心の治癒と魂の覚醒

        

心の大掃除

 今年も残りわずかとなりました。そろそろ、多くの家庭で大掃除が行われるようになります。年が変わるというのは、大きな節目のひとつですから、新しい年をきれいな環境で迎えたいという気持ちがあるのでしょう。大掃除をして家をきれいにすることはとてもけっこうなことですが、同時に、「心の大掃除」もしてみてはいかがでしょうか。
 家の大掃除が、ゴミなどの、いらないものを捨てたり、埃や汚れを落としたりするように、心の中からも、ゴミ、いらないものを捨て、埃を払い、汚れを落とすのです。
 家の中にゴミがあれば、普通はすぐに捨てるでしょう。しかし、私たちは、ともすると心の中にゴミをため込んでいたりします。それがゴミであると気づかないこともあります。家にゴミがあれば、邪魔になって生活が不便になりますし、生ゴミの場合は腐敗して悪臭を放ち不潔になります。
 同じように、私たちの心の中にも、ゴミがあると、自分らしい生き方や、よいよい生き方の邪魔になります。ときには、心を汚していたりします。ゴミはきわめて有害です。そんなゴミを捨ててしまいましょう。
 心の中のゴミというのは、いろいろありますが、私たちから心の平安を奪い、自信を失わせ、消極的にさせ、暗い気持ちにさせ、物事を歪んで見るようにさせたり、人間関係をダメにするような気持ち、思考、信念、偏見、思い込みといったものです。たとえば、恨み、妬み、劣等感、罪の意識、後悔、悲観主義、偏見、猜疑心……といったものです。
 もちろん、そのようなものを持つようになったのには、それなりの理由があるでしょう。自分には何の非もないのに、人から不愉快な思いをさせられて恨みを抱くこともあるでしょうし、大きな失敗をして劣等感を抱いたり、後悔の念に見舞われることもあると思います。辛いことがあれば、悲観的にもなりますし、人から裏切られれば、猜疑心も抱いてしまうでしょう。
 しかし、よく考えてみてください。こうした思いを抱いていても、何もよいことはありません。それどころか、害悪を及ぼすことになります。恨みを抱いている人は、二重の意味で被害を受けているのです。すなわち、人から不愉快な目に遭わされたという被害、そして、それによって心の中に生まれた恨みという思いによってもたらされる被害です。失敗したときも、失敗の痛手の他に、劣等感や悔しさや悲観主義といった思いによる痛手をこうむっています。いわば、ある種の「二次被害」です。
 生きている限り、何らかの被害や失敗に見舞われます。どんな人もそれから逃れることはできません。しかし、その被害を最小限にとどめることは可能です。すなわち、「二次被害」を避けることはできるのです。簡単なことだとは言いませんが、不可能ではありません。
 心の中に、ゴミのような思いがあれば、今年中に、すべて心の中から捨ててしまいましょう。箒で掃いてゴミを家の外に出すようなイメージを浮かべるとよいかもしれません。
 恨みというのは、なかなか捨てるのに苦労するかと思います。恨みはゆるすことによって解消されますが、ゆるすことは人生におけるもっとも難しいことのひとつかもしれません。無理にゆるそうとがんばっても、自分をだますだけに終わってしまったりします。そこで、最初からハードルの高い「ゆるし」ということは避けて、「捨てる」という発想を持ってみてはいかがかと思うのです。言葉は悪いですが、あなたを不愉快にした人間は「ゴミ」や「クズ」だと考えて、そんなものをを心という家の中に置いておくのは馬鹿らしいと考えてみるのです。ゆるすのではなく、ゴミやクズのような人間は「捨てる」という発想を持つようにするのです。もちろん、ゆるすことができればベストですが、いっぺんには難しいので、まずは「捨てる」という発想をして心の中から追い出し、心の中をきれいにしてみてください。
 失敗による後悔の念も、なかなか捨てがたいものです。私たちはなるべく後悔のない人生を送るように努力するべきだとは思いますが、現実として、まったく後悔のない人生を送ることは不可能です。人生というものは、失敗は避けられませんし、「あのときああしておけば」という思いにかられてしまいます。しかし、それも「ゴミ」です。持っていても何の役にも立たないばかりか、明るい未来を切り開く上での障害となってしまいます。後悔の念は、思いきって捨ててしまいましょう。過ぎたことは取り返しがつかないのですから、いつまでもそんな「ゴミ」を抱え込んでいるのは、馬鹿馬鹿しいだけです。
 しかし、失敗というのは必ずしも失敗ではないことが多いものです。人は失敗を通して学び成長していきますし、失敗が幸運のチャンスになることだってあります。「あのとき、ああしていればよかったのに」と後悔しても、実際に「ああしていたら」、もっとひどい結果になったかもしれません。それは誰にもわかりません。神のみぞ知るです。
 「後悔のない人生を送ることは不可能」と言いましたが、ひとつだけ方法があります。それは単純に「後悔しなければいい」のです。失敗しようと何が起ころうと、後悔しなければ、「後悔のない人生」を送ることができます。失敗したら反省することは大切であり、それは有益ですが、後悔とは無益な感情であり、意味はありません。失敗したら、貴重な学びと成長のための幸運な体験に恵まれたのだと考えて、後悔することなく、「後悔のない人生」を送っていこうではありませんか。
 というわけで、以上のような感じで、一年の終わりという節目に「心の大掃除」もして、来年は、きれいに澄んだ気持ちで迎えるようにしてみてはいかがでしょうか。
 今年も本当にお世話になりました。来年が皆様にとって幸多き一年になりますよう、お祈りしています。
 来年も、よろしくお願い申し上げます。 

心の浄化 | コメント:4 | トラックバック:0 |

エゴ(煩悩)を原動力としない

 本題に入るまえにひとこと。
 私の体調不良を気遣って、励ましやアドバイスや情報といった無形のものをくださったり、あるいは有形のものをくださる方がおられます。ありがたいことです。先日も匿名の方から、素敵なものを送っていただきました。この場を借りて心よりお礼申し上げます。
こうした方々は、二重の意味で私を支えてくださいます。ひとつは文字通り、その無形有形のものであり、もうひとつは、何の利益にもならないのに、貴重な時間や労力やお金を使ってこうしたことをしてくださるという、その行為そのものです。
 つまり、「世の中にはこんなにも親切な人、優しい人が存在しているんだ」という、そんな思いが、私に希望を与え、支えてくださるのです。人間を信用できるというか、そういう思いですね。それが私におおいなる力を与えてくれるのです。心から感謝です。

 さて、では、本題に移ります。
 むかし、NHKで面白い番組をやっていました。
 それは、高僧と呼ばれる人が座禅をしているときの脳波を測定するというもので、どの人もアルファ波という、きわめて落ち着いた心境を示す脳波を示していました。ここまでは、よく聞く話で意外なことではないのですが、ここからが番組の面白いところなのですが、座禅をしている高僧の前に、いきなり蛇を目の前に投げ込んだり、水着姿の美女を歩かせたりしたのです。そして、脳波がどうなるかを実験してみたのです。
 すると、どうなったと思いますか?
 脳波は少しも乱れなかったと思われますか?
 実験では、蛇が目の前に投げ込まれたり、水着姿の美女が通ったとき、脳波が乱れたのです。これは修行をしていない人も同じでした。修行をしていない人でも、しばらく座禅をすると、アルファ波の脳波になります。そして、目の前に蛇や美女を見ると脳波が乱れアルファ波が破られてしまうのです。
 ところが、高僧はすぐにアルファ波が回復しました。脳波が乱れたのは一瞬だけでした。それに対して、修行をしていない普通の人は、長いあいだ脳波が乱れたままだったのです。
 脳波がイコール悟りの境地を示すとは考えられませんが、端的な状態を示していることは確かではないかと思います。
 つまり、悟りを開いた人でも、何か異変が起きれば、凡人と同じように驚いたり心が乱れたりするようなのです。ところが、それは一瞬のことで、次の瞬間には静謐な境地に戻っているわけです。
 悟りを開いたからといって、何が起きてもまったく動揺しないというわけではないようです。もしそうだとしたら、単に鈍感で神経系統が麻痺しているとしか思えません。人間としての感動といったものも、感じないということでしょう。悲しいことがあれば悲しみを感じるでしょうし、悪口を言われれば不愉快に思うでしょう。喜怒哀楽は普通の人と同じように感じるはずです。しかし、それは非常に短い時間なのです。
 悟った人は、その気持ちを引きずらないのです。否定的な感情をいつまでも心のなかに保つことはないようです。そのために、とらわれがないというか、あっさりしているというか、飄々としている、ときにはクールに見えるようです。
 悟ったからといって、人間的な感情をもたない、ロボットのような人間になることではないわけです。むしろ、ある意味では、とても人間味があったりします。
 けれども、感情に振り回されて、取り乱すということはしないわけです。このへんはとても微妙だと思うのですが、この微妙な違いが、覚者と凡人の大きな違いということになるようです。人間的でありながらきわめて冷静。冷静でありながらあたたかいハートを持っている。ある意味、こうした矛盾したものを持っているのが、おそらく覚者だと思います。
 いずれにしろ、私が出会ったなかでは、ヒステリックに感情的になったり、怒り狂ったり、泣きわめいたりする人で、霊性が高いと感じた人はひとりもいません。弟子に対して、「叱る」ことはあっても「怒る」ことはしません。必要に応じて「活を入れる」ために、ピシャリと刺激を与えることはしますが、粗暴になることはありません。
 その人がどのくらい悟っているか、霊性が高いかを調べたければ、その人を怒らせるような言動をしてみるのが、一番早いかもしれません。そのとき、怒りで取り乱したり、粗暴な言動で返すようであれば、まずその人は悟っているとは言えません(ただ、実際にこのような形で相手を試すのはお勧めしません。参考程度に思ってください)。
ネガティブな感情のことを、仏教では「煩悩」と言っています。怒り、おごり、無知というのが三大煩悩とされていますが、やはり怒るというのは、煩悩にとらわれている証拠であって、つまりは、それだけ悟りから遠いということになるわけです。また、おごることも煩悩ですから、おごり高ぶる人は、やはり悟りから遠いとも言えるわけです。だから、悟っている人は謙虚です。それも、わざとらしい謙虚さではなく、むしろ自然体とも言うべき謙虚さがあります。

 このように、一般的に覚者は、感情的になることなく、執着もないので、淡々としているというか、飄々としている傾向があり、謙虚で飾らないので、いわゆる世間的な感覚でいう「いかにも偉そう」という感じには見えないことが多いように思います。一見すると、ごく平凡に見えるかもしれません。そのために、ときには馬鹿にされたり、なめられたりすることもあるかもしれません。とかく世の中は、表面的な虚像だけで人を判断することが多いものですから。たとえばイエスなどは、大衆から「あいつは単なる大工の息子にすぎないじゃないか」(当時、大工はどちらかというと卑しい職業と見なされていた)などと馬鹿にされていました。
 そうした世間の虚像に目をくらませられることなく、本質を見抜く目を持った人だけが、覚者の非凡さを理解することができるわけです。
 覚醒していない人はエゴ(煩悩)によって支配されています。エゴは常に「他の人より偉くなりたい(見せたい)」、「ひとかどの人間になって人々から賞賛されたい」という欲望を持っています。そのエゴを満たすために、権力を欲しがったりお金持ちになろうとしたり、有名になろうとするわけです。それが物質的な世界で発揮されるのならまだしも、宗教的な世界で発揮されると偽善的になります。つまり、エゴゆえに教祖になったような人たちです。
 教祖になろうと思って教祖になった人というのは、絶対とは言いませんが、たいていはニセモノだと思います。それはエゴを原動力としているからです。
 しかし、真の教祖になる人というのは、教祖になることが目的ではなく、人を助けることが目的で一生懸命に努力していたら、いつのまにか教祖になっていた、という人ではないかと思います。この場合の原動力は愛です。エゴではありません。エゴではなく、愛を原動力として、教祖なり、何らかの指導者になった人こそが、本物であると思うのです。
 エゴを原動力として活動した場合、確かに権力やお金を手にしたり、有名になりやすいといえるでしょう。なぜなら、この世はエゴが支配しているからです。しかし、エゴを原動力として活動しても、真の幸せを得られるとは限りません。というより、それは難しいと思います。なぜなら、私たちの本質(魂)は、愛が得られたときにこそ幸せを感じるようにできているからです。エゴと愛は同居できません。エゴがあるとき愛はなく、愛があるときエゴはありません。
 したがって、この世的な虚栄ではなく、本当の幸せをつかむためには、言い換えれば、真に霊性を高め、覚者になるには、エゴではなく、愛を原動力として、日々努力していくべきではないかと思うのです。


覚醒した意識の特徴 | コメント:11 | トラックバック:0 |

私のウツの調子

 いま現在の私のウツの調子を書かせていただきます。
 結論から言いますと、70パーセントまで回復しました。しかし、それ以上にはなかなか回復せず、言わば足踏み状態です。まず、何をしても、長くできません。頭脳労働をしても肉体労働をしても、疲れやすく、長く続けられません。ぼちぼちと執筆活動を再開したのですが、以前は数時間くらい集中できたのに、今は1時間か2時間くらいが限界で、そのくらい執筆すると強い疲労感に襲われ、同時に気分も落ち込んで横にならなくてはなりません。肉体労働も、1時間ほど自転車に乗ったり歩いたりしているのですが、やはり1時間が限界で、それ以上はできません。1時間でも、疲労感が激しく、終わった後はしばらく横になります。疲労の原因は運動不足だろうと思って、少し前まで自転車やウォーキングを毎日していたのですが、身体が鉛のように重くなり、ふらふらしてしまうので、今は一日おきくらいにしています。
 新薬エビリファイの量を増やせば活力が出るかと思って倍に増やしてみましたが、効果はありませんでした。サプリメントなども、今のところ、活力が湧いてくるようなものには出会っていません。気分の落ち込みは、疲れていなければあまりありませんが、疲れると、陰鬱な気分に襲われます。
 何の心配も煩わしいこともなく、ただ毎日を平安にのんびり暮らすことができれば、もっと回復できるのかもしれませんが、あいにく、そのような恵まれた環境にはなく、なんだかんだといろいろと神経を疲弊させるような問題を抱えていて(生きている限り誰だって同じですが)、それがウツの回復の足かせになっているといった事情もあります。人生というものは、本当によくもまあ、次から次へと悩みの種がやってくるものだと感心してしまいます。「もぐら叩きゲーム」みたいに、こっちのもぐらを叩けばあっちからまたもぐらが出てきて、そのもぐらを叩いたと思ったら別のところからまたもぐらが出てくる……、といったように、人生というのはまるで終わりなき「もぐら叩きゲーム」のようなものではないかと思ったりもします。これ以上いうと愚痴になるのでやめますが、私だけでなく、誰しも悩みや問題を抱えて生きているわけで、私などはマシな方かもしれません。

 そういうわけで、ウツになる前の活力を100パーセントとすると、今は70パーセントくらいの出力しか出せないでいます。「休み休みでしか何かをできない」といった感じで、少し大げさですが、ある種の障害者になったような気持ちで、そんな自分がじれったくなるときがあります。頭や肉体を使った後は、身体中に重りをつけられているような感じで、精神も集中できなくなり、物事を考えられなくなり、ときおり、乗り物酔いみたいな軽い吐き気がしてきます。何をする意欲も気力もなくなります。こうなると、ただ横になってじっとしているしかありません。そうして30分か1時間くらい横になっていると少し回復するので、また何かを始める、といったことの繰り返しです。
 それでも、ウツがひどかったときは10パーセントか20パーセントくらいしか出力が出なかったことを思えば、ずいぶん回復したことは確かです。これも、物心両面にわたる皆様のおかげであると感謝しています。
 インターネットの情報によれば、ウツ病が完全に寛解(完全に治る)ことは少ないとありました。やはり、70パーセントとか、よくて80パーセントくらいまでは回復しますが、「元気ハツラツ」にまで治ることは少ないようなのです。
 それでも私はあきらめずに、これからも改善に向けて努力していくつもりではいますが、しかし、たとえ70パーセントの出力といえども、ある意味では、それでも恵まれていると思っています。ときどき、身体が動かない障害者の人が、口に棒をくわえて、その棒でパソコンのキーをひとつひとつ時間をかけて打って文章を書いたりしている光景をテレビで見かけたりしますが、それでもコツコツやっていくと、いつのまにか大量の文章ができあがっていたりします。
 そのような方に比べれば、私はずっと恵まれています。以前の状態と比べることなく、もともとこの程度の出力なのだと思えば、あまり悲観せずにすみます。
 ウツがひどいときは、執筆などまったくできなかったのですが、今は、亀のように遅い歩みではありますが、コツコツと文章を打てるようになりました。どのような内容の本であるかは、もう少し固まってからご紹介させていただきたいと思いますが、私の体験がかなり盛り込まれた内容の本です。いつ完成するか、いつ出版できるのかはまったくわかりません。

 以上が、いまの私の現状です。70パーセントの出力のまま、本を書き、ブログを書き、「もぐら叩き」をしています。「70パーセントの力しか出せない」ではなく「70パーセントも力が出せる」と考えるようにしています。
 そうして、しぶとく、コツコツと、亀のように歩んでいくまでです。人生はしぶとい人間が最後には勝つと私は信じています。
 ただ、活動できる時間とエネルギーが限定されてしまったので、今では、本当に有意義なことのみを選択して、時間とエネルギーを使うようにしています。そう思うと、今まで自分はなんて無駄で意味のないことに時間やエネルギーを費やしてきたのだろうかと痛感します。見ているときは面白いが見終わったら何も残らないテレビ番組やビデオを見るとか、読まなくてもいいような本を読むとか、考えなくてもいいようなことを考えたりとか、とにかくいろいろと人生の貴重な時間とエネルギーを無駄に使ってきたなあと思ったりします。若いときは、それでもいろいろな経験が肥やしになりますからいいとしても、残りの人生が限られてくる中年以後は、時間とエネルギーの使い方に十分に気をつけて、物事に優先順位をつけて、本当に価値のあることだけに時間とエネルギーを費やすようにした方がよろしいのではないかと思います。
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 師匠や教団に入信することについて②

 前回は、本物ではないかと思う指導者や宗教団体があったら、とりあえず飛び込んでみたらどうかということを書いた。たとえ、結果的にニセモノであったとしても、それなりに学ぶものがあるからだ。人は失敗を通して、また、いわゆる”反面教師”を通して学ぶものである。実際、私もそういう経験をしてきた。そのために、それなりの時間やお金を使ってきたが、無駄であったとは思わないようにしている。これも「授業料」であり、「必要経費」であると考えて、気持ち的に引きずらないようにしている。
 けれども、そういう経験を何回か繰り返しているうちに、「いつまでもこんなことをしていてはいけないぞ」とも、思うようになってきた。いくら失敗からでも学べるとはいえ、失敗ばかりでは嫌気がさしてきてしまう。
 覚醒をめざしている私にとっては、言葉巧みに教えを説いている「覚者」(本物かどうかはともかく)の存在は、やはり気になるものだ。「本当にこの人の指導を受ければ覚醒できるかもしれない。このチャンスを逃したら、もう二度と、このような人には出会うことはないかもしれない。そうなると、本当に貴重なチャンスを逃してしまうことになる」といった、ある種のあせりの気持ちが、胸の中から湧いてきて、いてもたってもいられなくなるのである。お金や時間が無限にあるならば、片っ端から試してみたいものであるが、なかなかそのようなことはできない。

 しかし、私はあるとき気がついた。
 自分のこのような姿勢は、詐欺商法にだまされる人と本質的に同じではないのかと。
 つまり、いわゆる「儲け話」みたいなものにつられて、結局は大金をだましとられてしまう人というのは、もともと「金が欲しい」という欲望があるから、だまされてしまうわけだ。
 私もむかし、知人に誘われて、社会問題となった、ある詐欺商法の説明会に参加したことがある。しかし、私は金儲けにはそれほど興味がなかったのと、その商法に投資するほどの金銭がなかったので、だまされずにすんだ。ただ、その説明会の話術は、ものすごく説得力があり、これではだまされても仕方がないなと思わせるものがあった。
 しかし、私は金に対する欲望が強くないので、こういう詐欺商法にだまされる可能性は少ないが、覚醒に対する欲望が強いので、その種の詐欺にはだまされやすくなる。何事もそうだが、欲望というものは、弱点にも成り得るものである。
 そんな詐欺にだまされそうになった経験を少し紹介してみよう。
 私が30歳くらいの頃、「自分は悟りを開いた」という、当時50歳くらいの男性に、ある会合で出会った。話を聞くと、とても深いことを延々と語り始める(その内容はラジニーシの教説に近いものだった)。私も知識ではそれなりに持っていたので、彼の語る深い内容から、もしかしたら本当に悟りを開いた覚者かもしれないと思った。
 彼が言うには、自分は世界を救う覚者として日本に誕生することを、ラジニーシが本のなかで予言していると語っていた。また、ダライラマに会うためにチベットまで行ったのだが(それは事実だったようだ)、ダライラマから特別扱いされたと語っていた。
 彼は組織は持っていなかったが、個人指導はしていたようで、どれくらいかかるのかと尋ねると、百万円だという。私はそれほどの大金は出せなかったので、そのかわり、その男は本を出版したいと言っていたので、その本を出版する手伝いをする(彼の語ることをテープに録音して、それを聞いて私が文章にまとめる)から、指導をしてくれないかと頼むと、それでいいというので、私は定期的に彼の家に通って、その教えを受けることになった。
 しかし、彼の説教は、基本的にはラジニーシや禅の教説と同じであり、本にする価値があるのかと思い始めた。が、とりあえず約束なので、私は彼の話をテープに録音し、家でそれを聞きながら文章に起こした。
 ところがまもなく、かつて自分の弟子だったが自分のもとから去っていった人の批判(というより悪口)を、口汚く延々と一時間以上も口にするようになった。
 そこで、私も「これはおかしいぞ」と思い始めた。その気持ちを述べると、「悟っていない奴に悟っている者の意図なんかわかるものか。グルのやることに絶対に間違いはないんだ。これも指導の一環なのだ。信じられないのか!」と怒り出した。
 とりあえず、そんなものかと思って、関係を続けていったが、気持ちとしては本当に覚者なのか、半信半疑になっていた。本物の覚者かどうか、確かめたくなってきた。
 そこで、覚者なら超能力があるはずなので、それを見せてくださいと頼んだことがあった。すると彼は、「超能力はあったが、そんなものに対する欲望は捨てたので、今はない」という。確かに、ヨーガの教典などを見ても、超能力に対する欲望は捨てるべきだと書いてあるので、その点では彼の言葉は正しいと言えるかもしれない。
 ところが、「この超能力ならできる」などといって、ダウジングをやり始めたのである。超能力への欲望は捨てたと言っておきながら、別の超能力ならできると言うのも、何かおかしいと思った。
 彼によれば、悟った状態とは、何が起こっても心が動揺しない不動の平安さが確立されているという。しかし、そう言っている割には、話にかみ合わない点などがあって、そのことを指摘したりすると、すぐにイライラしたり怒りっぽくなるので、「そんなすぐに怒るというのは、本当に悟っているのですか?」と尋ねると、いつも決まり文句のように「こういう態度も弟子の指導のためにわざとやっているのだ。グルのすることなど、弟子にはわかるはずがない。さぞかし詐欺師のように見えるだろうな」と言うのである。
 しかし、彼のささいとも思える言動が(案外、こういうことが大切なのだが)、どう考えても覚者とは思えなかった。たとえば、ある有名な精神世界の本の翻訳者から、自分は呪いをかけられているなどと被害妄想的なことを口にしたり、彼が乗っているクルマの定期点検シールを偽造して「こうすれば検査しなくてもごまかすことができるんだ」などと言ったり、クルマの窓からごみを捨てたりした。また、彼には愛人がいたのだが、その愛人の性に関するえげつない表現など、私のイメージする覚者とは遠いものであった。しかし、そういうことを指摘しても、「覚醒したものは、そういう世間的なものにはいっさいとらわれない自由な境地でいるのだ」などと言うのである。
 結局、私は彼が覚者かどうか以前に、もうついていく気がしなくなったので、弟子との関係は解消すると彼に告げた。すると、「それなら、俺の説教を録音したテープをよこせ」と言ってきた。テープは別のものを録音して説教したものは残っていなかったので、そう告げると、「信じられない。本当かどうか、家のすみからすみまで探させろ」と言ってきた。そんなことをされてはかなわないので、断ると、「おまえがあのテープを悪用しないかどうか、俺は不安なんだよ。もし探させないなら、お前の家の前にいって、拡声器で大声で叫んでやるぞ。そうしたら、お前は今の家にはいられなくなるからな」などと、脅しともいえることを言うのである。
 覚者は何が起こっても心の平安は乱されないと言いながら、「俺は不安なんだ」と言ったり、おまけに「拡声器で騒ぐぞ。家にいられなくなるぞ」などと言う。
 さすがの私も、ようやく、この男はニセモノだと気づいた。その後、何回か電話をかけてきたが、無視しているうちに、関係はきれた。しかし数年後、この男によって大金を巻き上げられた上にひどい目にあった人がいるという噂を耳にした。
 この男の語る内容は、確かに深いものがあった。もっとも、それもラジニーシその他の教説の単なる受け売りに過ぎなかったのだが、それでも、何も知らないで彼の話を聞いた人は、本当に覚者であると信じてしまっても無理はないと思う。ある意味では、一流の詐欺師であった。

 もちろん、彼が本当に覚者かそうでなかったかは、証明はできない。もしかしたら、本当に覚者だったのかもしれない。
 しかし、私はこのときの教訓によって、ひとつの決意をした。それは、「たとえ覚者であったとしても、品格のない、尊敬できない人から教えは受けない(弟子にならない)」という決意だった。
 金の亡者が、金欲しさのあまり詐欺商法にだまれてしまうのは、もちろん、だます方が一番悪いが、だまされる方も、「うまいことして金を儲けてやろう」という、さもしい根性があったからであろう。
 同じように、覚醒したいという、覚醒欲しさのあまり、以上のような詐欺師にだまれてしまうのも、やはり「うまいことして覚醒してやろう」などという、さもしい根性があったからだ。両者とも本質的には同じである。ただ「金」と「覚醒」が入れ替わっただけで、さもしいことには変わりはない。
 立派な教説を語るだけだったら、ちょっと勉強して口がうまければ、誰にだってできる。それでだまされてしまう人も多い。しかし、品格はだますことはできない。私は、覚者であれば品格も高いと信じているが、本当のところはわからない。覚者であっても品格が低い人もいるのかもしれない。
 しかし、仮に本当に覚者であったとしても、すでに述べたように、品格が低く尊敬できない人の教えを受けることはしないと決めた。そうまでして覚醒したいとは思わない。逆に、たとえ覚者でなくても、人格が高く尊敬できる人であれば、喜んで教えを受けたいと思っている。
 法然の弟子であった親鸞は、「たとえ法然師匠の教えを信じて地獄に落ちたとしても悔いはない」とまで、法然を敬愛していた。同じように、「この人の教えを信じて覚醒できなかったとしても悔いはない」と思える人でなければ、師事しようとは思わない。覚醒しているかどうか以前に、人間として尊敬に値する立派な人格を持っているかどうかが、私にとっては大切なことなのだ。
 残念ながら、今まで、そのような覚者には出会ったことがない。もしかしたら、どこかに存在するのかもしれないが、縁がないだけなのかもしれない。
 ただ、「うまいことをして覚醒してやろう」という、さもしい気持ちは捨てた。縁ができて、本当に心から尊敬できるすばらしい覚者に出会うまで(出会えないかもしれないし、出会えても弟子にしてもらえるかどうかもわからないが)、それまでは自力でコツコツと努力を積んでいく覚悟でいる。さもしいマネだけは決してしたくない。
 もちろん、以上のような私の信念を、あなたに押し付けるつもりはない。「品格はどうであれ、とにかく覚醒できればいい」というのも、ひとつの考え方である。ただ、もしだまされる確率を減らしたければ、人間としても尊敬できる人を師匠に選ぶべきだと、私は思う。そうすれば、仮にだまされたとしても、おそらく後悔はないだろう。

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師匠や教団に入信することについて①

 今日、多くの人が「覚者」や「霊的教師」と名乗り、教団を組織して大々的な活動をしていたり、あるいは比較的こじんまりとした形で弟子や信者を指導したり講演をしたりしている。この文章を読んでいるあなたも、そうした指導者や教団に属して指導を受けているかもしれないし、あるいは、気になる指導者や教団があって入信しようかどうか迷っているかもしれない。実際、「この人に師事しようかどうか、この教団に入ろうかどうか、迷っているのですが、斉藤さんはどう思われますか?」と尋ねられることもある。
 今回は、この「師匠や教団に入信すること」について、私の見解を述べてみたいと思う。

 ここで問題となるのは、果たしてその指導者が本物かどうか、その教団が真の教えを説いているかどうか、ということであろう。言うまでもないが、なかには明らかに怪しいと思われるものもあり、悪質で身の破滅につながりかねない教団もあるだろう。その最たるものがオウム真理教であったわけだが、あそこまで凶悪でなくても、大金をまきあげられたとか、心にトラウマを負ったといった被害などは、しばしば耳にする。
 奇妙なことだが、このようにだれが見てもおかしく、詐欺であることが明白であるのに、そういう指導者や教団にだまされる人が世の中には必ずいるということだ。これはおそらく、ある一定の割合で、異常なものに惹きつけられる病的な精神傾向を持った人がいることによるものと思われる。
 それはともかく、たいていの場合は、本物であるかそうでないか、とても微妙だ。そのために迷ってしまう。
 たとえば、教祖の書いた本にはいいことが書いてある。「人を愛しなさい。善い行いをしなさい」といったように。そして、「私は覚者である、キリストの生まれ変わりである、救世主である・・・」といったことを言う。
 立派なことを語るくらいだから、教祖は本当に覚者であり、キリストの生まれ変わりであり、救世主かもしれないと思われてくる。最初は多少、半信半疑かもしれないが、一度入信して繰り返し教えを耳にするうち、いよいよこれは本物に間違いないと思われてくる。
 私も若い頃は、いろいろな宗教を遍歴した。仏教、キリスト教、ユダヤ教、ジャイナ教、ヨーガ、神道、神智学、心霊学、いくつかの新興宗教団体に属したこともあった。
 そして面白いことに、ある教えを集中的に学んでいるときは、その教えこそ本物に違いないと思われたということだ。仏教を学んでいるときは仏教こそ最高の教えだと思われたし、キリスト教を学んでいるときはキリスト教こそ最高の教えだと思われた。新興宗教に関しても、やはりそこに属していたときは、「この教祖、この教団こそ本物で最高だ」と思われた。
 しかし、このようにいろいろな教えをかじって時間が経過すると(言い換えれば、頭が冷めると)、かつては「これこそ本物で最高の教えだ」と思っていたものが、実はそうではなく、欠点や弱点や汚点や問題点もあるということに気づくようになった。
 今の私は、世の中に完全無欠の教えなど存在しないと考えており、完全な指導者もいないと考えている。仮に本当にその人が覚者であり、あるいはキリストの生まれ変わりであり、あるいは救世主であるとしても、この不完全な地上世界に存在している以上、完全ではないと思っている。
 ところが、ある特定の教えにすっかり埋没している教団関係者は、かつての私のように「この教えこそ本物で最高だ」と思い込んでいる。これは単なる視野狭窄、あるいは洗脳に過ぎないと思われるのだが、とにかく教団の幹部や信者たちはそう思い込んでいるので、当然のことながら、「自分たちの教え、自分たちの教祖こそ唯一本物であり最高だ」と主張し宣伝し布教するようになる。
 そして、彼らの話を聞いていると、しだいにその通りではないかと思われてしまう。
 なぜそう思ってしまうかというと、一言でいえば、どの教団も自分に都合のよい部分しか見ていないからだ。
 たとえば、わかりやすく説明するために、非常におおざっぱな分け方をすると、キリスト教は愛の宗教であり、(原始)仏教は知恵の宗教とされている。
 キリスト教では、救われるためには愛を最高のものと考える。そしてイエスや聖書の教えを見ると、盛んに愛が説かれている。それに対して仏教は、あまり愛(仏教で愛に相当する言葉は「慈悲」)ということを語っていない。つまり、キリスト教の信者からすれば、救いに必要な愛をあまり説いていないがゆえに、仏教はキリスト教よりも劣った宗教ということになる。
 反対に、仏教徒は知恵こそ救われるために必要なものと考え、釈迦や(原始)仏典などを見ると、その大切な知恵についてたくさん説かれている。ところが、キリスト教では、知恵の重要性についてあまり説かれていない。そのため、仏教徒からすれば、救いに必要な知恵をあまり説いていないがゆえに、キリスト教は仏教よりも劣った宗教ということになる。
 では、いったいどちらの宗教が正しいのだろうか?
 私個人の見解では、どちらも一面では正しいが、一面だけでは真の救いを得ることはできないと考える。
 つまり、救われるには、愛と知恵の両方が必要なのだ。キリスト教を学ぶことも必要であり、仏教を学ぶことも必要なのである。その他にも、できる限り多くの宗教を学ぶことが必要であると思う。そうしていくうちに、真理というものの全体像が何となくわかってくるからだ。あたかも、ジグソーパズルをひとつずつはめ込んでいくうちに、しだいに全体の絵がわかってくるのに似ている。

 したがって、「これは」と思う教祖や教団を見つけたら、どんどん飛び込んでみたらどうかというのが、私の基本的な考えだ。もちろん、そのまま洗脳されてずっとその教団から抜け出せないというリスク、大金を巻き上げられたり、心のトラウマを受けるといったリスクもある。そのようなリスクがあることは、一応覚悟しておいた方がよい。
 ただ、人生の教訓というものは、実際に体験してみないと得られないものである。人生というのは冒険のようなものだ。冒険とは未知の領域へ挑むことである。未知の領域には当然、危険が待ち受けている可能性がある。しかし危険を怖れていたら、何も得られない。だから、飛び込んでみることだ。そして教訓を学んでいくことだ
 もちろん、あきらかにいかがわしい教団、インチキ教祖だとわかっていて飛び込むことはない。しかし、何回も熟慮した末に「この教祖、この教団は本物かもしれない」と気になって仕方がないのであれば、後はもう飛び込んでみるしかないのだ。
 たとえその結果、そこがインチキだとわかったとしても、それはそれで何かを学ぶことができるだろう。もっとも、そのための「授業料」は高くついてしまうかもしれないが、それは仕方がない。すでに述べたように、人生は冒険なのだから。

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