心の治癒と魂の覚醒

        

神の正体①

 これまで「霊界と生まれ変わりの真実」というカテゴリーで、霊界や生まれ変わり、カルマの法則といったものは、否定も肯定もできないものであり、結局はわからないもので、わからないものはわからないとするべきであるという、私の考えを述べてきました。
 そこで今度は、そうした霊的な次元よりも上の、究極の次元である「神」について、論じてみたいと思います。すなわち、神とは何であるかという問題です。
 もちろん、霊的な次元のことがわからないのですから、さらに高い究極の存在である神のことなど、わかるはずがないのですが、それでも可能な限り推論を働かせて、「おそらくこうではないか」というものを提示してみたいと思います。
 というのは、宗教やスピリチュアルの信奉者はもちろんですが、特にそうした信仰を持っていない人でも、神という存在が、この人生を生きる上での、ある種の基軸になっているからです。人間が神という超越的な存在に思いをはせるのは、ある種の本能のようなものではないかと思います。たとえば陰で悪いことをしようとしても、ふと「神様が見ている。神様に怒られる」などと考えて、悪事をやめたりするわけです。
 そのため、神という存在の認識をあやまると、人生を誤った方向に進めてしまう危険が出てきます。たとえば、未開な種族に見られる「神というものは、定期的に生け贄を欲している存在だ。生け贄を捧げないと怒って災いをもたらす」といったように神をとらえていると、何の罪もない人が、神の名の下に殺されてしまうといったことが起こるわけです。
 あるいはまた、イスラム過激派のように、「神は、イスラム教を否定する者を殺害することを望んでいる」ととらえていたら、人殺しが行われてしまいます。神という存在をどうとらえるかで、人を殺人者にしてしまうわけです。
 ですから、私たちは神というものを、可能な限り正しくとらえる必要があると思うのです。
 では、神の正体とは、どのようなものなのでしょうか。
 あくまでも私の考えですが、紹介してみたいと思います。

 神というと、究極かつ根源的な一者であり、完全無欠であり全知全能であるとされていますが、私はそうは考えていません。究極的かつ根源的な存在、完全無欠で全知全能な存在というものは、あり得ないと考えています。
 なぜなら、仮にそういう存在がいたとして、その存在は完全に「静止」しているからです。完全なのですから、もうそれ以上の進化はありません。完全なのですから、何もする必要がありません。「何かをする」とは、何かを達成するためにするわけで、何かを達成するということは、達成されていないものがあるということ、つまり、完全ではないことになります。
 したがって、もし完全な存在がいるとしたら、その存在は凍結して静止しているはずです。何もせずじっと固まっているわけです。いってみれば、それは死体のようなものです。成長進化しない存在は死んでいるのです。
 もし神がそういう存在であるとしたら、人間との交流もありません。交流がなければ、実質的に神は存在しないのと同じです。論じる余地がなくなります。
 ですから、神は完全無欠な存在ではなく、今なお完全無欠へと向かって進化を続けている不完全な存在であると考えます。その進化の過程は「永遠」です。つまり、終わりがありません。ちょうど無理数が永遠に数を連ねるようにです。だからこそ神は「生きている」と言えるわけです。生きた存在とは、終わりなき永遠の進化を遂げる存在ということです。

 
 神というと、人間を創造した別個の存在をイメージします。
 しかし私は、そういう意味での神というものは存在しないと考えています。
 神というのは、私たち人間の「ネットワーク」のことだと考えています。
 どういうことかというと、たとえば、生物のからだを考えてみてください。私たちのからだは、37兆もの細胞によって構成されています。言い方を変えれば、ひとつひとつの細胞が集団になった存在が、私たちということになります。細胞と私たちは独立した存在ではありません。「私」は細胞であり、細胞は「私」です。
 細胞ひとつひとつは生きており、独立した生命体です。そして、おそらく非常にシンプルではあるでしょうが、意識というものを持っていると思われます。そしてこれら細胞は、他の細胞と情報を伝達しあっています。つまり、ネットワークで結ばれています。
 このように、私たち人間とは、37兆もの細胞で構築されたネットワークなのです。
 同じように、人間というものは、神という存在の「細胞」なのです。いえ、むしろ「神とは人間という細胞が集まって構築された存在である」と表現した方がいいかもしれません。
 そして、ネットワークというものは、情報交換される関係性でありシステムということになりますから、物理的な実体というものはありません。実体はあくまでもネットワークを構成している個々の要素です。
 すなわち、私たち人間こそが実体なのであり、神というものは、ネットワークですから、実体というものはないのです。「私」というものが存在していないのと同じです。存在しているのはひとつひとつの細胞です。細胞がなくなれば「私」もなくなります。「私」というのは実体がないのです。「私」とは、細胞のネットワークが作り出した存在だからです。
 その意味では、神は存在しないことになりますが、私たちの意識内部では、神の存在を感じます。情報として感じるのです。その意味では、神は存在していると言えるわけです。
次回、引き続きこの点について、詳しく見ていきたいと思います。
 
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非凡な人


 皆様、明けましておめでとうございます。
 今年はいったいどんな一年になるのでしょうか? いま世界は、困難な課題を数多く抱えています。テロ、戦争、環境破壊、貧困、その他さまざまです。とりわけ日本においては、北朝鮮問題がどうなるかが差し迫った課題でしょう。中長期的には、少子高齢化に伴って生じるであろうさまざまな危機的状況への課題です。いずれもかなり厳しい状況にあるように思われます。
 北朝鮮の問題が来年までこのままの状態で続くとは思えませんので、何らかのところに行き着くでしょう。それが戦争という最悪の形にならないことを祈るばかりですが、どうであれ、今年はおそらく、世界が大きく舵を切る一年になるのではないかと思います。
 いま世界は、「分断」の方向に揺れています。この傾向はもうしばらく続くと思います。今年はそれが過剰になるかもしれません。しかし歴史は、振り子のように対極の間を行ったりきたりしていますから、いずれ分断から「統合」へと振れてくるはずです。
 ある程度、こうした両極性を行き来するのは自然であるかと思いますが、極端になりすぎると危険です。特に分断に向かう場合は非常に危険です。分断は、差別、憎悪、争いを生むからです。その最たるものが戦争です。
 ですから、極端になりすぎてはまずいのです。極端にならないよう、バランスを取らなければなりません。バランスを取れる人々が求められるのです。

 成功する人というのは、世の中の流れの一歩先を読む人です。あまり先を読みすぎても成功しません。トランプ大統領が成功した(大統領に選ばれた)のも、分断に傾いていくという世の中の流れの一歩先を読んだからです。
 しかし、一歩先を読んで行動する人は、ともすると流れを極端に加速させてアンバランスにさせてしまいます。その点でもトランプ大統領は典型的な人物です。
 それに対して、いわゆる聖者だとか覚者という人は、一歩や二歩どころか、もっとはるか先を読んでいます。ですから、たいていその時代の人々からは理解されません。イエス・キリストなどはその典型です。もちろん、マザーテレサやガンジーのように、理解されて賞賛された聖者もいます(それでも認められるまではかなりの辛酸をなめました)。しかしそれは、たまたまそうなっただけです。
 芸術家などもこの傾向があります。死んでしばらくしてから作品が理解され、賞賛されたりするのです。ゴッホなどはその典型かもしれません。

 真の宗教家や芸術家というものは、自分を売るために世の中の流れに迎合することなく、自らの信念や内的直感に正直に生きています。それがたまたま時代の流れに合えば理解され賞賛されますが、時代の流れにあわなければ無視され、ときには迫害さえ受けたりします。
 いわゆる「平凡な人」と「非凡な人」の違いというのは、ここにあると思います。特殊な才能があるとか、すごいことをやってのけたというよりはむしろ、時代の流れに迎合せず、遠い未来の先を読んで、その信念や内的な直感に敢然と従う生き方ができる人ではないかと思います。時代にあわなければ、そういう人は世の中から「変人」扱いされます。もう少しましな評価が与えられる場合は「孤高の人」となって敬遠されます。

 時代の流れに迎合しない生き方は孤独です。さまざまな面で社会的にも不利になりやすいです。しかし、そうした「非凡な人」こそが、極端に傾きだした世の中にバランスをもたらすことができる可能性を持っていると私は考えます。
 真理というものは、極端な考え方の中には決して存在しません。真理は、右にも左にも、白にも黒にも存在しません。真理は、両者が統合されたレベルに存在しているからです。
 そのことを見通した人は、世の中が右に流れれば「左だ!」と叫びます。白に流れれば「黒だ!」と叫びます。だから、人々から憎まれ嫌われ、笑われ蔑まれます。
 それでもなお、その生き方を貫くのです。
 それゆえに、そういう人々は「非凡な人」なのです。
 私はいま、たくさんのそういう「非凡な人」が、宇宙から求められているように思います。「世の中から」ではありません。「宇宙から」です。

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クリスマスによせて


 今年もクリスマスがやってきます。クリスマスは、本来はクリスチャンがイエスを偲び、彼の教えを再確認する日であると思うのですが、今では単なるお祭りに過ぎなくなりました。
 クリスマスの日に寄せて、私が聖書の言葉の中でもっとも好きな、また、もっともイエスの教えを表していると思う言葉を、以下に抜粋してお贈りします(英語版の聖書から私が訳したものです)。

コリント人への手紙 第1-13章

たとえ、私が人の言葉、天使の言葉で話したとしても、
愛がなければ、
やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

たとえ、私が預言の才能を持ち、またあらゆる奥義とあらゆる知識に通じ、
山をも動かすほどの信仰を持っていたとしても、
愛がなければ、
何の価値もありません。

たとえ、すべての財産を貧しい人たちに分け与え、
自分のからだを焼かれるために捧げたとしても、
愛がなければ、
何の役にも立ちません。

愛は寛容であり、愛は親切です。
妬むことをせず、自慢せず、高ぶりません。
礼儀に反することをせず、利己的にならず、怒らず、
人のあやまちを記憶にとどめません。

不正を喜ばず、真理を喜びます。

愛は決してあきらめず、その信念と希望と忍耐は決して色あせません。
愛は永遠です。
預言は一時的なものであり、異言ならばやみ、知識ならばすたれます。

なぜなら、私たちの知識も預言も一部分だからです。
完全なものが現われたら、部分的なものは消え去ります。

私が子供であったときには、子供らしく話し、子供らしく感じ、子供らしく考えました。しかし大人になった今、子供らしい生き方は失われてしまいました。

今、私たちは鏡に映して見るようにぼんやり見ていますが、その時には、顔と顔を向き合わせて見るでしょう。
私の知るところは、今は一部分にすぎません。しかしその時には、私が完全に知られているように、私も完全に知ることになるでしょう。

このように、いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。
その中でも一番偉大なものは、愛です。


※信仰と希望と愛がキリスト教ではもっとも重要視されていますが、この三つのなかで「愛」が一番偉大だと言っています。信仰よりも、愛の方が偉大だと言っているのです。

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自殺した人の死後

 スピリチュアルの教えでは、自殺した人は死後、自殺した罪を償うために、暗く寂しい場所にひとり取り残され、非常に長いあいだ苦しみ続ける、といったことを主張しています。チャネリングだとか霊能者によって多少の違いはありますが、死後は苦しまなければならないというのです。
 しかし、これまで考察してきたように、魂だとか霊界だとか、カルマの法則といったものが存在するかどうか、非常に怪しいことを考えれば、自殺した人は死後に苦しむという主張には、何の根拠もなく、信憑性がかなり低いと言わざるを得ません。

 なぜ自殺が悪いかという大きな理由は、スピリチュアルの教えによれば、地上人生の目的は魂を成長させることなのに、自殺によってその時間を短縮させ、成長の機会を自ら奪うからだといいます。たとえるなら、学校を早退したようなものだというわけです。
 しかし、自殺といっても、その動機はさまざまです。カルマの法則では、動機がよければ罪にはならないとされます。あるいは、戦争など仕方がない状況での殺人は罪にならないとされます。要するに、動機や状況によって判断がわかれるのです。
 ところが、自殺の場合は、私の知る限り、動機や状況が考慮されているという主張を聞いたことがありません。自殺した人はすべて死後に苦しむと言っています。
 これはおかしなことです。
 カルマの法則がさまざまな事情によってその結果が異なるというのなら、自殺もそう扱うべきです。たとえば、ブラック企業で過労となり、そのためにうつ病を発症して自殺した人は、どうなのでしょうか。誰でも脳がやられれば自殺衝動が高まります。つまり、こうした場合の自殺というのは、自殺というよりはむしろ「病死」なのです。病気で自殺した人も、死後に罰せられて苦しむのでしょうか? なぜ、真面目にさんざん苦しんで仕事をして、そのために脳がやられ、死んだ後になっても、さらに苦しみを与えられなければならないのでしょうか? むしろ、自殺した人より、自殺に追い込んだブラック企業の社長の方が、死後に苦しむべきだと思うのですが、そのようなことを言っている霊能者やスピリチュアリストには会ったことがありません。

 霊能者が、自殺した人の死後を霊視し、その人が苦しんでいる姿を目撃するというのは、自殺した人の生前が世界に記録されていて、その情報を読み取り、それにイメージがくわえられて、あたかも自殺した魂が苦しんでいるというビジョン(幻想)を見ているに過ぎないと私は考えます。霊能者と呼ばれる人は、過去の情報を読み取っているに過ぎないのです。自殺した人は、常識的に考えても、そうとう苦悩していたに違いありません。その苦悩の情報を読み取っているので、今も死後で苦悩しているのだと錯覚しているのです。

 もし、地上人生という学校に滞在する時間を短縮させる自殺が罪であるというのなら、不健康な生活をして寿命を縮めている人も同罪ということになるはずです。たとえば、タバコを1本吸うと15分寿命が縮まるといわれています。仮に、タバコを吸わなかったら80歳まで生きられた人が、タバコを吸ったために60歳で死んだとしたら、この人は60歳で自殺したのと同じです。
 もちろん、タバコは寿命を縮めるということを知らないで吸ったのであれば、それはある種の過失であるから、自殺と同じとは言えないでしょうが、寿命を縮めるとわかっていて吸い続けたのであれば、それは自殺しているのと同じです。つまり、喫煙というのは「慢性的な自殺行為」なのです。
 ところが、今日ではタバコは寿命を縮めることがあきらかにわかっていますが、タバコを吸って寿命を縮めている人が、死後に苦しむなどという話は聞いたことがありません。
 霊界の高級霊というのは、地上の人間よりはるかに叡智に満ちているとスピリチュアルでは説かれています。であるなら、タバコが寿命を縮めるものであることは、むかしからわかっているはずです。寿命を縮める、つまり、この世での成長の機会を奪うものは罪であるということなのですから、タバコを吸うことは、そうとう罪となるはずです。
 しかし、タバコの害を訴えているスピリチュアル・メッセージなど、聞いたことがありません。それどこから、ヘビースモーカーのスピリチュアリストさえいます。
 結局、霊的な世界からのメッセージなどというものはなく、その情報源はこの世界にあるということなのだと思います。

 このように見てくると、スピリチュアルの教えというものは、けっこういい加減であることがわかるのです。高級霊のメッセージなどと言われるものも、「よいことをしなさい、愛しなさい」といった、陳腐な道徳とそれほど変わらないことばかり言っています。霊界の様子といったことも、SF作家くらいの想像力があれば、簡単に書けるような内容ばかりです。
 もし霊的真理というものが本当に存在して偉大であるなら、時代を先取りした斬新な教え、たとえば高度な科学や医学の理論といったものを、すでにむかしから教示されているはずです。しかし、そうしたものは一切ありません(エドガーケイシーは具体的な治療法を教示しましたが、それは民間療法レベルを超えていませんので、その当時の情報源から仕入れた可能性があります)。どうにでもごまかしができる、あいまいで、誰もが想像力で作り出せるようなことしか言っていないのです。
 にもかかわらず、「これは霊界の高級霊によるものだ」と言われると、何となくありがたくてすごいものだと錯覚してしまうのです。ある種の権威主義です。仮に、チャネリングやスピリチュアル・メッセージを、精神病院の患者が書いたものだと言われて読んだならば、おそらくここまで支持はされなかったでしょう。内容は同じなのに、「霊界の高級霊」といった言葉で惑わされてしまうのです。
 
 自殺というのも、キリスト教では自殺は罪と教えられていたり、そもそも死というものが本能的に忌み嫌われているので、「自殺は悪である」という価値観に私たちの脳は染まっており、そのために、自殺した人の死後は苦しむという幻想を見るのではないかと、私は考えています。

 何を信じようと個人の自由であると思いますが、あたかも自分の信じていることが真実であるかのごとく、「自殺した人の死後は苦しむ」と主張している人たちがいることは、困ったことだと思っています。彼らは、それで自殺する人を減らそうと思っているのかもしれませんが、本当に自殺するくらい悩んでいる人は、死後に苦しむと言われたくらいでは自殺はやめません。かえって精神的に追い込まれ、自殺を加速させてしまう危険もあります。本当に苦しいときは、とにかく今の苦しみから解放されることしか考えられないのです。死後にもっと苦しむと言われたくらいで、「それならやめよう」などと思える人は、まだ本当に苦しんではいないということです。その程度の苦しみなら、スピリチュアルなど持ち出さなくても、他にもっとよい支援の手段があります。

 世の中には、子供を自殺で失った親がいます。たとえば、いじめを受けて苦しみぬいた末に自殺してしまった子供などです。そんな親の気持ちになってみるべきです。さんざんいじめで苦しんで、さらにそのうえあの世でも暗く寂しいところでひとりぼっち、非常に長い間苦しんでいるなどと思ったら、その親の胸は張り裂けんばかりの苦悩に突き落とされるでしょう。スピリチュアルの教えを盲信している人たちは、そのことがわかっていません。もしわかって言っているのなら、スピリチュアルでもっとも大切に思われている「愛」が欠けています。つまり、スピリチュアルなど何も実践していないのです。
 もちろん、いかに辛くても、それが真実であるならば、認めなければなりません。しかし、スピリチュアルの教えは真実であると証明されたわけではなく、それどころか、かなり怪しいものであることは、すでに見てきたとおりです。スピリチュアルといっても、要するにひとつの「信仰」に過ぎません。
 その個人的な信仰を、脅すような内容で人に押し付けることは、スピハラ(スピリチュアル・ハラスメント)です。愛を重んじるスピリチュアリストのすることではありません。「自殺した人は死後に苦しむ」などと、ある種の英雄気取りで声高に主張している人たちは、スピリチュアリストではなく、スピリチュアルの仮面をかぶった、単なる宗教的エゴイストたちです。

 では、自殺した人の死後はどうなるのでしょうか?
 もちろん、それはわかりません。しかし、仮に自殺が悪だとしても、悪を矯正するものは罰や苦しみではなく、「教育」です。悪というものは、根源的には無知から生ずるものだからです。ですから、「自殺した人はその罪を受けて苦しむ」などという主張は、まったく幼稚であり、時代遅れの未開な考え方なのです。知恵のかけらもありません。おそらく、古い時代の教育方針に染まった心が、そのような幻想を作り上げたのでしょう。
 仮に死後の生といったものがあるとしても、自殺で死のうと、その他の原因で死のうと、その後の状態はまったく同じだと、私は考えています。善悪といったものは、人間が勝手に作り上げた幻想だからです。宇宙には善も悪もありません。宇宙的な見地からすれば、自殺とは、ただ単に、自分で自分の肉体の機能を止めた、というだけです。それ以上でも、それ以下でもありません。

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宗教やスピリチュアルは「足場」のようなもの


 これまで、霊界や生まれ変わり、カルマの法則といった、宗教やスピリチュアルの中核的な教えについて、そうしたものは存在しない可能性があることを説明してきました。
 くどいようですが、否定しているわけではありません。否定する根拠も肯定する根拠もないことを申し上げてきただけです。

 しかし、霊的なことを学ぶこと自体は、最初の段階では有意義であると思っています。それにより、とりあえず人生の生きる方向性の骨格というものを形成できるからです。神や霊界といった、地上レベルを越えたところに価値観を見出せば、地上の瑣末な出来事に心を奪われることも少なくなりますし、生まれ変わりやカルマの法則のことを学べば、よい行動をし悪い行動をするのはやめようと思うでしょう。狂信や盲信、排他的独善性といったことさえなければ、宗教やスピリチュアルの教えは人を立派にさせてくれます。

 ですから、私は宗教やスピリチュアルを信じている人と話をするときは、霊的なことが存在するとして話をします。「二枚舌」と言われても仕方がありませんが、私は相手が幸せになれるのなら、それでいいと思っているのです。実際、霊的なことは存在するのかもしれませんし。宗教やスピリチュアルのことをまるで知らない人には、それに関する話をして、とりあえず知識を身につけてもらうことも、必要とあればいたします。

 ただ、ある程度、精神性を向上させたならば、宗教やスピリチュアルの教義といったものは、さらなる精神性の邪魔になるのではないかと考えています。
 なぜなら、真の宗教性や霊性というものは、教義といった知的レベルの領域から発するものではなく、もっと深い意識レベルから発するものだと思うからです。「教義がこう言っているからこうしよう」というのでは、ホンモノではないと思うのです。宇宙の法則や天の摂理と完全一体になったとき、それは知性や知識といったものによらない、ありのままの生き方であるはずです。親鸞の言葉を借りれば「自然法爾(じねんほうに)」ということになるでしょうか。この自然法爾こそ、宗教性や霊性がめざすべきものだと思います。このとき、いかなる束縛からも自由になっているはずです。宗教やスピリチュアルの教えからも自由になっているはずです。

 つまり、宗教やスピリチュアルの教義にとらわれていると、自然法爾の妨げになってしまうと思うのです。宗教やスピリチュアルさえも、「束縛」になるということです。最終的に宗教やスピリチュアルさえも捨てたとき、逆説的ですが、宗教やスピリチュアルのゴールに達するのではないかと考えています。
 そして、そのゴールに達したときには、霊界があろうとなかろうと、生まれ変わりやカルマの法則があろうとなかろうと、どうでもよくなるのだと思います。
 たとえるなら、宗教やスピリチュアルというものは、建築の「足場」のようなものです。家を建てるには、まず足場を構築しなければなりません。しかし、家が建ったら、足場は不必要であるばかりか、邪魔になります。あくまでも宗教やスピリチュアルは、その最終的なゴールへと向かうための足場のようなものであると、私は考えます。
 ですから、私はこれからも、あるときは「足場」を構築し、あるときは「足場」を破壊するようなことを、申し上げていきたいと思っています。矛盾したことを申し上げていると思われるかもしれませんが、その真意は、以上述べた理由からです。
 自他が幸せになり、世界が平和になりさえすれば、宗教やスピリチュアルの教義など、どうだっていいことではないかと、私は思っているのです。

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