんなことに向いているのかは、子供のときの行動を見ると、けっこうわかったりします。外で友達と交わるのが好きであったか、それとも、家の中でひとり趣味に没頭することが好きであったか? スポーツが好きだったか、読書が好きだったか? 旅行が好きだったか? 料理を作るのが好きだったか? 科学や数学が好きだったか? 文学や哲学が好きだったか?……。自分は子供のとき、どんなことが好きだったかを思い返してみると、「自分らしさ」とは何かがわかるかもしれません。
 自分らしく生きているとき、人は生き生きとして、生命から湧き上がるような喜びを感じるものです。はたから見てすごく努力しているように見えても、自分自身は努力しているとは感じません。そういう人は、とても魅力的に見えます。
 しかし、自分らしく生きていないときというのは、生気なくどんよりとした感じがしますし、歯を食いしばって生きているようなところがあります。喜びも感じられません。そして疲れやすい傾向があります。優秀な業績を残すことも少ないですし、そういう人は、はたから見てもあまり魅力を感じないものです。ちょうど、鳥が水中を泳ごうとするとか(ペンギンなどは別ですが)、魚が空を飛ぼうとするような、どこかちぐはぐで、ズレているというか、本来の姿ではない感じがするのです。
 なので、自分らしく生きることです。もちろん、それは口で言うほど簡単ではないでしょう。自分はミュージシャンや芸人が合っていると感じても、それで生計を立てていくのは容易なことではありません。ほとんどの人が、仕方なく普通のサラリーマンになって、自分らしく生きられないで一生を終えてしまいます。もともとサラリーマンだとか、ビジネスに向いていて、それが「自分らしさ」であるという人は、この世的には幸運でしょう。仕事は楽しく成功しやすいと言えるでしょう。
 けれども、芸術や芸能、詩や小説、宗教や哲学、スポーツ選手といった、浮世離れした世界に向いている個性を持って生まれてきた人は、なかなか厳しいと思います。そのような世界で生計を営んでいける人は、ほんの一握りしかいないからです。仕方なくサラリーマンになっても、鳥が水中を泳ごうとするようなものですから、なかなかうまくいかず、しばしば無能扱いされることもあるでしょう。せめて、本業とは別に趣味として、そういう世界で自分らしさを発揮していくしかないのかもしれません。本来、こうした世界は人類の進化向上にとって非常に大切なものなのですが、残念ながら現在のレベルでは、世間一般にはなかなか認められないのです。

 幸せのために求めていくとよいと思われる二つめは、「自分にしかできないことをする」です。これは、「自分らしく生きる」とも関連しますが、難易度はさらに高いかもしれません。
 この世界はオーケストラのようなもので、それぞれの楽器の音色は、その楽器しか出せません。バイオリンにトランペットの音色は出せません。同じように、あなたは、可能な限り、あなたにしかできないことをするべきです。それが結局は、この世界のためになるからです。
 その場合、その活動の大きさなどは関係ありません。たとえばオーケストラの場合、バイオリンは主役的な存在ですが、コントラバスは脇役的な存在です。トランペットやトロンボーンやホルンは大活躍しますが、チューバはそれほど活躍しません。ならば、コントラバスやチューバはなくてもいいかというと、そんなことはありません。それらがなかったら、交響曲は演奏できないのです。オーケストラのなかでは、どの楽器もかけがえのない存在です。
 同じように、自分にしかできないことが、社会的にみて、いかに小さなものであったとしても、それは必要なことなのです。栄養にたとえるなら、塩分やカルシウムは大量に必要であるのに対し、亜鉛やセレンなどは微量しか必要ではありません。しかし、亜鉛やセレンがなければ、人は病気になってしまいます。
 同じように、社会的に高く評価されて目立つものばかりでなく、誰からも認められることさえないようなことでも、自分にしかできないことをすることは、世界にとって必要不可欠なことなのです。そのような生き方をして生涯を終えたならば、たとえその業績が誰にも知られることがなかったとしても、その人生はすばらしく偉大であったと言えるわけです。
 もちろん、現実には、「自分にしかできないことをする」というのも、容易ではありません。ほとんどの仕事は、自分でなくても他の誰かができます。私たちは、まるで交換可能な機械のひとつの部品のようです。総理大臣といった、おそらくあらゆる職業のなかで頂点に立つと思われるものでさえ、いくらでも他に「なり手」がいるように感じられたりします。ならば、サラリーマンだとか公務員といった仕事であれば、いくらでも他にやる人がいるように思われます。
 しかし、どのような世界であっても、ユニークな発想を持ち、その世界に革新をもたらす人がいます。サラリーマンや公務員の世界でも、ただ今までと同じことを繰り返すのではなく、今までとは違うことを編み出す人がいます。そういう発想と行動力があるならば、どのような職種であろうと「自分にしかできないこと」をすることは十分に可能です。職業に限らず、それ以外の活動でも、自分にしかできないことを見つけて実行することは可能です。
 ただし、それには勇気が必要です。なぜなら、「自分にしかできないこと」というのは、言い換えれば「誰もやっていないこと」をすることだからです。誰もやっていないこと、やったことがないことをするのは、ひとつの冒険です。未開の地に行くようなものです。失敗する危険があります。世の中から非難されたり笑われたり、悪口を言われるかもしれません。たとえうまくいったとしても、誰にも感謝もされず、認められないかもしれません。物質的には何の得もないかもしれません。
 けれども、そのような危険があったとしても、それが自分にしかできないと思ったならば、勇気を出してやるべきではないかと思います。
 なぜなら、人類の進歩というものは、有名無名を問わず、自分らしさを発揮した人、また、自分にしかできないことをやった人によって支えられてきたと思うからです。
 そして、そのような生き方をした人生というものが、結局のところ、本人が自覚しようとしまいと、「幸せな人生」と呼べるものではないのかと思うのです。
 たとえすぐには実現できなくても、私たちは、「自分らしい生き方」、「自分にしかできない生き方」をめざしていこうではありませんか。


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幸せとは何か?

 すべての人は幸せを求めて生きている、と言ってもいいだろう。
 そこで問題になるのは、果たして「幸せとは何か?」という、幸せの定義である。
 ある哲学者は、単純に「幸せとは快楽の量で決まる」と言った。つまり、楽しいことや面白いことや気持ちいいことがあればあるほど幸せであるとした。それに対してある哲学者は、「ならば残飯をあさって気持ちよさそうに寝ている豚は幸せなのか?」と反論した。豚はそれで幸せかもしれないが、人間の幸せとはそんなものではないはずだ、と考えたのである。
 幸せの定義の問題は、哲学界の最大のテーマであり、明確な回答を出すことは難しい。
 とりあえず、もっとも説得力があると思われる回答は、「本人が幸せだと感じるのなら幸せだ」であろう。確かにそれは真実の一面をとらえていると思う。いくらお金持ちで物質的に恵まれていても、本人が幸せを感じなければ幸せとは言えないし、いくら貧しく苦労が多くても、本人が幸せを感じれば、それは幸せだと言えるであろう。
 しかし、どのようなことで幸せを感じるかということは、そう単純ではない。
 私の大学時代からの友人に、「安定した人生こそが幸せだ」と考えて、公務員になった人がいる。努力して公務員になり、役所に勤めることになったとき、彼と会って話をしたが、あまり嬉しそうな様子ではない。私が「念願の公務員になれたんだからよかったじゃないか」と言うと、彼が言うには、もう自分の人生は先が見えてしまい面白くないというのである。つまり、何歳でどのくらい出世してどのくらい給料をもらい、どんな仕事をしていくかといったことが、公務員の場合、たいていわかってしまう。どうやら、自分の人生に未知なるものがなくなると、人間というものは、あまり幸せではなくなるようである。そのためか、公務員どうしで酒を飲むと、すごく荒れると言っていた。
 また、聞いたところによると、宝くじに当選した人の七割が、当選したことを後悔するという。にわかに信じられない話ではあるが、どうも宝くじに当たって大金が舞い込むと、家族や人間関係でいろいろと支障が生じ、人間的にも堕落してしまうことが理由らしい。そうしてさんざん不愉快な目にあって、こんなことなら宝くじなんか当選しなければよかったと思うのだそうだ。
 以上のように、おおかたの人からすれば、安定した生活や、お金持ちの生活は、さぞかし幸せではないかと思ってしまうのだが、必ずしもそうではないようである。

 さらに、仮に幸せを感じたとしても、それが本当に幸せと言えるのか、という問題もある。
 たとえば、こんな喩え話をしてみよう。ある人がブランドの高級バッグを所有し、それで幸せを感じていた。ところが、そのバッグがニセモノであったことがわかる。あまりにも精巧にできているので、自分では本物とニセモノの区別がつかない。とたんにその人は幸せを感じなくなってしまう。ニセモノだと言われなければ、幸せを感じ続けていられたのだ。
 そうなると、その人は、にせのバッグを所有していた日々は、幸せだったと言えるのだろうか? 幸せは感じていたが、幸せであるとは言えなかったのではないだろうか? それとも、たとえだまされていたとしても、幸せを感じていたなら、やはり幸せであったと言えるのだろうか?
 すなわち、もしもあなたがいま、幸せを感じていたとしても、人生には、もっとすばらしい幸せが存在しており、それに比べたら今の幸せなどは幸せとは呼べないのかもしれない。いわゆる「知らぬが仏」という言葉通り、本当の幸せというものを知らず、今の幸せこそ本当の幸せだと勘違いしているだけなのかもしれない。
 それでも、とにかく本人が幸せを感じていれば幸せなのだと言えば、その通りなのかもしれないが、しかし、もっとすばらしい幸せが実はあるのだと知らされたら、幸せでなくなってしまうのであれば、やはりそれは本当に幸せであるとは言えないのではないかと思う。

 ならば、本当の幸せとは、いったい何なのだろうか?
 おそらくそれは、永遠の謎ではないかと思う。「これ以上に幸せなことなどない」と感じたとしても、本当にそれ以上に幸せなことがないという証明は、たぶんできないであろう。キリスト教の説く天国、仏教の説く涅槃の境地は、あくまでも地上に比べれば幸せであるというだけであって、この広大無辺な宇宙と悠久なる進化の時間を考えれば、天国や涅槃よりもさらに幸せな状態というものが、存在する可能性は十分にある。
 さて、以上のように考えてみると、「自分は幸せなのだろうか?」と、自分の幸福度を査定するようなことには、あまり意味がないのではないかと、私は考える。幸せを感じても幸せではないのかもしれないし、幸せを感じていなくても、幸せなのかもしれない。登山愛好家は登っているときは非常に苦しいが、その苦しみは頂上に到達したときの大いなる喜びへとつながっている。ならば登山家にとって、その苦しい道のりは「幸せ」だと言えるであろう。
 生まれてきたからには、幸せになりたいと願うのは自然なことであり、悪いことではない。けれども、あまりにも神経質に自分は幸せかどうかを気にし、「幸せにならなければならない!」と力みすぎるのは、逆に幸せから遠ざけてしまうように思われる。
 人生、そして生命というものは大切なものではあるが、あまりそれを深刻に受け止めすぎないようにすべきで、いわば、ある種のゲームをしているような感覚で、ゆとりをもって生きるのがいいように思う。実際、人生なんてゲームのようなものだ。うまくいくときもあれば、うまくいかないときもある。成功するときもあれば失敗するときもある。何があるかわからない。だからこそゲームは楽しい。先が見通せてしまうゲーム、うまくいくだけのゲームなんて全然面白くない。うまくいかないときでも笑えるのがゲームだ。ゲームは遊びなのだから。
 人生も同じだ。幸せになろうとするのではなく、人生というゲームで遊んでいるのだという発想で生きることが、結局は幸せに至る道ではないかと思う。この地上は壮大な「ゲームセンター」なのだ。
 ある哲学者はこう言っている。
「幸せとは副産物であり、それ自体をめざしてもつかむことはできない」

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トランプ大統領誕生に関して

 いま世界は、トランプ新大統領の話題で持ちきりである。
 当初、あのような暴言や差別的な発言をする人物が大統領になるとは、ほとんどの人が予想していなかった。大統領に選ばれたとき、株価は大きく値下がりした。株価は人々の心理を反映する。彼が大統領になれば大変なことになると思ったわけだ。しかし、直後の記者会見でまともな発言をしたことから、「大統領になれば、案外うまくいくかもしれない」との期待感から、株価は上昇に転じた。ところが、つい最近の記者会見での品性のなさ、大統領就任挨拶における、経済政策への具体性のなさや過剰な保護主義への懸念のため、不透明感が広がり、株価は再び下げに転じている。
 トランプ大統領の基本理念は、極論を言えば、「自分さえよければどうでもいい」ということだ。「アメリカの経済さえよくなればそれでいい」である。そうした明確で力強い発言が、経済的に恵まれない人々に支持され、当選したと考えられている。
 確かに、経済的に困っている人にとっては、それを救ってくれそうな力強いメッセージを掲げる人物を支持したくなるのは、無理もないことだと思う。不法移民のために職を奪われたり、治安が悪化したり、その対策として莫大な税金が投入されていることに不満を抱くことも無理のないことだ。そういう鬱積した不満を抱えていた人々にとって「国境に壁を作る」といった、途方もない提案をする人物には、ある種の清涼感というか、ガス抜きのような効果を発揮したのであろう。
 いずれにしろ、トランプ大統領の誕生で、アメリカは大きく分断した。正確に言えば、分断状態がさらに大きくあからさまになった。アメリカの分断への傾向は以前からすでに始まっている。たとえば、ある州では、貧困層にばかり税金が使われることに不満を抱いた富裕層が、富裕層だけが暮らすための市を作ってしまった。
 また、イギリスのEU離脱をはじめ、アメリカのみならず、世界的な潮流として、世界は分断の方向に揺れ動いているように感じられる。
 歴史というものは、振り子のように揺れながら進んでいる。あるときは分断に揺れ、しばらくするとそれではいけないと、統合に揺れる。しかしそれもしばらくすると、さまざまな問題が生じてきて、また分断へと向かう。こういうことを繰り返している。
 したがって、しばらく世界は分断に向かうかもしれないが、またしばらくすれば統合へと揺れてくるに違いない。
 しかしながら、分断状態には非常な危険がつきまとう。その最たるものが戦争だ。戦争が起こる主な原因は、領土と経済である。経済戦争が、本当の戦争に移行する可能性は十分にあり得る。経済戦争は、自分だけの利益を考えようとすることから始まる。
 それゆえ、トランプ大統領の誕生が、世界が戦争へと突入していくきっかけにならなければいいと懸念している。現代は、過去の戦争とは異なり、多くの国が核を持っている。一度核が使われたら、その報復として何発もの核が使われる。その結果、地球上の多くの国が、放射線と核の冬(核爆弾で舞い上がった塵が長い間空を覆って太陽がささなくなる現象)により、人間が住めない場所になる。そうなると、勝者も敗者もない。人類そのものが絶滅の危機にさらされ、すべての国が敗者となり、悲惨なことになる。
 まさか、そんなことはないだろうと思われるかもしれないが、イギリスのEU離脱にしてもトランプ大統領の誕生にしても、ほとんどの人は「まさかそんなことはないだろう」と思っていたことが起きたのだから、世界大戦が勃発することも、決してあり得ないことではない。そんな状態になってから、世界が統合に揺れだしたとしても、すでに遅い。
 仮に、そこまでの惨事には至らなくても、「自分さえよければいい」という考え方は、目先はいいかもしれないが、結局は自分の首をも絞めることになる。なぜなら、人類は相互協力によって成り立っているからだ。たとえば、自分さえよければいいという社員が多い会社は、決して伸びていかない。会社も社会も、世界も、オーケストラのようなもので、お互いの立場を大切にして調和的に進んでいくことで、すべての人が恩恵を受けるような構造をしている。
 したがって、もしこのままトランプ大統領が「自分さえよければいい」という姿勢で貫いていけば、しばらくは対症療法的にうまくいって国民の支持を得るかもしれないが、やがてうまくいかなくなり、国民からの支持を失うのではないかと、私は考えている。
 では、私たちとしては、これからどうしたらいいのだろうか?
 一部の独裁国家を除いて、世界の多くの国の政策は、民意が反映される。したがって、私たちひとりひとりが「自分だけがよければいい」という考え方を持たないことだ。お互いの利益を考えるようにすることである。そうすれば、そういう考え方を持った人が指導者に選ばれる。
 「しかし、私たち日本人がそんな考え方をしても、アメリカや世界は何も変わらないのではないか」と思われるかもしれない。私は、そうでもないと思っている。というのは、現在は、インターネットで世界中の人が情報を共有しているからだ。たとえば、私たちの身近で生じた小さな親切行為が、またたくまに世界中に配信され、世界中の人が知ることができる時代である。実際、たとえば日本人の礼儀正しさなどは、インターネットを通して世界中の人から称賛されている。
 私たちが、「自分のことさえよければいい」という考え方を断固として退け、「お互いのためによいことを選ぶ」という考え方を持って実践していけば、世界中の国民に影響を与え、世界を変えていくことができる。即効性はないかもしれないが、じわじわと大きな潮流になる可能性は十分にある。
 私たちひとりひとりには、世界を変えるほどの力はないかもしれない。しかし、世界を変えることができる力を持った人を、そうなるように変える力は、誰もが持っている。

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リスク管理

 皆様、新年あけましておめでとうございます。
 以前にも書いたことがあるのですが、「新年あけましておめでとう」という意味は、「新年を迎えることができておめでたい」ということですね。「おめでたい」というからには、新年を迎えることが容易なことではない、というニュアンスが込められていることがわかります。
 おそらく大昔は、自然災害だとか戦だとか病気といったことで亡くなる人が多かったのでしょう。つまり、生き抜くのが難しい時代だったのだと思います。それゆえに、新たな年を迎えられたということは、無事に生き抜くことができたということになり、「おめでたい」ことだとして祝うのでしょう。
 もっとも、現代社会でも、地震や洪水などの自然災害、戦争やテロ、そして事故や病気などで亡くなる可能性は少なくありません。私の身近でも、昨年、私より一歳年下の友人が病気で亡くなりました。「あけましておめでとう」ということはできませんでした。人生というものは、本当に「一瞬先は闇」であり、何があるかわかりません。
 かといって、いたずらに不安に思う必要はありませんが、用心するに越したことはありません。「来年も無事に迎えることができる」ことを当然のことと考えず、何があっても対処できるように、いわゆる「リスク管理」をすることが、とりわけこれからの時代、大切であるように思われます。
 リスク管理とは、悪いことを考えて脅えることではなく、悪いことが起きても安心していられるということです。「リスクなどを考えるのは縁起悪い」などと言わず、前向きにリスクを考えていくべきだと思います。
 リスク管理の基本は、「バランス」にあります。悲観的になりすぎても、楽観的になりすぎてもうまくいきません。楽観的すぎるとリスクを考えず無鉄砲になって危険ですが、悲観的すぎても、あまりにも保守的になって冒険を侵すことをためらってしまい危険です。なぜなら、人生というものは、保守的であること、冒険を侵さないことが、かえって危険であることもあるからです。
 悲観主義者からは「楽観的」と思われ、楽観主義者からは「悲観的」と思われるような姿勢が、もっとも適切な立ち位置ではないかと思います。仏教的にいえば「中道」ということになるでしょうか。
 そのような姿勢で今年を生き抜いて、また一年後、皆様と一緒に「新年あけましておめでとう」と祝えるようになりたいものです。
 今年もよろしくお願いいたします。

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